レント(受難節)黙想
【40日の断食】
主イエスは荒野で40日間断食し、悪魔の誘惑を受けられました。ここに、いくつかの象徴があります。
①最初の人アダムは悪魔の誘惑に負けましたが、主イエスは誘惑に勝たれました。主イエスに結ばれた私たちも、誘惑に勝つ力を頂いています。
②イスラエル民族は出エジプト後、荒野で40年間不従順でした。しかし、主イエスは申命記の御言葉に従い通しました。
③主イエスは洗礼(3:21)後に誘惑を受けました。クリスチャンも洗礼後、祈りと断食と御言葉によって、悪魔に勝利します。 主イエスの40日間の断食は、受難節(レント)のモデルです。祈りと御言葉をもって歩みましょう。
<レント黙想① 最後の晩餐>
今回からこのコーナーでは、受難節に関連した絵画を紹介して参ります。十字架に架かる前夜、主イエスは弟子たちと共に過越の食事をされました。弟子たちにパンとぶどう酒を分け与え、十字架で裂かれる身体と流される血を暗示し、「新しい契約」を宣言されました。その直後、主イエスは弟子たちの中の裏切り者の存在を明らかにします。プッサンは部屋を出るユダの姿を左端に描いています。食事の交わりから静かに抜け出し、主イエスに背を向けて歩いて行くユダは、光から闇へと踏み出しています。「…光の子どもらしく歩みなさい」(エペソ5:8)Live as children of light!
<レント黙想② ゲツセマネの祈り>
エル・グレコ「オリーブ山のキリスト」 十字架の前夜、逮捕直前の祈りです。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)。天使が主イエスを力づけます(同43)。 弟子たちは眠気に耐えられず、眠り込んでいます。「'誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ26:41)。
主イエスが祈り終えると、主イエスを捕らえようとする群衆が近くに迫っています。「見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」(同45~46)。 試練の中で、私たちはどう祈るでしょうか。
<レント黙想③ 主イエスの捕縛>
ゲツセマネでの祈りが終わるや否や、剣や棒を手にした集団が主イエスを捕らえにやって来ました。ユダの接吻が裏切りの合図でした。しかし、主イエスは静かに告げます。「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。…すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」(マタイ26:52,56)。
主イエスは、逮捕されても抵抗しませ ん。人々の目はイエスに集中していますが、イエスの瞳はユダに向けられています。また同時に、主の心の眼差しは慈しみと悲しみに満ち、逃げ去った弟子たちにも注がれているのではないでしょうか。そして「目を覚ましなさい。あなたはこの状況をどう見ますか」と、現代を生きる私たちにも問いかけています。真実を見極める目を持ちたいものです。
<レント黙想④ 主イエスの裁判>
「大祭司は言った、『あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ』。 イエスは彼に言われた、『あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう』 (マタイ26:63-64)。」
主イエスは敵の前で、旧約聖書のキリスト預言をご自分に当てはめました(詩110:1,ダニ7:13)。この言葉は、ご自身が地上の王であるばかりか、神の右の権威の座で、全世界に神の主権を行使するという明確な主張でした(ボウカム「イエス入門」)。これが神への冒涜とされ、死刑の根拠とされました(マタイ26:65-66)。
「主イエスは神の子キリストなのか」。あなたは何と答えられますか?
<レント黙想⑤ 十字架の道行き>
「イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴダ)という場所に出て行かれた」 (ヨハネ19:17)。
不当な裁判で死刑判決を受けた主イエスが刑場へ向かう道は「ヴィア・ドロローサ」と呼ばれます。鞭で打たれ傷ついた体で、自らを磔にする十字架を背負う主イエスの姿は今にも倒れそうです。十字架上で身体が引き裂かれる前から、主イエスの心は悲しみで裂かれていたことでしょう。 主イエスは言われました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)。主イエスの死と復活により、私たちの死は終着点でなく、永遠への通過点になりました。
主イエスよ、あなたに従って参ります。どうぞ導いてください。
<レント黙想⑥ 十字架降架>
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)。
主イエスの生涯は、十字架に向かう生涯でした。多くの人々の罪のためにご自身の命を捧げられた、仕える者の生涯でした。キリスト教の本質は、言葉による教えではなく、このキリストご自身との出会いにあります。この絵では、母マリアが主イエスと同じ姿勢で描かれ、主イエスの苦しみを共に味わうことが表現されています。
「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。」(ヨハネ12:25-26)