マルコ8:27-38「“わたし”はだれでしょう」

2024年9月15日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ8:27-38
説教 「“わたし”はだれでしょう」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

27さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。28彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。29そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。

マルコ8:27-29

11あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。12だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。13また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。14わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。

詩篇19:11-14

 おはようございます。今日は敬老祝福礼拝です。今日は、メッセージ後に75歳以上の方々の祝福の時を持ちたいと思います。

【分け与える幸い】

さて、今年7月末に厚生労働省が日本人の平均寿命を発表しました。何歳くらいだと思いますか。男性は81.9歳、女性は87.14歳です。これは前の年を上回る結果で、特に日本人女性の平均年齢は世界一となりました。[①]

青山学院大学と米国の大学の生物学教授である福岡伸一先生によると、「人間の寿命が長くなったのは、私たちが持つ“利他的な脳”の賜物で、積極的に他者を助けて脳に存在する“利他性”に関する神経回路を活性化させることで自分自身も生物として強く、また幸福に生きられる」とのことです[②]。お金に限らず、人脈や経験から得た知識や知恵も、周りに分け与えることができるものだと思います。また与えるだけでなく、自分も受け取り上手になり、利他的な行為を循環させることが、社会を発展させることに繋がっていくようです。つまり、自分が持っているものを他者へシェアしていく人生は、長生きの秘訣かもしれません。

 心理学者のポール・トゥルニエは、「すべての人には、二つの冒険(チャレンジ)に対する飢え渇きがある」と言いました。一つ目の冒険は神に対しての冒険で、「神を信じて生きること」で、二つ目の冒険は人間に対しての冒険で、「他人に施して仕えること」だそうです。この二つの冒険があるとき、その人の人生は満たされるとポール・トゥルニエは言っています。[③]

使徒パウロが引用したイエス様の言葉「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒の働き20:35)が心に浮かびます。

では、与えられた利他性を発揮するために私たちはどうしたら良いのでしょうか。前述の福岡先生は「リスペクト(尊敬)でき、接していて気持ちがいいと感じる人、こういうふうに生きられたら素敵だと思う人をロールモデル(お手本・模範)として、生き方を真似してみること」とおっしゃいました。聖書に「私たちに対するキリスト・イエスの態度を、見ならいなさい。」(ピリピ2:5・リビングバイブル)とあるように、クリスチャンのロールモデルは言うまでもなくイエス・キリストですが、皆さんの身近なロールモデルはどなたでしょうか。今朝開かれた聖書の箇所に入っていきたいと思います。

【主イエスの質問】

イエス様と弟子たちの一行はガリラヤ湖畔のベツサイダから北上して、ピリポ・カイサリアの村々へ向かいました。ピリポ・カイサリアはエルサレムから来たに約200キロ離れたところに位置しています。その途中で、イエス様は弟子たちに尋ねました。

質問①「人々は、わたしをだれと言っているか」(マルコ8:27)

どうしてイエス様はそのような質問をしたのでしょうか。人々の噂が気になったのでしょうか。いいえ、イエス様は弟子たちの気持ちを確認したかったのです。イエス様は「十字架にかかる」使命がありました。弟子たちは、果たしてどこまでイエス様のことを理解していたのでしょうか。ご自分が十字架にかかる前に確認しなければいけないことだったと思います。人々はイエス様のことをバプテスマのヨハネだと言ったり、エリヤだと言ったり、預言者の一人だと言い、イエス様が神の子であることをまだ知りませんでした。弟子たちはどうだったのでしょうか(マルコ8:28)

質問②「そこでイエスは彼らに尋ねられた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。ペテロが答えて言った、『あなたこそキリストです」。」(マルコ8:29)

 ギリシャ語は動詞の中に主語が入っているのですが、イエス様はわざわざ「あなたがたは」と主語をつけて強調されています。「世間の人たちは私のことを、ヨハネやエリヤと言っているようだが、では一体あなたがた自身にとっては、私は何者だと言うのか?」とたたみかけるように聞いています。リーダーのペテロが代表して答えました。「あなたこそキリストです」とペテロも、「このあなたこそがキリスト(救い主)です」と強調語で返しています。イエス様はこの答えに満足されました。「イエス様はどんな方ですか」という一般的な質問ではありません。もっと個人的な質問です。「あなたにとって、あなたの人生において、イエス・キリストはどういうお方ですか」と聞かれたら、今のあなたはどう答えるでしょうか。

【信仰告白の意味】

ペテロの「あなたこそキリストです」との答えは、正に「信仰告白」でした。信仰告白とは、私にとって信仰が何なのかを、公に自分の口で表明することで、大切なことです。

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9)

何年か前に幼馴染から電話があり、「さーとー、私ね、イエス様を自分の救い主として信じたんだ。小学生の頃、教会に誘ってくれてありがとう」と言われました。この時の嬉しさといったら、天にも昇るような気持ちとはそのようなものかもしれません。自分の部屋中をスキップして喜びました。それまで多くの洗礼式を目にしてきて、その度に喜びましたが、私の幼馴染がイエス様を信じて救われることは格別な喜びでした。

先ずは信仰告白が大きな第一歩です。そして、この信仰告白は毎日祈りの中でしてもよいのです。「神様、あなたは私の救い主です。ありがとうございます」と。自分の口で主を告白することに力があるのです。松木祐三先生は「口で告白、宣言することは、最後の権威ある行為、全存在をかけた行為なのです」と表現されました[④]。自分の全存在をかけて告白することは、自分がどのように生きるかを表した言葉なのです。

イエス様はご自分について誰にも言わないようにとおっしゃいました。人々の今の理解では不必要な誤解を招きそうだと思ったからかもしれません。しかし、その時が来たらすべては明らかになります。

ペテロの告白

ペテロは大胆に信仰告白をしましたが、イエス様が十字架にかかる時、見事にイエス様を裏切ります。それではペテロの信仰告白は偽りだったのでしょうか。いいえ、そうではありません。その時のペテロにとっては心からの真実な告白でした。それで良いのです。後から気持ちが揺らいだり、曖昧になったりする可能性を誰でも持っています。そして信仰告白をされたイエス様が、誰よりも人間の弱さをご存知です。

私たち人間は完璧ではありません。弱い私たちだからこそ、イエス様が必要なのです。ペテロにイエス様は「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)と立ち直ることを前提に声をかけられたことを思い出したいと思います。その直後にペテロはイエス様を三回否定してしまうのです。しかし私たちが諦めても、イエス様は私たちのことを諦めないのです。信仰告白から始まる一歩を重ねて参りましょう。

【十字架の死と復活の予告】

ペテロの信仰告白を聞いて、弟子たちの心を確認したイエス様はご自分が進む「十字架への道」を明らかにされ始めます。死と復活について語り始められました。それまではまだ言うのは早いと思っておられたのかもしれません。

「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、…」(マルコ8:31)

しかしペテロを始め、弟子たちはイエス様がおっしゃったことがすぐに理解できなかったようです。イエス様はそれも承知でした。せっかちなペテロはすぐに行動を起こしてしまいました。

「しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、『サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』。」(マルコ8:32-33)

「いさめる」という言葉は、33節で「しかる」と翻訳されています。ペテロはイエス様を叱ったのです。この言葉はイエス様が汚れた霊を追い出す時にも使われました。イエス様をいさめるペテロの言葉は記されていないですが、わざわざわきへお連れして「イエス様、何ということをおっしゃるのですか。言葉を謹んでください!あなたが殺されるなんて。よみがえる?ありえません」とそのような口調で言ったのではないでしょうか。

弟子たちのリーダーであるペテロの言動は一見、普通に正しいように思えて、イエス様の言葉が突拍子もないことのようにも聞こえますが、そうではありませんでした。イエス様の十字架の死は、神の御計画でした。それを思いとどまらせることは、「神のこと」を思わず、「人のこと」人の考えに他なりません。

ペテロの理解するメシアと、イエス様が示された苦しみを受けるメシアはまるで違っていました。ペテロだけでなく、ユダヤの終末理解では、メシアは神の代理人として、最終的な神のさばきと訴えをこの地上にもたらす方でした。ペテロは「あなたこそキリストです」と核心をついた信仰告白をしたのですが、その直後に信仰告白が空しくなるような振る舞いをしてしまいました。

ペテロは他の弟子たちの前で、イエス様から叱られてしまいます。ペテロを叱っていますが、「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら」とありますので、弟子たち全体に向けて伝えたかったのでしょう。ペテロは「サタンよ、引きさがれ」と言われますが、ペテロ自身がサタンになったということではありません。いかにも正しいことを言っているようで、実はイエス様の意図することを悟れていないだけでなく、福音の妨げとなるからでした。ですから、イエス様はあえて強い口調でサタンに惑わされるな、目を覚ませ!とおっしゃったのだと思います。

以前に一度、私は洗礼を受けたばかりの中年男性にこの言葉をかけられたことがありますが、この方は「イエス様がどのような気持ちでおっしゃったのか、実際に言ってみたかった」ということでした。言われた私は面食らいましたが、ハッとさせられました。見える側面だけでなく、物事の本質を捉えようと不思議と思わされ、自分自身を振り返る良い機会になったからです。

イエス様は洗礼を受けられた後、荒野でサタンから誘惑を受けた時、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10)とおっしゃいました。「神である主のみ」から的が外れてしまう時こそ、神以外のことや人、物が代わりにその位置を占めることに私たちは気を付けなければいけません。主の心を礼拝の場で受け取って参りましょう。

【主に従う道へ】

 ペテロと弟子たちとの対話を終えて、イエス様は群衆も呼び寄せて全体に向かってメッセージをされました。

「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。』」(マルコ8:34-35)

 イエス様はご自分の進む道が、十字架へ続くものであることだけでなく、弟子の道も十字架を負うものであることを教えられました。イエス様が十字架の道を進むので、弟子も各自の十字架の道を進まないといけません。しかし、自分のいのちを救うことと十字架の道は同じではないことをイエス様ははっきりと語られました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)

十字架を負うキリスト(小泉恵一氏作)

・自分の十字架を負う

 自分の十字架とは何でしょうか。「自分に与えられている特別な重荷」と言ってもよいでしょう。

「邪悪で罪深いこの時代にあって」(マルコ8:38)今の時代も姦淫と罪の時代であることに変わりありません。もっと悪くなっていると思います。主イエス様に従う道は、姦淫と罪の時代に在って霊的戦いの道です。しかし、世の中のものを得る喜びよりも大きな「一人の魂」を勝ち取る喜びを知ることができますように。自分に与えられている十字架を背負い、弟子の道を最後まで歩むことができますように。イエス・キリストが私たちの救い主であることを大胆に告白して参りましょう。


[①] https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life23/index.html

[②]https://news.yahoo.co.jp/articles/a77d0690e8d9d1f7662f1f2c6b08235f928dbd44

[③] 「リビングライフ」2024年9月号・p79

[④] 「主に従う者に与えられる祝福の道」・p226)