ヨハネ6:35,41-51「わたしはいのちのパン」

2024年8月11日(日)礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ6:35, 41-51
説教 「わたしはいのちのパン」
メッセージ 堀部 舜 牧師

わたしはいのちのパンです

【今週の聖書箇所】

35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

41ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。42そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。43イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。44わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。45預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。46神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。47よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。48わたしは命のパンである。49あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。50しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。51わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

ヨハネ6:35, 41-51

主イエスに出会う

「ベン・ハー」の原作者の回心 】 映画「ベン・ハー」の原作者は、アメリカのニューメキシコ州知事であったルー・ウォレスという人です。彼はもともとキリスト教に強く反対していました。ある時、彼は友人から、イエス・キリストに関する本を書いて、イエスなど存在しないし、新約聖書に記された教えの著者などではないことを証明するように勧められました。ウォレスは家に帰り、妻にこの計画を話しましたが、クリスチャンであった彼女はこれを喜びませんでした。しかし、ウォレスは世界中の図書館から、イエス・キリストが生きていたはずの時代を網羅する資料を集め始めます。それを数年間続けた後に、執筆を始めました。彼が4章を書き終えた時、彼は、イエス・キリストが実在の人物であったことがはっきりと理解しました。

そして、彼は率直に自分に問います。「もし彼が実在の人物であるなら、彼はこの神の子であり、世界の救い主でもあるのではないか?」 ウォレスは次第に、イエス・キリストが実在の人物であるの以上、彼が主張したような人物なのだろうと考えるようになっていきました。

「私はひざまずいて、人生で初めて祈り、神がご自分を現してくださり、私の罪を赦し、キリストに従う者にならせてくださいと祈りました。朝になると、私の魂に光が差し込んできました。私は寝室に行き、妻を起こして、私はイエス・キリストを自分の主であり救い主として受け入れたと、話しました。」すると、妻は言いました。「ああ、ルー。私はあなたがこの本の目的を話してくれた時からずっと祈ってきたわ。この本を書きながら、あなたがイエスさまに出会うように。」[1]

Craig B. Larson and Phyllis T. Elshof, 1001 Illustrations That Connect, p24-25の逸話を翻訳・編集して掲載

 主に引き寄せられて、主イエスに出会った人の証しです。

ルー・ウォレス

【聖書日課】 礼拝では聖書日課に従って読んでいますが、なんと5週連続でヨハネ6章に当たっています。それだけ重要な箇所なのだと思います。

【文脈】 ヨハネ6章では、ガリラヤ湖畔を舞台に、主イエスが5000人の群衆にパンを食べさせました。その夜、弟子たちが嵐のガリラヤ湖を船で移動していると、主イエスが湖の上を歩いて弟子たちのところに来られます。翌朝、主イエスを追ってきた群衆と主イエスの長い対話で、主イエスはご自分を「いのちのパン」として示されます。この対話の一部が今日の聖書箇所です。[2]

■1.主イエスの自己主張  35節

食べ物で満腹して、主イエスを王にしようとしてやってきた人々に対して、主イエスは一連の対話で、ご自分が何者であるかを示しておられます。35節は力強い宣言です。

35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

【この私こそ】 わたしが命のパンであるとは、ギリシャ語では主語が強調されたニュアンスがあります。「このわたしこそ、いのちのパンである」。

「わたしは~である」という言葉遣いはヨハネ福音書に7回登場して、キリストが何者であるかを示す重要な教えが語られています[3]。▽旧約聖書では、命を与えるは、神お一人です。主イエスは、そのいのちを与える役割をご自分に与えておられます。

「パン」は、いのちを保つために必要な食物です。主イエスは「いのちのパン」=命の源である、ということです。単なる身体を養うパンではなく、永遠の命を与える「いのちの源」であり、主イエスが生命を与える「神の力」を持っておられます。▼モーセや旧約聖書の預言者たちが、「わたしはいのちのパンである」と言って自分自身を示す姿は想像できません。彼らは常に神を指し示して、自分を指し示すことはありませんでした。しかし、主イエスは、「このわたしこそ、いのちのパンである」とご自分を示しています。

35c わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

主イエスが言われたこの言葉は、旧約聖書の神ご自身の言葉に似ています。[4] 預言者たちは「主に立ち帰れ」と言いました。しかし、主イエスは、神ご自身のように「わたしに来なさい」と言われます。そうすれば満ち足り、渇きは癒されると。

▼主イエスの教えを見ると、物質的な水や食料を神が備えて下さることも、繰り返し約束されています。日々の糧に事欠くことがないように、主は必要なものを備えて下さいます。▽それと同時に、主は永遠の命を支える糧として、ご自分を与えて下さいます。

■2.ユダヤ人の反発  41-43節

人々は、主イエスの言葉を聞いて、ぶつぶつ文句を言い始めます。

42 そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。

彼らの不平は、まさに主イエスが主張した「神から出た権威」を批判しました。▽「私たちはイエスがヨセフとマリアの子で、普通の人間であることを知っている。」「なぜ自分を神の子のように言うのか?」「ただの人間でありながら、なぜ神の特別な子どもであるかのようなことをいうのか?」

聖書を学び始めて間もない人であれば、自然な疑問かもしれません。しかし、子どもの頃から聖書を学び、神を信じる神の民として生きてきた人々が、主イエスの教えを聞き、5000人の給食という力あるしるしを目撃しても、なお神からの権威を認めません。▼ここには、あえて神の働きを認めない、頑なさが表れています。 ▽荒野でマナを食べた先祖たちが、神を信じずにつぶやき不平を言ったように、5000人の給食を目撃した群衆が、主イエスを信じずに不平を言っています。 ▽ここに、変わらない不信仰の姿があります。預言者の言葉を聞いて信じない人は、目の前にキリストが表れても信じず、奇跡を見ても信じません。

【適用】

ここで求められているのは、盲目的信仰ではありません。

1コリント15:2「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。」

パウロがヨーロッパ伝道で行ったベレアの町の人々は、素直で注意深い信仰者の模範です。

使徒17:11-12「ここにいるユダヤ人は…素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。…」

それは、自分の知恵を越えた神の言葉に素直に聞き従う心です。

ヤコブ1:21「…だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。」

私たちがキリストを信じるようになることは、ご自分に引き寄せてくださる神の働きです。しかし、聖書によれば、全ての人の内には、神の働きを妨げる罪があるといいます。▼気付いているのに、悔い改めていない罪はないでしょうか? 悪いと知っていながら、これくらいと思って、続けている罪はないでしょうか? ごまかしや偽りはないでしょうか? 赦していない人はいないでしょうか? 仕方がないからと言い訳をして、神を第一にしていないことはないでしょうか? 試練の中で、祈りをやめてしまったことはないでしょうか? 聖なる愛以外の動機で人に接し、神の栄光よりも自分の利益や保身のために求めることはないでしょうか? これらの罪を心に抱きながら、信仰を持つのは不可能です。罪は信仰の目をふさぎ、信仰を破壊します。▼罪を告白し、神に向き直る時、私たちの信仰の目が開かれ、次第によく見えるようになっていきます。

 分からないことがあるなら、そのことも神が教えて下さることを信頼してゆだねることができます。

ピリピ3:15-16「…しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。」

■3.神学的説明 44-46節

群衆の拒絶に対して、主イエスは44-46節で深みのある答えをされます。

43 …「互につぶやいてはいけない。44わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。

【引き寄せ】 人間の知恵によって神を知ることはできません。神は人間を越えた方です。父が子を優しく抱き寄せるように、神が私たちに親しく語りかけ・共にいて下さる時に、私たちは神を知ることができます。神は私たちすべてを、絶えずご自分のみもとに招こうとしておられます。▽しかし、もし私たちが主を拒むなら、すでに受けた恵みに答えないなら、私たちは聖霊の招きに対して鈍感になり・無感覚になってしまい、聖霊の働きが分からなくなってしまいます。[5] ▽神は恵み深い方ですから、今あるところから主に向き直って、神に従おうとするならば、神はいつでも私たちをさらに招き、神を知る知識へと一歩一歩導いてくださいます。▽「神を知りたい」という良い願いこそ、神が「引き寄せて」くださっているしるしです。今あるところから、理解のできる限り主を知ろうと求め、神の御心であると悟ったことは残らずお従いするという心で、歩むなら、必ず主はご自分を現してくださいます。そのような思いに至らないならば、「そのような思いにしてください」と祈るのです。

45 預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』[6]と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。

【聖書と主イエス】 ユダヤ教の伝統では、「神によって教えられる」とは、聖書を学ぶことと考えられていたそうです。しかし、聖書を一般的な知識として理解することと、自分のこととして経験することは、異なります。聖霊が私たちの心に語りかける時に、聖書が自分に語りかけてくる神の言葉として聞くようになります。

その聖書はキリストを証ししています。聖霊が聖書によって真理を明らかにして下さる時、私たちは主イエスを信じ、主イエスのもとに来ます。

そして、主イエスを通してのみ、私たちは神を知ることができます。

46 神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。

「神から出た者」とは、神の独り子であるイエス・キリストです。私たちは、主イエスを通してのみ、神を知ることができることを示しています。

このように私たちは、聖書を通して主イエスを信じて、主イエスを通してのみ父なる神を知ることができます。主イエスは、ご自分の極めて特殊な立場を証ししています。主イエスこそ、神が立て、聖書で証しされた救い主であり、神から出て、神の本質を完全に見た唯一の方です。

適用

【謙遜】 神に出会うとは、人間の理解を越えた存在に出会うことです。人間の理解の限界を認め、理解を越えた存在があることを認めなければなりません。私たちが神に求める時、神は私たちにキリストを示し、神ご自身を表して下さいます。

【主イエスに出会う】 NHKの100分de名著で、「新約聖書 福音書」が再放送されているそうです。私は、内容は見ていないのですが、カトリック信徒である若松英輔さんが解説しているとのことです。番組プロデューサーが書いた文章に、若松さんが別の機会に言われた言葉として、「今日は、『あなたのイエス』に出会ってください」という言葉がありました。「あなたのイエスに出会う」。それは、聖書が示すイエス様なのですが、それこそ、礼拝を捧げるたび・聖書を読むたび・祈るたびに私たちが求め・期待し・経験することです。

 英国の著名な神学者であったジョン・ストットが、聖書を読むことについて、興味深いたとえを紹介しています。「聖書は、主イエス・キリストの肖像画です。福音書はキリストの御姿で、旧約聖書は背景です。聖書を読んで肖像画の全体を学んでいると、奇跡が起こります。御姿はいのちを得て、書かれたことばというキャンパスから降りて来られ、イエス・キリストが私たちに親しく教えてくださり、聖書全体でご自分について書いてある事柄を説明して下さるのです。」[7]

■4.招き 47-51節

主イエスはもう一度、ご自分が何者であるか、何をなされるかを証しして、人々を信仰へと招かれます。

47 よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。48わたしは命のパンである。

49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。50しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。51わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。

【①永遠の命を与えるパン】 第一に、主イエスは「永遠の命を与えるパン」です。「いのち」と訳されている言葉は、神からくる命・永遠の命をも表すZoeという言葉です。主イエスが与える命は、単なるこの世の肉体的な命ではなく、永遠の命です。主イエスのもとに来て、主イエスを信じる者は、主イエスが死んでよみがえられたように、復活の命・永遠の命を頂きます。

【②供え物のパン】 第二に、このパンは、十字架で捧げられた犠牲を表しています。「わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」という言葉は、最後の晩餐の主イエスの言葉を思い起こさせ、十字架上で刺し通された主イエスの身体を思い起こさせます。▽エルサレムの神殿では、神の前に供え物のパンが捧げられました。同じように、主イエスの肉体も、十字架の上で神に捧げられ、神のみ前に裂かれ、供え物となられました。「いのちのパン」とは、十字架によって供え物となられた主イエスの犠牲を表します。

【③生きておられるパン】 第三に、このパンは、「命を与える」だけではなく、それ自身「生きておられるパン」です。このパンとは、イエス・キリストご自身です。ご自分を犠牲として十字架で死なれましたが、なお生きておられるキリストご自身です。▽キリストは、何かを与えるのではなく、ご自分を分け与えられます。キリストご自身が私たちの内で生きてくださり、私たちの命となってくださいます。

【④世のいのちのためのパン】 第四は、「世の命のためのパン」です。ヨハネ福音書で「世」とは、神から離れ・神と敵対する罪深い世界を表します。その神を知らない「世」のために、犠牲となり与えられたのが、十字架上で裂かれた主イエスの肉体の犠牲でした。▽そして「肉」という言葉も、決して神には似つかわしくない、この世にあって朽ちるべき・死ぬべき存在です。主イエスは罪はなく、神として死につながれていることなどありえないのですが、神に逆らうこの世が神に立ち帰って永遠の命を得るために、あえて死ぬべき肉体をまとい、十字架の上でご自分をお捧げになりました。ここに愛があります。▼主は人としてこの世を生き、人としての苦しみの喜びも通られ、迫害も屈辱も受けられて、私たちのためにご自身を与えられました。何が善で何が悪かはっきりと分けることさえ難しい、混沌とした世界ですが、その私たちが生きるために来て下さったのが、主イエス・キリストです。

世のいのちのためのパン・キリスト

【西村久蔵の救い】 三浦綾子さんを受洗に導いた西村久蔵さんのお話を何度かしましたが、彼自身が洗礼を受けた時の話をしたいと思います。少年時代の西村久蔵は快活な性格でしたが、幼い弟の急逝、落第の屈辱、情欲の悩み、友人の死に接して、本を読み、物思いにふけることが増えました。18才の頃、後に著名になる若い高倉徳太郎牧師の教会で、毎週金曜日の求道者会に出ていました。北海道の寒い冬の始まる11月の金曜日の夜でした。

<その晩はイエス・キリストの十字架について、(高倉牧師は)訥々とどもりながら話されました。外は荒れております。風雪の音が不気味に聞える。聞く者は僅かに三人、寒々とした部屋の空気に小さく寄り合ってお話を聞いておりました。高倉先生は、イエスが十字架上で言われた七つの言葉について、お話をされ、特に「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という聖言について、罪なき神の子イエスが、何故神に捨てられたと思われたかについての話をされました。聞いているうちに、その十字架を囲んでいた祭司、学者、群衆、そしてローマの兵士たちのイエスを罵っている有様が、目に見えるように思われました。そして十字架上のイエスの痛々しい姿が、私の心の目に、はっきりと映し出されたのです。 その時私は、この神の子を十字架につけて殺したものは人類の罪であり、その罪のさばきを贖うために、罪なきイエスが、苦しみ、捨てられ、死に給うたという、それまで何度か聞いた話が急転しまして、私、即ちこの西村という汚い罪人の犯せる罪や、心がイエスを殺したのだ、下手人は私であるという殺人者の実感、しかも、わが救い主、わが恩人、わが父を殺した恐ろしい罪をわが内に感じて、戦慄いたしました。…>

こうして久蔵は、翌日早朝受洗の希望を申し入れ、さらにその翌日の日曜日の礼拝において受洗したのである。」(第三章三)

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」 (Ⅰコリント1:18)

西村久蔵さんは、聖書を通してありありと十字架のキリストを心に感じ、自分の罪に打ちのめされ、その罪の赦しを与える生けるキリストを心に信じて、キリストのもとに行きました。[8]

まとめ

51わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

どのようにして、この恵みを頂くことができるのでしょうか?主イエスのもとに行くことです。主イエスを信じてより頼むことです。

35イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

【祈り】

イエス・キリストの父なる神様。イエス・キリストをいのちのパンとしてお与え下さり、ありがとうございます。罪深い世のため、私たちのための捧げものとして、主イエス・キリストをお与え下さって、ありがとうございます。この世に生きる私たちのために、生きたパンとして、イエス・キリストご自身を与えて下さっていることをありがとうございます。私たちを主の元に引き寄せて下さい。主イエスを信じ、主イエスのもとに行き、決して飢えることなく、渇くことのない命に生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


[1] Craig B. Larson and Phyllis T. Elshof, 1001 Illustrations That Connect, p24-25

[2] この舞台はガリラヤであるが、41,52節で群衆は「ガリラヤ人」ではなく「ユダヤ人」と呼ばれている。しかし、彼らは主イエスの両親を知っており、ガリラヤ出身であることが分かる。ヨハネ福音書で「ユダヤ人」とは、地理的出自以上に、主イエスの反対者を指しているのだろう。「ユダヤ人」とは「群衆」のことである。参照:NICNT6:41-59

[3] 6:35「わたしがいのちのパンです」、8:12「わたしは世の光です」、10:7,9「わたしは門です」、10:11,14「わたしは良い牧者です」、11:25「わたしはよみがえりです。いのちです」、14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」、15:1,5「わたしはぶどうの木…です。」

[4] イザヤ55:1,3参照

[5] ウェスレー新約聖書註解 上 ヨハネ6:44、参照:The General Rules of the Methodist Church、ウェスレー説教19「神より生まれた者の偉大な特権」二・1、三・2-4

[6] イザヤ54:13。イザヤ53章のメシア預言に続いている。

[7] ジョン・ストット「今日における聖書の語りかけ」p33, 45-46

[8] 長谷川与志充、三浦綾子読書会牧師会資料「三浦綾子文学講座 「愛の鬼才」②」より。筆者が古い言葉を変更するなど編集し、背景を加筆して掲載。参照:三浦綾子「愛の鬼才 西村久蔵の歩んだ道」第三章 三