マルコ7:1-8,14-23「人の内側から出るもの」

2024年9月1日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ7:1-8,14-23
説教 「人の内側から出るもの」
メッセージ 堀部 里子 牧師

心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

【今週の聖書箇所】

すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

マルコ7:15、21-23

だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

ヤコブ1:21-22

【導入:防災の日】おはようございます。9月に入りました。朝夕は涼しくなってきましたね。今日9月1日は「防災の日」だそうです。東京消防庁によると「…国民の一人一人が台風、高潮、津波、地震などの災害について、認識を深め、これに対処する心がまえを準備しようというのが、『防災の日』創設のねらいである。…災害の発生を未然に防止し、あるいは被害を最小限に止めるには、どうすればよいかということを、みんなが各人の持場で、家庭で、職場で考え、そのための活動をする日を作ろうということで、毎年9月1日を『防災の日』とすることになったのである」だそうです。 

災害への心構えや準備は、多くの人が関心を示すことだと思いますが、人間の罪にどう対処するかについてはどうでしょうか。人間の存在に関わる問題であり、同じように、いえ災害以上に重要ではないでしょうか。今日は「人の内側(心)から出るもの」と題してマルコ7章からメッセージを取り次ぎたいと思います。

【伝統や言い伝えに縛られない生き方】

イエス様のところへパリサイ人と律法学者たちが派遣されてきました。監視・監督のための調査隊と言っていいでしょう。

「彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。」(マルコ7:2)コロナ禍以降、どこへ行っても「手洗い・消毒」が徹底されるようになりましたが、ここで言われている「汚れた手」とは宗教的に汚れているという意味で、不衛生であるという意味ではありません。

パリサイ人たちと律法学者は「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」(マルコ7:5)と質問をしています。彼ら自身が「昔の人たちの言い伝え」と言っているように、「食事前のきよめの洗い」は律法で定められたことではなく、昔の長老たちの言い伝え・先祖の伝承でした。

イエス様と弟子たちは当時の言い伝えや習慣に縛られず、ただ神の真理に自由且つ積極的に生きていたのです。ユダヤ人は律法を守るために、律法の規定を拡大解釈してさらに多くの決まりを生み出していました。守らない人には罰が加えられたようです。祭司たちは別として、一般のユダヤ人は「きよめとは何か、何からきよめられるのか」という意味を深く考えずにただ習慣として行っていたようです。弟子たちはそのような形式だけのきよめをしていませんでした。パリサイ人と律法学者たちは、形骸化したしきたりや言い伝えを絶対化して、イエス様の弟子たちを自分たちの権威で裁いていたのです。

一生懸命ルールを守る人たちの立場から見るなら、同じルールを守らない人たちの行動は目に余るものであったでしょう。しかし、そのルールの本来の意味から私たちがずれていたらどうでしょうか。

【本質からずれてしまわないように】

イエス様は指摘したパリサイ人たちのことを「あなたがた偽善者」と呼んでいます。そしてイザヤの言葉を引用してこう言いました。

「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。(マルコ7:6-8)

預言者イザヤは、イスラエルの民の不信仰を嘆いています。神殿や様々な礼拝儀式、賛美、決まりごとなどは全て神へ導くはずものでありながら、いつのまにか空しい形式に過ぎなくなっていると。

なぜ私たちは信仰を持ち、毎週礼拝するのでしょうか。表面的に神を礼拝しながら、心は遠く離れているという現象に陥らないように私たちは気を付けないといけません。また聖書を読む時、自分の都合で人間中心に解釈して、神様の意図することから離れることも避けましょう。これは「神の言を無にしている」ことであり(マルコ7:13)、信仰が形骸化して「偽善者」となってしまう要素だからです。ですから、聖書を読む前には、短く聖霊の導きと助けを祈り求めることをお勧めいたします。また疑問や質問は牧師に聞いてください。

御言葉の解釈

以前務めていた教会で、ある女性が同じ青年会の男性を好きになりました。彼女は自分の心を彼に伝えたくてたまりません。ある時、彼女が私のところに来てこう言いました。「先生、今日読んだ聖書の箇所に、『語り伝えよ』とありました。これは神様のGOサインですよね。私の想いを伝えてもよいですか?」その聖書の箇所をよく読むと、それは「福音を周りの人々に語り伝えよ」という意味で、告白してよいという個人的な解釈ではありませんでした。彼女にそのことを説明して、「祈って神様の時を待ちましょう」と言いました。彼女は待っている一年くらいの間に、神様を第一とすることに焦点を絞り、自分の信仰生活を見直しました。毎週礼拝に参加したいという思いが募り、転職もしました。すると様々な良い変化が彼女の内側に祝福となって見えてきました。ついに神の時が来て彼らは結婚に至りました。

私たちは自分の願いを神様に申し上げますが、神様の願いに聞き従うことはどうでしょうか。形だけの信仰とならないよう、神の御心を成す意志を主に表明して参りましょう。「主よ、私の思いは〇〇です。しかし、あなたの御心の通りになさってください。あなたの御心を教えてください。従って参ります。」この告白は自分の信仰を強め、周りにも良い影響を与えます。

【悟りなさい】

イエス様はパリサイ人と律法学者たちとの問答の後、群衆全体に対して語り始めました。人の内面・心についての真理を語り、「悟りなさい」とおっしゃいました。

「すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。…すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。(マルコ7:15、21-23)

イエス様は外から入って来るどんな食物も、その人の心に入ることなく、お腹を通って排泄され、人を汚すことはないとはっきりと宣言されました。私はペテロに起きた出来事を思い出しました。

ペテロに示された幻

ある時、神は使徒ペテロに幻で「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」(使徒の働き10:13)に言われました。しかし、その食べ物とはユダヤ教の規定で禁止されている食べ物でした。ペテロは「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」(使徒の働き10:14)と言ったことに対して「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」(使徒の働き10:15)と神様ははっきりと語られました。この意味するところを悟ったペテロは、この後新たに異邦人と接点を持つようになり、異邦人を宣教の対象として見る視点が変化しました。

パリサイ人や律法学者たちは食べ物や手、体がきよいかどうかの外面には気を使っていましたが、イエス様は人の心・内面、生き方を重視されました。人の心は目に見えませんが、その存在は否定できません。聖書は人の心について何と言っているか見てみたいと思います。

【人間の心とは】

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。『主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである』。」(エレミヤ17:9-10)

人の心は何よりもねじ曲がっていて、癒やしがたい、と。新共同訳聖書では「とらえ難く病んでいる」、口語訳聖書では「はなはだしく悪に染まっている」と訳されています。ヘブル語の形容詞が使われていますが、その単語の動詞であるアーカヴという言葉は、「ヤコブ」の名前の由来となった「かかとをつかむ、だます、押しのける」という意味があります。

ヤコブはその名前の通りの人で、家族を騙し押しのける人でした。しかし、神がヤコブの内面を作り変えられ、新しい「イスラエル」という名前をもらいました。人の心は自分自身の努力によってある程度まで、コントロールできるかもしれません。しかし、根本は変わりません。ねじ曲がっていて、癒やしがたく、人の手に負えないのです。母の胎にいる時から、今に至るまで私たちの心は、様々な影響を受けています。持って生まれた性格、性質に加えて、育った環境や出会った人々によって、人は心にあらゆるものを取り入れてきました。

「…おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。」(マタイ12:34-35)

イエス様は「人の心」を倉に例えたり、畑や木に例えられました。

「そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。」(マタイ7:17-19)

古い肉の人からの脱却

人の内側から良いものだけでなく、なぜ悪いものも出てくるのでしょうか。その理由は、アダムとエバの堕落以降、罪が私たち人間の本質に入り込んでしまったからです。この罪故に心が傷付いたり、傷付けたり、病んだり、疲れたりする現実があります。罪にさいなまれてしまうのです。私たちの体に癌や腫瘍が見つかった時、悪いものを取り除く外科手術が必要です。イスラエルの民は神に選ばれた民でしたが、罪故に独自路線を行き、神様から離れてしまいました。その結果、北イスラエルも南ユダも国が滅び、「バビロン捕囚」という外科手術がなされました。

罪に影響された心が造り変えられるために、(強い言葉ですが)完全に古い自分に死んで、完全に新しいもので再生されることが必要不可欠です。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ12:2)

イエス・キリストが十字架にかかって死んだことは、単なる肉体的な死でなく、私たちの罪を、古い人を身にまとって罪そのものになり、死んでくださったのです。私たちの心、頭、魂、肉体すべてにおいて、イエス様が死を体験してくださったのです。そして完全な死の状態から、復活してくださり新しく作り変えられた者として歩めるようにいのちをくださるのです。これは「新生(回心)」という恵みで、信仰生活の始まりに過ぎません。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)

回心後の恵み

イエス様を信じ受け入れる回心の体験だけが、救いの全てではありません。人間の赤ちゃんでもオギャーと産まれて終わりではなく、更なる成長の恵みがあります。同じようにオギャーと生まれたクリスチャンの「救い」も、回心後の成長の恵み、つまり「聖化」の恵みを含んでいます。具体的には、内なる回心を通して、更に死と再生を日々体験していくことです。

最近私は、マタイ3:10「木の根元に斧を置く」という言葉を心に留めています。木とは自分の心です。斧は木を切り倒すための道具ですが、自分の心の隠れたところにある根本の部分に切り込んでいくこと、問題本質そのものに切り込んでいくことの大切さを覚えています。目に見える現象に対処することも大切ですが、その根っこにある聖化されていない部分に光が当てられ、気付かなかったこに気づきを与えられ、自分の木(心)に良き肥料と水を与え、実りを豊かにされていくこと、これこそ日々の「きよめの体験」ではないでしょうか。

真珠ができるまで

真珠のでき方を調べたことがあります。真珠は貝の体内に異物が入り込み、真珠自身の外套膜が異物を覆い、カルシウムの結晶とタンパク質を交互に積み重ねて行き、真珠ができあがるそうです。真珠が成長して出来上がるまでに10ヶ月から2年かかるそうです。この「成長」は、真珠が自分の中に本来なかった物が移植されて初めて、成長という過程に入り、まばゆい真珠ができあがります。

私たちは罪を斧で取り除かれ、キリストという本来自分の内側で形成されない命を移植されて、私たちは成長のプロセスを通って、真珠のような美しいキリストの形を内側に形成して行くのです。

【まとめ】

イエス様は人間の本質を教えてくださいました。言い伝えや禁止事項を一生懸命守ることで救われるのでなく、クリスチャンが目指す生き方は、信仰と愛によって自らを律し、真の自由を得ることがイエス様に倣った最後まで救いを全うする生き方なのです。心に植えつけられた御言葉が奪い取られないように、良い地に落ちた御言葉の種をしっかり守り、耐え忍んで実を結ぶに至りたいと思います。

人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)

「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:20-23)

「わが子よ、あなたの心をわたしに与え、あなたの目をわたしの道に注げ。」(箴言23:26)

心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)