サーロフのセラフィーム「聖霊に満たされた人」

【神の栄光を受けた最初の人】 主イエスは「神の栄光を受けた最初の人間」(=栄化された人)です。それは、やがての再臨の時に、私たちにも与えられる恵みの最初の実現です。 ▽この恵みは、極めて特別な経験として、使徒たちが地上でキリストの栄光を垣間見たように、天国の前味として私たちも地上で経験できる可能性が開かれています。

サーロフのセラフィーム、
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19世紀初めのロシアにサーロフのセラフィームという修道士がいました。非常に長く厳しい孤独な修道生活の後に、セラフィームが人々のための働きを始めると、数えきれないほどの病気の癒しや、将来を見抜く洞察力があり、祝日には何千人もの人々が彼の所を訪ねて来たそうです。

セラフィームは、クリスチャンが一切の罪を悔い改めて「聖霊を獲得すること」――プロテスタント教会の用語では「聖霊に満たされ続けること」――が、クリスチャンの人生の唯一の目標だと教えました。聖書に従ってあらゆる罪を悔い改めて主に立ち帰る時に、聖霊が私たちの内側に働いて神の国を打ち立て、弟子たちが見た主イエスの威光のように、神の光が私たちの内を照らして、罪の跡を洗い清めます。

セラフィームによって重い病気が奇跡的に癒され、彼の親しい友人/弟子となったニコラス・モトヴィーロフという人がいました。この師弟の会話は、ロシア正教の霊性の最も優れた例として繰り返し伝えられています。 ▼寒い冬の朝、森の外れで弟子のモトヴィーロフがセラフィームに尋ねます。

弟子:「どのようにしたら、私が神のうちにいることを知ることができるでしょうか?」

セラフィーム:「それはとても単純なことです。すでに話した以上に、どんな説明が必要でしょうか。友よ、私たちは、今この瞬間に神の霊のうちにいるのです。……どうして私をみつめようとしないのですか。」

弟子:「父よ、私はあなたを見つめられません。あなたの目から光が放たれて、あなたの顔は太陽よりも明るくて、あなたを見つめると目が痛いのです。」

セラフィーム:「恐れることはない。この瞬間にあなたもまたわたしのように明るい光を放っているのです。」セラフィームは弟子のそばに身をかがめて低い声で言いました。「わたしたちにふり注いでいる無限の愛に感謝しなさい。…私は十字を切ることさえせず、ただ心の中で神に語りかけ祈るだけで十分だったのです。主よ、この人が肉眼であなたの霊の臨在をはっきりと見るのにふさわしい者としてください。……私の友よ、あなたが見たように、主はすぐにこの卑しい私の祈りを聞き入れて下さった。…私たち二人に恵まれたこの賜物についてどれほど神に感謝したらよいのでしょうか。砂漠の修道士たちでさえ、このような神の愛の現れにめったに恵まれなかったのです。……私の友よ、どうして私の顔を真直ぐに見つめようとしないのですか。単純な心をもってご覧なさい。主はあなたと共におられるのです。」

弟子のモトヴィーロフは、目もくらむような強い光の中で、すぐそばで語りかけるセラフィームの顔の動きが分かり、声が聞こえ、手で肩をつかまれているのが分かるけれど、まばゆい光で長老の手も、相手のからだも自分のからだも見ることができません。彼は畏敬に満ちた恐れに打たれます。

セラフィーム:「今どんな気持ちですか」

弟子:「この上なく良い気分です」

セラフィーム「どんなふうに良いのですか」

弟子:「私のたましいの中にすばらしい静けさと平安を感じて、言葉では言い表せません。」

セラフィーム:「神を愛する者よ、これは、『わたしはあなたがたにわたしの平安を与えよう』と言われた平安、人のすべての思いを超える平安です。 ほかに何を感じますか。」

弟子:「心の隅まであふれんばかりの喜びです。」

セラフィーム:「聖霊が人の上にくだり、その溢れる力が彼を覆いつくす時、魂は言い尽くせない喜びにあふれるのです。なぜなら、聖霊に触れる人はみな喜びに満たされるのですから。天国の前触れがこれほど甘美なものであるなら、悲しんでいる者のために天国で備えられている喜びは何と表現すれば良いのか。友よ、あなたもこの地上の生涯で十分に泣いてきました。主はどんなに大きな喜びをもって、この地上の生涯でもあなたを慰めてくださることがお分かりになりますか。……

主がすでに今あなたを慰めようとして送ってくださった喜びをじっとかみしめなさい。今こそ働き、いつも努め励み、キリストの姿ほどの完全な背丈に達しようといよいよ大きな力を得なければなりません。……」

キリストの光は、悔い改めて神に立ち帰る人の内に差し込み、キリストに似た姿に私たちを造り変えます。何にも揺るがされない平安・変わることのない喜びを与えます。それを妨げるのが、私たちの魂の内にある罪です。罪が私たちの内の聖霊の働きを妨げます。私たちが、平安がない時、喜びがない時、神に喜ばれない何か、捧げ切っていない何か、不徹底がないでしょうか。神に全く従い、捧げた心の内に、聖霊は来てくださり、温かい光をもって、平安と喜びをもたらしてくださいます。

セラフィームは、クリスチャンの生涯の目標は「聖霊を受けること」(=私たちの言葉遣いでは「聖霊に満たされ続けること」)以外であってはならないと強調したように、絶えずへりくだって悔い改め、聖霊の満たしを求めましょう。この恵みの内に、へりくだりと愛を通して、平安と喜びに歩むことを求めましょう。


聖書とのつながり:礼拝説教での引用

マタイ17:1-9「キリストの威光」

マタイ17:1-9「キリストの威光」-「イエスは…高い山に登られた。…彼らの目の前でイエスの姿が変り、…顔は日のように輝き、…衣は光のように白くなった。…モーセとエリヤが……

参照:
N.T.ライト「シンプリー・ジーザス」11章、
ゴードン・マーセル「キリスト教のスピリチュアリティ」5章、
V.ロースキィ「キリスト教東方の神秘思想」11章、
セルゲーイ・ボルシャコーフ「ロシアの神秘家たち」7章