ガラテヤ5:16-26「御霊によって歩みなさい」

2024年6月30日(日)礼拝メッセージ

聖書 ガラテヤ5:16-26
説教 「御霊によって歩む」
メッセージ 齊藤 良幸 役員

御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制
御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない

【今週の聖書箇所】

 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。…肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。…しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

ガラテヤ5:16-17、19-21、22-23

【父の思い出】

個人的なことですが、今年4月に父が亡くなり、6月には、法要と納骨式がありました。皆さんにもお祈りいただき無事に終えることができました。

父との思い出で忘れられないのは、私が、19歳の年の時のことです。受験に失敗し、新聞奨学金制度を利用して、大塚にあった予備校に通うために上池袋に住んでいました。

5月の連休に、体調を崩して、下宿先で寝ていると、お昼近くにドアをノックする人がいました。ドアを開けると、父と伯父が様子を見に来てくれていたのです。東京での一人暮らしで心細さもあって、涙が出るほどうれしかったことを覚えています。父親の深い愛情を感じました。普段はあまり話すこともなかった父ですが、さすがに親のありがたさを感じました。

【今日の主題】

さて、今日のテーマは、「御霊によって歩む」ことです。

歩むとは、自分の生活全般のことであり、「生活全体からどんな特徴が出ているか?」ということです。

使徒パウロは、世の生き方と聖霊による生き方を対比して説明しています。ここでパウロは、17節で「両者は融合することもなく、和平を結ぶことはなく、必ず対立している」といいます。

■1.肉の欲に従う人

【この世の生き方】

19-21節のリストは、主に性的な乱れ、偶像に関すること、苦々しい思い、だらしなく騒ぐことに分けられます。

第一番目の性的な乱れを防ぐために、神様が人を創造された時に定めた初めの秩序が、結婚でした。その枠組みから離れて性欲を満たすことが、性的な罪ですね。

第二番目の偶像に関することですが、これは神社仏閣の像や社だけに限りません。つまり、富、名声、健康、家族、学問、安定した生活など、それ自体は良いものであっても、神様を認めず、それらに頼る時に、それはら神々:偶像となりえるのです。

偶像礼拝の本質は、神様の前に神々:偶像となるものを置くこと、神様以外のものを最優先し、神々:偶像とすることなのです。時に、教会の指導者や牧師でさえ、頼るべき神々:偶像になることもあるのです。

第三番目の苦々しい思いとは、ガラテヤ人が、互いに挑み合ったりねたみ合ったりしていたことなのですが、「うぬぼれ」が原因となった問題でした。

4:13-15をみると、彼らがはじめに福音を信じた時、パウロに対して、熱い愛を抱いていたことが分かります。その時パウロは目を悪くしていたようなのですが、彼らは自分の目をえぐり出して与えたいほどに、パウロのことを尊敬し、気にしていました。ところが、しばらくして、ユダヤ主義者らの影響を受けて、パウロが最初からの使徒ではないとして、見下げるようになっていたのです。それだけではなく、お互いに挑み合い、そねみ合っており、その原因は、「虚栄」でした。実際の自分よりも、より大きく、えらく見せるために、他人を低く見下げるという態度を取った行動です。

第四番目のだらしなく騒ぐことですが、私たち人間には、喜び、楽しみ、歌い、踊ることは神様から与えられた生理的欲求であり、人との付き合いをうまくこなすための潤滑油として、それ自体は悪いものではありませんでした。神様の御霊の領域の中で用いれば、神様に栄光を帰することができるものでした。

にもかかわらず、泥酔し、宴会場や街頭などで過度に騒ぎたてるときには、私たちの心の座には自分がおり、人間でありながら、神様のようになりたいという自分中心の間違った思い込みをして、間違った行動をして一時の自己満足で、だらしなく騒ぐようなこともしてしまいます。

このようなことをし続けていると、結果として、神の国を相続できません。

【肉のわざの根源:高ぶり】

では、肉のわざとして列挙されている事柄に、なぜ、人間である私たちは進んでいくのでしょうか。それは、私たちが、誰よりも優れた存在でいたいからなのだと私は思います。

優れた存在といえば、国民のトップ決めると言える、大きな選択が日本とアメリカで行われます。日本では、7月7日に、「今はやりの都知事選挙」があり、11月にはアメリカで大統領選挙があり、さらに日本では、衆議院総選挙が来年10月30日の任期満了日までに行われます。それぞれのトップになると地位、権力、名誉、財産を得ることができるのですから、それぞれにふさわしい方になっていただきたいと思います。公約をされる指導者としての手腕に期待したいと思います。

ユダヤの国では、ユダヤ教の指導者たちが優れた存在とされ、最も熱心にイスラエルの救い主、キリストを求め、待ち望んできました。ユダヤ人指導者たちが神様の前で、自分たちこそ正統な神様の選びの民族であるとして、イエス様を神様の御子であること認めずに、逆に神様からではなく、悪魔から出ていると批判し、殺意と憎しみを抱きました。

【律法主義:自分の正しさを主張する】

イエス様は、「アブラハムが私たちの父だ」と誇っていたユダヤ人指導者たちに対して、「あなたがたの父は悪魔だ」と断罪したので、指導者だった律法学者やパリサイ人は、旧約聖書の預言通りにイエス様を殺しました。

律法主義は、自分たちの基準に合わない人を裁いて行きます。自分の行いによる義を求めているので、自分が正しいということが大前提になります。実際は、完全に正しくありえない律法学者やパリサイ人自身には、少なからずやましさがあったと思います。

イエス様を処刑した律法学者やパリサイ人、ローマ兵士たちを、イエス様は、十字架上で神様に彼らを赦してほしい、また、罪に定めないで欲しいと祈られました。彼らが悔い改めて、イエス様のもとに戻るなら、彼らは決して罪に定められることはないのです。

私たちも、イエス様を信じ、神様に立ち返ったことによって赦されたものとなりました。信仰生活を続ける中で、ありのままの自分をイエス様にさしだし、自分には正しいことは何もできないことを認め、イエス様に心の座を明け渡し、イエス様にゆだね祈るとき、御霊が、私たちの祈りをイエス様にとりなしてくださっておられることを、私たちは感じることができます。

異邦人が多くいたガラテヤ人の教会では、御霊のわざによって始まったのに、御霊に拠り頼むことができていなかったために、肉のわざ、自分たちの正しさによって完成させようとしました。

そのことをパウロは厳しいことばで強く指摘しました。3:1で「ああ、愚かなガラテヤ人」とパウロは言いました。口語訳では「ああ物わかりの悪いガラテヤ人よ」と訳されています。

私は、最初にガラテヤ人への手紙を読んだときに、「ずいぶんひどい言い方だな」と感じました。しかし、私自身も物わかりの悪い人間だと反省させられます。自分の正しさにこだわりすぎて、相手を批判するばかりで、相手を赦すのにひどく時間がかかります。

【神からの信頼】

それでもイエス様は私たち一人ひとりに、大変大きな期待をして下さっているように思います。

最近始まった、「新プロジェクトX」で富士重工が開発した自動ブレーキシステム、「アイサイト」がテーマとなっていました。

プロジェクトのリーダーは、担当をまかせたら、おまえならできると信じ、課題が解決するまで一緒に取り組み、担当者と共に成功を喜んでいました。

私たちが困難な状況にあるときは必ず御霊がともに取り組んでくださっていることを思い出していただきたいと思います。

■2.聖霊に従う人

【聖霊によって歩む】

5月にはペンテコステ礼拝が持たれました。M姉を車で送迎した時に、「ペンテコステが教会の始まり、誕生日です。」と話したときに、何回目の誕生日ですかと問われました。「教会は何歳だっけ?」すぐに暗算できなくて、一緒におられたY兄にも聴いてしまいました。イエス様がお生まれになってから、2024年はすぐにわかります。イエス様が召天されたのが、33歳として、その後に聖霊の降臨ペンテコステがありましたから、2024ー33=1991回目ということになりますね。

ペンテコステの時、聖霊:御霊は賜物として与えられました。

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

私たちの内で、「肉」と「御霊」は互いに対立しています。私たちが、「肉の欲望」に従うとき、「肉のわざ」という実を結びます。しかし、私たちが「肉の欲望」に従わず、「御霊の望むこと」に従うなら、「御霊の実」を結びます。

私たちは、キリストにある者として、「肉の欲望」ではなく、「御霊の願い」に従うことを選び取らなければなりません。

24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

私たちは、「肉の欲望」を拒み、「御霊の導き」に従って歩むのです。

聖霊のわざは「実」と呼ばれています。私たちがこのように「肉を拒み、御霊に従って」、神様の恵みに留まる時、聖霊が実を結ばせてくださいます。私たちは、今年の年間聖句のように、神様が成長させてくださることを実感することができるでしょう。私たちが、キリストのうちにいこい、キリストにかたく立ち、キリストのうちにとどまっているのであれば、自分自身のうちからではなく、聖霊から出た愛の実が育ちます。

【賜物としての聖霊】

また御霊は、私たちの祈りを共に祈り執り成してくださいますから、私たちの願いをお祈りします。

ところで、私が若いころ教会学校で神学生のメッセージを聞いていた時のことです。子どもたちに御霊の実を説明するのに、ブドウの実の絵をかいてもらったそうです。蒲萄の木を見たことがなかった子は、土の中から上向きに蒲萄の房が生えている絵をかいてくれたので、大変驚いたそうです。都会のスーパーでは当然ブドウの房をパックで販売しているのでそのように想像したのかもしれません。

私たちも御霊の実が実ることについて正しく理解できているでしょうか。私たちは枝であって信仰によって、幹であるイエス様につながっています。実を収穫するまでには大変時間と労力がかかります。

実は私たちの品性となって表れてきますので、私たちと触れ合った相手に影響を与えるものとなります。その実は、枝や幹が自分で味わうものではなく、実を手にした相手が恩恵を受けることになります。

教会においては、お互いに相手の実によって良い影響を与え合うものなのです。コロナ以前は、私たちの教会では、当たり前のように昼食をともに取り、午後の時間を賛美や話し合いの時間として過ごし、夕拝では、グループ賛美や証詞を中心とした集会が持たれていました。一人ひとりを成長させてくださる神様にあって、良い影響を与え合い、神様に感謝しつつ、ともに労する仲間という意識を共有してきました。まだ若かったし、体力もあったし、協力者もたくさんいましたのでできたことでした。私たちのつながりは、イエス様に愛された喜びを知ったことが動機となって続いてきたことです。

繰り返しますが、御霊が全て導いてくださるなら、その人には必ず御霊の実が結ばれるようになります。その実は、私たちが自分のものとするのではなく、その実を受け取ることができる人が恩恵にあずかるものとなるのです。

そして、実は成長です。少しずつ変えられていくことです。どんなに急ぎたくても、できません。そこで忍耐と労苦が伴います。そして、養いや世話が大事になりますね。

大事なのは、成長させて下さる神のみである
植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。1コリント3:7

みなさんが、自分がどうしても変わりたいと願っていても、なかなか変わらないことで、じれったくなることがあると思います。愛する神様は、私たちが自分自身に頼らず、イエス様に頼り、御霊に頼るように、待っておられるのです。

パウロは、御霊によって愛が律法を全うしているのだということを強調しています。御言葉に「しっかりと立つ」ということと「愛によって仕える」という二つの原則によって生活することが大切です。