ヨハネ12:20-33「豊かな実を結ぶ一粒の麦」

2024年3月10日(日)礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ12:20-33
説教 「豊かな実を結ぶ一粒の麦」
メッセージ 堀部 舜 牧師

一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。ヨハネ12:24

【今週の聖書箇所】

20祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。21彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。22ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。23すると、イエスは答えて言われた、

「人の子が栄光を受ける時がきた。24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。25自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。26もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。27今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。28父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。29すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。30イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。31今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。32そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。33イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。

ヨハネ12:20-33

先週の午後は、ビオラコンサートがもたれました。一流の生演奏を聞き、コンサート後はお茶の時を持ち、とても良い時が持てました。

【一粒の麦:田内千鶴子】

韓国の3000人の孤児の母として知られる田内千鶴子という人がいます。韓国の木浦という町で、朝鮮総督府の職員の娘でクリスチャンだった千鶴子は、孤児院の働きに携わるようになり、孤児院の園長で、キリスト教の伝道師だった尹致浩(ユン・チホ)と結婚します。周囲の反対を押し切って、日本人と韓国人の結婚でした。

第二次世界大戦が終わると、多くの日本人は帰国しますが、千鶴子は夫との間に子どもがあり、韓国にとどまります。日本人への弾圧が始まると、村人たちが二人を殺そうとしますが、孤児たちは泣きながら二人を守りました。

朝鮮戦争が始まると、共産軍が木浦を占領し、夫の尹致浩を共産党に協力させ、日本人である千鶴子を処刑しようとします。しかし、千鶴子は韓国人孤児を献身的に育ててきたため、死刑を免れます。▼ところが、わずか2か月後に国連軍が木浦を奪還します。夫の尹致浩は、共産党に協力した容疑で逮捕されます。なんとか釈放されますが、戦時中の混乱の中で食料の調達に行った先で、行方不明になります。

孤児院は危機に陥り、10歳以上の子どもには自活を求め、千鶴子は食糧難の中で幼子たちを養うため、残飯を集め、食べ物をもらい、毎日歩き回りました。大きい子供たちは魚を釣り、自分の食べ物を残して、幼な子たちのために持ってきたと言います。激しい苦難の中で、「夫が帰ってくるまでの辛抱」と言い聞かせて働き続け、ついに、3000人の孤児を育てました。1963年に韓国の文化勲章を受章し、1968年に亡くなると市民葬が行われ、三万人の市民が参列し、「木浦が泣いた」と言われました[①]

24一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

死と隣り合わせの過酷な試練の中で、ひたすら耐え、主にすがり、自分を捨てて愛に生きた一人の人の生涯が結んだ、豊かな実であったと思います。

【聖書の背景】

今日の聖書の箇所は、主イエスが十字架にかかられる受難週の出来事です。直前に主イエスがエルサレムに入場された記事があります。主イエスの人気は高まり、主イエスの敵対者が「世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」と言ったほどに、人々は主イエスを熱狂的に迎えました。 ▽季節は過越の祭りの直前で、周辺諸国から多くの巡礼者たちがエルサレムに集まってきました。ユダヤ人ではなくギリシャ人の礼拝者たちが、主イエスを訪ねてきた時、いよいよ、主イエスの受難と栄光の時が動き出します。

主イエスの十字架は、①死を越えて豊かな実を結び、②死の十字架がむしろこの世を支配する悪魔を追い出し、③ユダヤ人もギリシャ人も全ての民族を神のもとに招きます。十字架で、死と栄光が一つとなっています。

■【1.「時」を告げる来訪】

20祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。

主イエスの「受難の栄光」の時を告げるしるしとなったのは、外国人の礼拝者たちでした。主イエスの地上の生涯では、宣教は基本的にイスラエル人に向けられていました。しかし、十字架と復活の後には、その救いはユダヤ人にもギリシャ人にも全ての民族・この「世」全体に向けられていきます。

■【2.命の主の招き】

一粒の麦 主イエス

続く主イエスの言葉は、弟子たちに向けられています。

23すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。

これまでは、「時は来ていない」と言われていました。しかしここでは「時が来た」と、その時がすでに到来しています。▽ユダヤ人もギリシャ人も、ご自分のもとに引き寄せる主イエスの十字架の時は、すでに到来しています。31節では「今」が2度繰り返されています。聖書で大昔から預言されてきたメシア預言・「終わりの日」の預言は、まさに成就しようとしています。

それは主イエスの「死」の時ですが、主イエスはそれを「栄光を受けるため」と言われます。▽「死」の後に、復活と昇天の「栄光」があります。それだけでなく、「死」そのものがキリストの「栄光」です。自分を投げ捨てて、「死」に至るまで神に服従した服従にこそ、キリストの神としての「栄光」があるのです[②]

24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

「一粒の麦」とは、第一に主イエスを指します。▽命の働きは、どんどん成長して衰えることがない勢いを持ったイメージがあります。しかし、一粒の麦のたとえは、命とは不連続な「死」を通ってこそ、豊かな実を結ぶと教えます。▼主イエスの命は、私たち多くのクリスチャンに、永遠の命の賜物をもたらしました。それは主イエスの十字架の死から生まれた豊かな命です。

【私たちへの招き】

まことの麦である主イエスが死を通って豊かな実を結ぶなら、その実である私たちも、死を通って豊かな実を結ぶ者となります。

26もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。

この箇所のギリシャ語は、「わたし」という言葉が何度も出てきますが、全て強調形です。「このわたしに仕えようとする人があれば」「このわたしに従って来るがよい」「このわたしのおる所に」「このわたしに仕える者も」。▼普通の人間が言うなら、恐ろしい言葉です。しかし、キリストご自身の招きだから、恵みです。主イエスと共にいることこそ、命なのです。

主イエスは対立する宗教指導者に対して「わたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」(7:34)と言いました。しかし、ここでは主イエスに仕える者は、「わたしのおる所に…おるであろう」と言われます。主イエスご自身が命なので、主と共にいることが、恵みなのです。

主イエスに従うことこそ命の道なので、十字架の道には逆説があります。

25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

自分の命を選ぶか、キリストを選ぶか。「このわたし」に従えと言われるキリストに従うか、自分の道を選んでキリストを失うか、です。 ▼主イエスご自身が十字架で命を落とし、ヨハネ福音書の時代には多くのクリスチャンが殉教しました。キリストに従うことは、死を覚悟して従うことが求められました。それは、自分の命にもまして、キリストを選ぶことです。▼自分の命を憎み、永遠の命を愛する生き方は、主イエスの続く祈りに表れています。「(自分の願いではなく)み名があがめられますように」という祈りです。

■【3.謙卑の主の祈り】

26-27節の主イエスの祈りは、ゲツセマネの祈りによく似ています。

27-28a「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。父よ、み名があがめられますように」。

【感情とホーリネス】

主イエスは「今わたしは心が騒いでいる」と言われます。▽ここに、巨大な試練に勇敢に向かう、全き人の姿があります。▼主イエスは目前に置かれた十字架で全世界の罪を負い、「罪深い全世界に代わって、ご自分が罪となる」という巨大なプレッシャーがありました[③]。▽「心が騒いでいる」という言葉は、激しいストレス下で神経が興奮し、心が掻き立てられて敏感になっている様子を指すと思われます[④]。▼それは、この世への執着や何かを失うことからくる不安や恐れとは異なります。そのようなストレスは人間である以上、誰でも経験します。 ▽そのストレスの中でどのようにふるまうかに、信仰の態度が現れます。

キリストの服従――御名をあがめさせたまえ

主イエスは、霊的にも身体的にも十字架の危機が迫る中で、人としての本能は、危険を察知して神経は興奮し、ある面では、危険から逃れようとする本能的な衝動はあったのではないかと想像します。 ▼しかし主イエスは、「わたしはなんと言おうか。…しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです」と言って、危険を避ける本能的な反応を抑えて、神に従うことを選ばれました。▼「父よ、み名があがめられますように」とは、主イエスの生涯の一貫した姿勢でした。ご自分が死に至るまでどこまでも神の御心に従うことができるように、神の御心がなされるように、という祈りでした。

主イエスの全生涯は、このために歩んできたものでした。▼自分の望みではなく、神の御心がなるように願うこと――これが、「この世で自分の命を憎み、永遠の命を愛する」ということです。 ▼主イエスは、十字架の苦しみを全く受け止め、十字架の使命に立たれました。

▼この服従のうちにこそ、神の御子の偉大さが表れています。まことの人としての勇気と、神の御心に全く一致した神の子としての愛。自分の利益をかけらほども求めず、神の御心のために命の最後の一滴まで注ぎ出し、良い人のためではなく、悪人のため、人々の最悪の罪を身代わりに負うために、ご自分を注ぎ出されました。▼この全き愛の服従こそ、まことの人となったまことの神が、救い主として成し遂げるために遣わされた使命でした。

【適用】 私たちは、試練の中でどのように祈るでしょうか。試練の中で忍耐を働かせて、主にとどまり続ける時に、信仰が練られ、深まり、私たちのうちに神への信頼と希望が練られていきます。「父よ、み名があがめられますように」。私たちも、試練の中でこそ主に信頼し、主に働いて頂いて、主に喜ばれる、主に似た者とならせて頂きましょう。

■【4.主のご受難の栄光】

 31-32節には、主イエスの十字架の働きの意味が説明されています。

31今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。

主イエスの十字架は、裁きの時です。十字架の上でこの世の罪が処罰され、主を十字架につけるこの世はさばかれます。▽そして、十字架によって、この世を支配している悪魔が、この世の王座から追い出されます。十字架は、王として来られた主イエスを排除する悪魔のたくらみでしたが、逆に悪魔がこの世の王座から追い出されました。十字架は、悪魔の支配を倒し、キリストの王座と支配を打ち立てました。

すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」と言われます(ヨハネ8:34)。主イエスの十字架は、私たちを罪の支配から解放します。自分の力では打ち勝つことのできない悪魔の支配から、キリストの力が私たちを解放します。私たちは、信仰によって、罪と死の支配から、命と聖霊の支配へと移されています。信仰によってキリストを見上げる時、私たちを治めるキリストの力が私たちのうちに働きます。

32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。

【苦難と栄光の十字架】 「地上から上げられる」とは、あいまいな言い方で、十字架上の死を指しています。地の上で石打ちにされるのではなく、十字架の木の上に引き上げられる、苦しみと不名誉と辱めの死を表します。▼しかし同時に、それは高く上げられる、高挙の時・栄光の時でもあります。この十字架の苦難と死こそ、同時に、高く上げられる栄光の時です。

【引き寄せ】 その十字架の上でこそ、主イエスは、ギリシャ人もユダヤ人も、全ての人をご自分のもとに引き寄せられます。主イエスこそ、人々をご自分のもとに集める、まことの救い主です。主イエスを通ってこそ、神のもとに行くことができ、十字架の上でこそ、主イエスと共にいることができます。十字架を通ってこそ、私たちは主と共に生きるのです。

■【例話:中国のある伝道者】

中国のある信徒説教者は、「主イエスが一粒の麦として地に落ちて死なれたのは、主の内にある命が解き放たれて、多くの麦粒を生み出すためだった」と教えました。

「麦粒の中に命がありますが、麦粒の外側には、殻があります。この殻が破れて開かなければ、麦は生長できません。麦粒に命があるかどうかの問題ではなく、外の殻が破れるかどうかの問題です。…外側の殻はこの世にある自分の命であり、内なる命は主からの永遠の命です。…外なるものが壊れなければ、内なるものは解放されません。」

彼が20代後半の頃、故郷に帰り、健康を害して、杖をついて歩いていると、大学時代の教授が彼に会い、頭の先からつま先まで見つめて、こう言いました。「君、君の学生時代には、君にずいぶん期待して、何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。君は、今この有様が、君のあるべき姿だとでもいうのかね。何の成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものもなく、こんな状態でいるのかね」。射貫くようなまなざしで言われたこの言葉を聞いて、彼は正直なところくずおれて泣き出したい衝動にかられたと言います。彼の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったといいます。しかし、次の瞬間、栄光の御霊が彼に臨みました。彼は、「自分の命を主のために注ぎつくすことができるという思いが栄光をもって私の魂に溢れました」と言います。彼は目を上げて主をほめたたえて、「これが最善の事です。私の選んだ道は最善でした」ということができました。彼にとって初めての経験でしたが、その時、彼は自分の上に臨む「栄光の御霊」がどのような方であるかを、真に知った、と述べています。

彼は自分の働きの中で、常にこの「命」の流れに注意を払い、自分の賜物や知識や能力によって人々を集めようとはしませんでした。彼は言います。

わたしたちは、神は天を驚かせ地を揺さぶる大きな働きを求めておられるのではないことを、堅く信じます。人はただ見えることに関心がありますが、神はそんなに近視眼ではありません。わたしたちは、写真を見せたり報告を出したりするような働きに信頼しません。悲しいことですが、神の子供たちは、神が興奮の中におられないことを知りつつ、なおも興奮することに夢中になっています。それゆえに注意しなければなりません。聞いて良さそうな事がみな、神からであるというわけではありません。今日、真に空前の必要は、霊の働きと魂の働きとを識別することである、とわたしは感じます。

彼は、後に文化大革命の中で、迫害を逃れる機会があったにも関わらず、兄弟たちと苦しみを共にするために中国に戻り、信仰のゆえに投獄されて、亡くなるまでの20年間を、強制収容所で過ごしました。▼目に見える働きの成果という意味では、最後の20年は、全く実が残らなかったように見えます。しかし、最後の20年は、完全に主にのみ捧げられた、香り高いいけにえでした。

彼が書き残した本を通して、主の命の流れが中国の、世界の教会を潤し続けています。弾圧化にあった中国の教会にいのちをもたらしたのは、キリストに結ばれ、キリストに仕え抜いて、一粒の麦として自らを捧げた人々の死が結んだ豊かな実りではないでしょうか。

24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

■【まとめ】

26 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。

主イエスこそまことのいのちです。主イエスのうちに命があり、主イエスのもとにいるときにこそ、生きるのです。

32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。

主イエスは十字架に私たちを招き、十字架において、私たちは主と共に生きます。

27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。28父よ、み名があがめられますように」。

自らを捧げ尽くして神に従った服従こそ、キリストの救い主としての偉大な御業でした。「父よ、み名があがめられますように」。この祈りを、私たちの祈りとして、すべてを捧げ尽くして、主に従ってまいりましょう。


[①] https://www.ifsa.jp/index.php?Gtauchi

[②] ピリピ2:6-9。ヨハネ12:24の「栄光を受ける」という言葉は、ギリシャ語旧約聖書のイザヤ52:13の「高くなる(栄光を受ける)」という言葉と同じ。

[③] 2コリント5:21「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。J.S.ステュアート「受肉者イエス」17章 最後の日々 4 ゲツセマネ p258-259

[④] レオン/ミルドレッド・チェンバース「ホーリネスと人間性」第二章「ホーリネスと人間性」F「否定的感情」3「不安」p31-33

■参考文献:

D. A. Carson, The Gospel according to John, The Pillar New Testament Commentary.

J. Ramsey Michaels, The Gospel of John, The new international commentary on the New Testament.

Edward W. Klink III, John, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament.