マルコ7:24-37「豊かな恵みを受け取る謙遜」
2024年9月8日(日)礼拝メッセージ
聖書 マルコ7:24-37
説教 「豊かな恵みを受け取る謙遜」
メッセージ 堀部 舜 牧師
【今週の聖書箇所】
24さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。25そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。26この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。27イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。28すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。29そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。30そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
31それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。32すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。33そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、34天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。35すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。36イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。37彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
マルコ7:24-37
■【聖書の背景】
【異邦人の汚れ】 先週の聖書箇所は、今日の直前の箇所で、宗教的な汚れに関するパリサイ人との議論でした。主イエスは「すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ない」「人から出て来るもの、それが人をけがすのである」と言って、「どんな食物でもきよい」とされました(マルコ7:18-20)。▽この教えの直後にあるのが、今日の箇所、「シリア・フェニキアの女性との対話」と「耳の聞こえない男の癒し」です。▽ユダヤ人は、律法を持たない異邦人を宗教的に汚れた存在とみなしていました。しかし、シリア・フェニキアの女性は、深い立派な信仰の姿を示しました。▼7:6でパリサイ人たちば「口先では主を敬うが、その心は遠く離れている」と言われましたが、今日の箇所の異邦人女性は、内側から神を求め、神にひれ伏す姿を表しました。このエピソードは、神を求めるどんな人も、恵みから拒まれないことを証ししています。
【地理:ツロ・シドン・デカポリス】
今日の聖書箇所の、前半の舞台であるツロの地方は、ガリラヤのさらに北にあり、イスラエルの外です。後半の舞台はデカポリス地方に面したガリラヤ湖畔です。
ツロの町はティルスとも呼ばれ、近隣のシドンの町と共に、海上貿易で非常に栄えた町でした。▽預言者エリヤが戦った悪名高い王妃イゼベルはシドンの出身で、イスラエルに異教の偶像礼拝を持ち込みました。旧約聖書の預言者たちは、しばしばツロとシドンに裁きを預言しました。主イエスの200年前におきたマカバイ戦争では、ツロとシドンは敵側についてイスラエルと戦うなど、イスラエルと敵対関係が長く続いたようです。[①]
■【1.シリア・フェニキアの女】 マルコ7.24-30[②]
24さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。
主イエスは、パリサイ人との論争の後、外国であるツロの地方に行かれました。パリサイ人やヘロデ・アンティパスの圧力を避け、弟子たちと静まる時間を求めておられたのかもしれません。▽しかし、隠れていることはできませんでした。
逆境に屈せず、主に求める
25 そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。26この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。
「シリア・フェニキアの生まれ」とは、民族的にこの地域に住むフェニキア人であることを示しています。「ギリシア人」とは、ユダヤ人ではない「外国人」という意味です。▼一般のユダヤ人から見れば、彼女は何重にも神の恵みから遠い存在でした。①第一に、神の契約の外にいる異邦人で、律法の規定に従わず、それどころかあの憎いツロの住民でした。②第二に、彼女は女性であって、ユダヤ教のラビは公の場では知らない女性とは決して話しませんでした。③第三に、彼女の娘が悪霊につかれていたことは、宗教的汚れであり、嫌悪感を与えるものでした。▽女は、①異邦人であり・②女性であり・③娘が悪霊につかれたという三重の逆境にもあきらめることなく、主イエスのもとに行きました。 ▼26節の最後は、詳訳聖書では「懇願してやまなかった」と訳されているように、彼女は熱心に求めてやみませんでした。
【女の嘆願】 彼女は主イエスの前にひれ伏します。▼右の絵では、女性が身をかがめて主イエスに嘆願する構図が、①身をかがめた女の必死さ、②小犬を指し示して憐れみを求めるへりくだり、③二人だけに焦点が当てられ、わき目もふらずに主イエスだけに頼る信仰が、生き生きと表現されているように感じます。
【適用】 女は、自分の娘が悪霊につかれて苦しんでいるけれど、どうすることもできないという試練の中にありました。私たちは自分の力を越えた苦しみの中で、どうするでしょうか?当然、医者に行き、信頼できる友人や隣人の助けを求め、祈ったと思います。しかし、それでも本当にどうしようもなくなった時、彼女は1対1で主イエスの前にひれ伏しました。▼私たちも、日頃、個人的にも教会でも祈りを捧げます。しかし、本当に苦しみを受ける時には、特別に1対1で神の前に出て深い祈りを捧げます。▽韓国オンヌリ教会のハ・ヨンジョ牧師が、「大変な時は、朝2時に起きて、神の前に泣きます」と述べているのを読んだことがあります。多忙の中で、ただ一人神の前に過ごす時間を作り、ただ神の前に過ごしたのだと思います。 ▼時々、「自分の祈りは聞いてもらえない」とおっしゃる方がいます。「自分は洗礼を受けていないから」とか、「祈りが聞かれるか分からない」と言って、主イエスに祈り求めるのをためらう方がおられます。しかし、このシリア・フェニキアの女は、神様から遠く離れた自分の立場によって気落ちすることなく、主の前にひれ伏しました。▽私たちは、主の足元にひれ伏さない言い訳をしているでしょうか。それとも、主の足元にひれ伏すでしょうか? ▽「主イエスに願い求めてやまない」でしょうか?それとも、求める前からあきらめるでしょうか? ▼彼女は、ひれ伏して、主イエスに懇願してやみませんでした。
主イエスの目的
主イエスの態度について、「なぜ初めは冷たい態度を取られたのか」という疑問がよく聞かれます。▼最終的には、異邦人の女性をも差別をせずに憐れんでくださったことに、人を分け隔てしない主イエスの特徴が表れています。▼主イエスの態度は、第一には、主イエスはご自分の使命に集中しておられて、まずユダヤ人に神の国を宣べ伝えようとしておられたのだと思います。第二に、このやり取りを通して、女性の信仰が引き出され、真実な立派な信仰が証明されました。そして第三に、このやり取りを通して、周りにいた弟子たちも、大きな取り扱いの機会になりました。「立派な信仰とはどのようなものか」「主に信頼する人は、決して失望させられることがない」という真理が、深く打ち込まれます。弟子たちの目が次第に開かれていったように、物語を聞く私たちも信仰の目を開いて頂きましょう。
27イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
ユダヤ教では、イスラエル人を「神の子ども」とし、外国人を汚れた「犬」と呼ぶことがありました。主イエスは、汚れた「野犬」ではなく、ペットの「小犬」と呼びますが、厳しい言葉には違いありません。▼主イエスは、救いの順序にイスラエルと外国人を区別して、まず「子どもたち」=イスラエル人が祝福を受けるべきだと言われました。
女の謙遜さと洞察
これに対する女の答えは謙遜で、冷静で、知恵と洞察に満ちています。
28すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。
【女の謙遜】 彼女は、主イエスが救いの順序でユダヤ人を優先したことも、「小犬」という屈辱的な言葉も、謙遜に受け入れます。そればかりか、自ら「食卓の下の小犬」と呼んで、自分を低くします。
【女の洞察】 主イエスは、「まず子どもたちに」と言いましたが、小犬が完全に拒否されているのではありません。彼女は主イエスの言葉を捉えて、その溢れる恵みに与ることを求めます。彼女の2つの優れた洞察を見てみます。
第一に、「神の恵みの豊かさ」に信頼したことです。▽「まず子供たちに十分食べさすべきである」。しかし、神の恵みは、子どもたちが満腹してもまだ有り余るほど豊かな食卓であると、女は信じました。▽食卓からこぼれ落ちる恵みのパンくずでさえ、自分たちを救い・満ちたらせて十分だと信頼しました。▼誰かが神の恵みを頂いたら、私の取り分は減ってしまうでしょうか?彼にも、私にも、豊かに与えて下さる豊かな方であることを信頼しましょう。
第二に、彼女は、「子どもたちが食べ終わるのを待たなくて良い」こと、すなわち、異邦人の救いの時が「すでに来ている」のを知っていました。それは、救い主が到来する「終わりの日」に預言されたことです。▽女は、主イエスこそ終りの日に全民族に救いをもたらす救い主であり、異邦人への救いが「すでに」到来していることを示唆したように思われます。「私たち異邦人が神の祝福に与る時はすでに来ています」「あなたこそ救い主です」と。▼現代を生きる私たちにも、恵みの時はすでに来ています。キリストはすでに十字架の贖いを成し遂げ、天で私たちのためにとりなしておられます。天の祈りの宝庫は、私たちのために蓄えられ・開かれています。新約の時代を生きる私たちにとっても、私たちが信じるなら、恵みの時は来ているのです。
29そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。30そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
29節で「その言葉で、じゅうぶんである」とは、直訳すると「その言葉のゆえに」(詳訳聖書)です。彼女が神の力を信じ、神の豊かさを信じ、神の時が来たことを信じて、主に求めた信仰の言葉によって、神の豊かな恵みを受け取りました。そして、主の権威が、女の娘から悪霊を追い出しました。
【適用】 ペテロは異邦人伝道の始まりとなったコルネリウスの家で、こう言いました。「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました」(使徒10:34-35)。主イエスの十字架によって、ユダヤ人もギリシャ人も全ての人を、ご自分のみもとに招き寄せて下さいました。私たちもその一人です。
【聖書の物語に入る】
聖書を信じるとは、聖書の物語の中に入っていくことだと言います。女は、まさに主イエスが語られた「子どもたちと小犬」のたとえに、自分自身をあてはめました。▼「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」という主イエスの言葉を聞いて、「自分は犬ではない」と怒りませんでした。「小犬はもらえないのだ」といじけてあきらめませんでした。▼「神の恵みは、子どもたちを満ち足りさせて、なお有り余り / 取るに足りない小犬にも分け前があり / 食卓からこぼれ落ちるパンくずでも豊かに満ち足りることができる」と心に信じました。これが「聖書の中に入る」=「御言葉を握る」=「約束を握る」ことです。▼そのためには、何をしなければならないでしょうか?
①自分が汚れた「小犬」であることと認めることです。社会的には立派な人間であろうとも、神の目には取るに足りない、自分中心の、卑しく弱い者であることを、神の前に認めることです。そして、②神の惜しみない恵みの豊かさを信じることです。「食卓からこぼれ落ちる恵みのひとしずく」でも、私には十分であること、神の食卓の豊かさは、全ての子どもを満たしてあまりあり、この卑しい私にまで及ぶ、と信じることです。
アンドリュー・マーレー:謙遜
(以下は、筆者が著作などに基づいてまとめたものです。)
南アフリカの牧師として多くの著作を残したアンドリュー・マーレー(1828-1917)は、謙遜の根本的な重要性を教えています。▼人は本来、神と共に生き、神によって生きる者として創造されました。神ご自身が人のいのちであり、神から離れて生きるものではなく、神の愛に全く依存する存在として造られました。しかし、エバが「神のように善悪を知る者になりたい」という願った時に、神への謙遜と依存が全く破壊されてしまいました。この高ぶりこそ罪の根であり、そこから人類のすべての争いや利己心、野心や惨めさが生じるのだと、マーレーは教えます。キリストの贖いを必要としているのは、何にもまして、この高ぶりに対してです。キリストを救い主たらしめている主要なご品性は、「謙遜である」とマーレーは述べます。神が人となられた受肉は謙遜であり、主イエスの生涯は、しもべの形をとられた謙遜であり、十字架の贖いは謙遜の極みであり、昇天は謙遜の冠でした。▼マーレーは、謙遜こそ恵みが成長する唯一の源であり、「主イエスとの交わりの唯一の不可欠の条件」と述べています。「私たちの霊的生活の健康と力は、…私たちがこの謙遜の徳を第一のものとするかどうか、そして、謙遜を…〔主イエス〕から求める第一のものとし、そのためには他のすべてを犠牲にするかどうかかかっているのである。」「謙遜がほとんど求められないとき、救いの喜びがほとんど感じられないのは驚くほどのことだろうか」。[④]
28…「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」
私たちも、シリア・フェニキアの女性に倣い、謙遜に主イエスの前にへりくだる者とならせて頂きましょう。
■【2.耳の聞こえない男の癒し】7.31-37[⑤]
【地理】 続く31節以下では、主イエスはツロの地方から(ガリラヤを通らずに)異邦人の多い地域を遠回りして、デカポリス地域を通って、ガリラヤ湖に来ます。デカポリスも異邦人の多い地域でした。[⑥]
32すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。
人々は「耳が聞えず口のきけない人」を連れて来て、主イエスに手を置いて祝福して下さるように願いました。主イエスは、群衆の中から彼を連れ出して、静かなところで彼のために祈られました。
33そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、
耳の聞こえる私たちは、主イエスの言葉によって、主が癒してくださったことを知ります。しかし、耳の聞こえない彼は、言葉ではなく、主イエスが直接患部に手で触れてくださったことによって、主の力が癒してくださったことを悟りました。▽唾を付けることは、現代の私たちには違和感がありますが、古代世界では唾には治療の力があると考えられていたようです。主イエスが唾を付けて男の舌に触られた時、男は、主イエスが癒すためにそれをしておられるのが分かりました。主イエスは、身体に触れ・身体を癒して下さったとともに、男の心にも触れてくださいました。
34天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。
主イエスが「天を見上げ」て、「深く息を」されたのは、神により頼み、心から祈りをささげたことを表しています[⑦]。▼その場にいた弟子たちは、主イエスの姿に深い印象を受けたのだと思います。「エパタ」という主イエスが話されたアラム語の発音が記されています。それは、状況を動かし、新しく創造する、力ある神の御子の言葉でした。
福音書は、耳が開かれた奇跡を生き生きと描いています。
回復と喜び
35すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。
マルコは、イザヤ35章の預言の成就としてこの箇所を描いています。[⑧](イザヤ35:5-6参照。)
デカポリス地方では異邦人が多数を占めていましたが、人々は奇跡に圧倒されます。主イエスはできるだけ目立たないように人々を口止めしますが、むしろ人々はその素晴らしい御業を宣べ伝えずにはいられませんでした[⑨]。
37彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
主がなさる御業は、喜びを与えます。
イザヤ35:1-2, 6-7「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。…それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源…となる。」
【適用】 神様の恵みは、私たちの人生に潤いを与え、喜びを与えます。私たちの人生の苦しみの中で与えられる神の慰めは、素晴らしいものです。特に、信仰の始めにおいて、神様は喜びと慰めをもって私たちを励ましてくださいます。しかし、クリスチャンが神に愛された者として成長していくとき、私たちは「喜び」を求めるのではなく、神ご自身を求めること、神の御心に従うことに心を定めなければなりません。喜びを与えるのも差し控えるのも、神が自由になさることで、私たちは神を愛し、神に従うことに心を砕けば良いのです。
【アビラのテレサ:恵みを受ける道】
16世紀スペインで修道院改革に尽力したアビラのテレサは、次のように述べています。
「あなたがたが謙遜であるかどうかを知る第一の基準は、自分が主の…恩恵や味わいをいただくに相応しい者であるとも、また、生涯こうしたものをいただけるとも思わないことなのです。あなたがたは、こうした恩恵を得ようと努力しないならば、どうしてそれを得られることができるかと、尋ねるでしょう。これに対して私は、今私があなたがたに言ったこと、つまり、こうした恩恵・味わいをもとめないことに勝る方法はないと答えます。その理由は次のとおりです。
第一には、そのために重要なのは、まったく私欲なしに神をお愛しする必要があるということです。
第二には、私たちの哀れな奉仕で、そのような偉大な恩恵をいただけるとおもっては、何かしら謙遜が足りないからです。
第三には、このための真の準備は、主の苦しみを苦しみ、主に従いたい、と望むことであって、味わいを望むことではないのです。実に、私たちは神に背いた人間なのです。
第四には、いと高き御者は、神の掟を守った報いとして、私たちに天国の栄光をくださるのと同様に、こうした恩恵・味わいを下さらなければならない義務をお持ちではないのです。これなしにでも、私たちには救いが得られるのです。そして神は、何が私たちに相応しいか、だれが主を本当にお愛ししているか、私たち以上によくご存じです。…
第五には、努力しても私たちの力の及ばないことだからです。この水は、前のように水道管を通ってもたらされるものでないので、もし泉が湧き出てくれないなら、私たちの労苦はほとんど役に立たないのです。つまり、いくら黙想しても、むりに努力しても、涙を流しても、この水はここにはもたらされないということです。これはただ、神がそれを与えようとお望みになる人に、それも、多くの場合、霊魂がまったく思いもよらないときに与えられるものなのです。」
「私たちは神の物なのです。どうぞ神が私たちを、み旨のままに用いてくださり、お望みのところにお連れくださいますように。もし私たちが本当に謙遜になり、あらゆるものから超脱するなら、本当に、と私は強調します。…もしそうなら、主は私たちに必ずこの恩恵をお与えくださるでしょう。いいえ、さらに、私たちが望むことすら知らないような他の多くの恩恵をもくださるでしょう。…」[⑩]
霊の耳を開かれる
先週読まれた7章前半のユダヤ人・パリサイ人の間では、主イエスの教えは理解されず、迫害を招きました。しかし彼らが軽蔑した異邦人たちが、主イエスに立派な信仰を示し、主イエスの奇跡を見て神を賛美して聖書の成就を悟りました。▼耳の聞こえなかった男の耳を開かれただけでなく、人々の霊の耳が次第に開かれていきました。▽主イエスはガリラヤの群衆に「聞いて悟るがよい」と言われましたが(7:14)、異邦的なデカポリスの群衆が聞く耳を開かれていきました。
【適用】 私たちの心は、主に向かって開かれているでしょうか? もし主が語られるなら、それに聞き従い、主が本当におられるならば主を信じる用意ができているでしょうか? 主に「耳を開いてください」「目を開いてください」と祈っているでしょうか? 自分が何者であるか、そして、神がどんなに偉大であるか、私たちがおかれた複雑な状況よりも、神は偉大な方であることを、私たちが悟ることができるように、主に心を開いて求めてまいりましょう。
【祈り】
天の父なる神様。▽あなたの食卓がどれほど豊かであるかを知ることができますように。私がどれほど小さく・貧しく・汚れた者であるかを悟らせてください。そして、イエス・キリストの十字架により頼み、あなたの豊かな憐れみに信頼して、主の足もとにひれ伏す者としてください。▽私たちの耳を開き、あなたに従い、あなたをほめたたえる者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
[①] James R. Edwards, The Gospel according to Mark, The Pillar New Testament commentary. 7:24
[②] 並行記事:マタイ15:21-28
[④] アンドリュー・マーレー「新版 謙遜」p5-23
[⑤] この記事はマルコ福音書のみに記されている。(マタイ15:29-31参照。)
[⑥] 主イエスは、洗礼者ヨハネを殺したヘロデ・アンティパスが支配するガリラヤを避けて、デカポリス地方に行ったのかもしれない。また、この記事が背景としているイザヤ35章にレバノン(ツロとシドンを含む)が出てくるため、福音書記者はこの記事の背景としてツロとシドンを言及したのかもしれない。
[⑦] 「深く息をして」ステナゾーと同じ語根の言葉が、ローマ8:26の「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」の「うめき」ステナンモスに使われている。
[⑧] 新約聖書で1度しか使われていないマルコ7:32の「耳が聞こえず口のきけない人」モギラロスという言葉が、ギリシャ語旧約聖書(70人訳)で1回だけイザヤ35:6に出てくる。35:2のレバノンは、直前に主イエスが通られたツロ・シドンの地域である。James R. Edwards 前掲書, 7:32
[⑨] 7:36「言い広める」とは、「宣教する」とも訳されるケーリュッソーという言葉。
[⑩] アビラの聖女テレサ「霊魂の城 神の住い」p138-140
【参考文献】
James R. Edwards, The Gospel according to Mark, The Pillar New Testament commentary.
R. T. France, The Gospel of Mark, A Commentary on the Greek Text.
Strauss, L. Mark, Mark, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament
N. T. Wright, “Mark for everyone.”, NT for everyone
William L. Lane, The Gospel according to Mark, The New International Commentary on the New Testament.
ケネス・E. ベイリー「中東文化の目で見たイエス」