フリッツ・ボーデルシュヴィング「ナチスの安楽死政策から6000人の障がい者を守った牧師」

ボーデルシュヴィング牧師

フリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィング(子)牧師

ナチスの安楽死政策から6000人の障がい者を守ったフリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師の生涯を紹介します。フリッツというあだ名で知られるボーデルシュヴィング牧師は、1877年に生まれます。

父親は牧師で、ドイツのビーレフェルトという町で、産業化の波に取り残されていたてんかんの患者のための家「ベーテル」を始めた人物で、この施設は数千人規模にまで大きくなりました。

息子のフリッツは、やがてプロテスタントの牧師となり、26歳でベーテルの副牧師となります。忍耐強く働き者のフリッツは、父と周囲の人々の間の関係を良好に保ち、絶大な信頼を得ました。第一次世界大戦中、ベーテルには30の野戦病院ができ、3万人を超える負傷兵が収容されました。ドイツは第一次世界大戦に負けてハイパーインフレーションが起こりますが、その中でも多くの寄付が集まり、ベーテルの働きは次々と拡充されました。

1933年にヒトラーが政権を取ると、教会の自由を求めた教会指導者の多くがナチスとの対決路線をとりました。その中で、フリッツはベーテルの人々を守るため、意識的に闘争を避け、ナチス幹部とも対話を続けました。

ヒトラーは、優生思想に基づいて、社会に役立つ者を残し、役立たない者を抹殺しようとし、1939年、障がいを持つ人を安楽死させる法律を成立させました。41年に法律の実施を公式に通達た時までに、すでに7万人の障がい者が秘密裏に抹殺されていました。当時ベーテルにも6500人の人々がその対象となる危険がありました。

1941年、患者たちの労働能力を問う申告書がベーテルに届きます。フリッツは迷わず、一切記入しないように指示し、ナチス幹部に抗議します。同僚の牧師が逮捕されますが、フリッツは著名な牧師であったため、逮捕は免れました。

1941年、18名の医師視察団がベーテルを訪れ、強制的に書類を奪い、患者の能力を記録していきました。この日、ヒトラーの側近の医師で保健衛生局の委員長であったブラント教授が、ちょうどベーテルに来ていました。フリッツ牧師は、これまでに彼とやり取りを重ねてきており、この時、二人だけで話をしました。その間にも、医師団は患者たちの診断を続けていました。

ブラント教授は安楽死の必要を理路整然と説きました。「抹殺されねばならないのは、もう社会に適応しなくなった者です。そのような不治の病をもったまま生きることは本人たちにも不幸せなのです。安楽死によって、彼らは幸せになるのです。それに、身内や親戚の物だって幸せなのです。さらに、国のため、多くの國人のために足手まといになっていますから、国にとっても良いことなのです。」

フリッツは話し始めます「この世の中には、生きるに値しない人とか、社会に不適応な人はおりません。神は決してそのような人間をおつくりになりませんでした。国家にとって有用か、国家の目的に合うかの問題は、人間個性の尺度にはそぐわないのです。…安楽死は神の掟に反します。それにキリスト教徒にとってこのような安楽死は非難されるべきです。なぜなら、イエス・キリストは一番みじめな人のために十字架にかかり、復活なさいました。国民を助けるために、何千という人々を犠牲にしてはなりません。それは大きな間違いです。他の健常な人たちを助けるという大義名分で、非人間的なことをすることは何人にも許されません。」「あなた方は世界のクリスチャンの信をなくします。もっと見えない敵が増えていきます。ドイツだけでなく、世界の信者が敵になります。」

3時間後、戦いに決着がつき、フリッツは「生涯で一番辛い戦い」に勝ちます。彼は、教授に、全ドイツでこの行為を停止するように要請しました。

医師団の訪問の噂は、たちまちベーテル中に広がり、多くの患者を恐怖に陥れました。フリッツは人々を励まし続け、直ちに手紙を書き、忍耐強く待ちました。1週間が過ぎ、2週間が過ぎても、人々を連れ去る抹殺者たちは現れず、ついに、ベーテルで障がい者抹殺の計画が打ち切られたことが、明らかになりました。

1945年4月、第二次世界大戦が終結します。フリッツ牧師は翌46年1月に亡くなります。1948年6月、ナチスの医師であったブラント教授は、ニュルンベルクで国際医師犯罪裁判により絞首刑に処せられました。裁判の中でブラント教授は、唯一本気で警告してくれたのは、フリッツ・ボーデルシュヴィングであった、と述べました。

ベーテル訪問記

ベーテルは、当教会の里子牧師が大学時代に留学して1年間過ごしたビーレフェルト市にあります。総合医療福祉施設であるベーテルの名前が、町の名前になっています。

民泊施設のオーナーが道を案内してくれて、見晴らしの良い丘からベーテルの町を一望することができました。

友人との待ち合わせまでの時間に近くを散策していると、インターネットでベーテルの資料館らしきものを見つけたのですが、なかなか見つからず、町の人に聞いても分かりません。あきらめかけた時に、最後にもう一度見に行くと、小さな建物を見つけました。しかし、残念ながら閉館時刻を過ぎていました。里子牧師は、せっかく日本から来たのだからと勇気を振り絞って事務所の方と交渉し、なんと中を見せて頂きました。そこは、ベーテルの発祥の地であり、ベーテルの歴史を物語る貴重な資料が展示されていました。

ベーテルの展示館を見学させて下さり、その歴史に触れさせてくださった神様に感謝し、神様の真理に立って戦ったボーデルシュヴィング牧師父子の歩みに感動した、旅の貴重な一コマでした。


メッセージでの引用

ヨハネ10:11-18「良い羊飼い イエス・キリスト」

イエス・キリスト」-「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。…わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知ってい…

【参照】
橋本孝「福祉の町ベーテル ヒトラーから障害者を守った牧師父子の物語」p109-193