マルコ10:1-16「子どものように神の国を受け入れる」

2024年10月6日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ10:1-16
説教 「子どものように神の国を受け入れる」
メッセージ 堀部 舜 牧師

神の国はこのような者の国である。…だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない

 1それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。2そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。3イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。4彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。5そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。6しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。7それゆえに、人はその父母を離れ、8ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。9だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
 10家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。11そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。12また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

 13イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。14それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。15よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。16そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。   

マルコ10:1-16

【世界聖餐日】 今日は世界聖餐日です。世界のクリスチャンが、聖餐に与ることにとって、キリストにあって一つであることを覚えるために、世界が分断された第二次世界大戦の前後に広まった取り組みだそうです。

聖餐は、クリスチャンの一致の土台です。主の御前にひれ伏して、一つの心で主の聖餐に与りましょう。

1コリント10:16-1716わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。17パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。

【マルコ福音書の文脈】 聖書日課に従って、マルコ福音書を続けて読んでいます。マルコ8章でペテロが信仰告白をした後、主イエスは受難と復活を予告します。しかし、弟子たちは「誰が一番偉いか」と論じ合ったり、自分たちの地位や特権を求めたりします。8, 9, 10章で、主イエスは3度「受難と復活」を予告して、ご自分が仕えるために来られたことを教え、互いを受けいれ、弱い者を受けいれることを教えます。

■【1.結婚の原則】

2 そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。

主イエスがいつものように群衆に教えておられると、宗教指導者のパリサイ人たちがやって来て、「イエスを試みようとして質問した」とあります。▼離婚問題は、当時のガリラヤとペレアの領主ヘロデ・アンティパスのスキャンダルでした[①]。ヘロデ・アンティパスは元妻を離婚して、妻ヘロディアと結婚しました。これを公に批判した洗礼者ヨハネは投獄され、殺されました。離婚問題は、政治的にデリケートなテーマでした。▽純粋に聖書解釈的にも意見の分かれていたテーマで、パリサイ人は主イエスの評判を落とすために神学論争を仕掛けたかもしれません。

【当時の離婚観】

3イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。4彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。5そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。

パリサイ人たちが言ったのは申命記24章で、ユダヤ教のラビはここから離婚の条件を論じていたそうです。▽しかし、この箇所は本来、離婚に関する直接の規定ではなく、離婚した元妻との再婚を禁じる規定です。離婚の乱用を防ぐために定められた規定でした。

しかし、古代イスラエルでは離婚が乱用されたため、旧約聖書の最後のマラキ書では、離婚が激しく非難されています。

マラキ2:13-16「…これは主があなたと、あなたの若い時の妻との間の、契約の証人だったからである。彼女は、あなたの連れ合い、契約によるあなたの妻であるのに、あなたは彼女を裏切った。…あなたがたはみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。…」

実際、今日のマルコ10:4のパリサイ人の言葉は、離婚の乱用を防ぐための教えを、離婚を正当化するために用いているようです。

しかし主イエスは、離婚を引き起こすのは人間の罪深い「心の頑なさ」だと指摘します。主イエスは、人間が罪を犯す前=「創造のはじめ」の神の計画にさかのぼって、結婚の本来のあるべき姿を示します。

【結婚に関する聖書の教え(創世記より)】

6しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。7それゆえに、人はその父母を離れ、8ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。9だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。

【結婚セミナー】 私は結婚前後のカップルのために、聖書に基づく結婚カウンセリングをしてきました。若い方たちは、結婚や家庭を重視する若い方が多いと感じています。 ▼しかし、社会でも教会でも家庭のことで悩んでいる家庭は多いです。アメリカでは、福音派のクリスチャンは離婚率が低いという統計があり、聖書に基づく心理カウンセリングの分野で、大きな蓄積があります。 ▽問題がこじれてからカウンセリングを受けるのではなくて、関係性を改善し、良い関係をより深めるためにも、カウンセリングを受けることが進められています。▽私の牧師仲間で近年結婚した複数のカップルも、結婚関係を大切にするからこそ、婚約期間に結婚カウンセリングを受けて、いずれも「行って良かった」と言っていました。 ▼価値観が多様化する社会で、結婚に関して何を基準にすればよいのか、何が信頼できるか、分からない人も多いと思います。そんな時代にあって、結婚に関する聖書の教えは、歴史に裏打ちされた教えとして、この時代に向けて語るべき豊かな内容があると感じています。

マルコ10:6の主イエスの言葉は、創世記1:27に基づいています。創世記の箇所は、結婚の原則を表していて、最も基本的な聖句の一つです。

創世記1:27 「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

主イエスは「天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた」と言われて、結婚が天地創造のはじめから計画されていたことを示しました。▽結婚は、人間が好き勝手に扱うことのできる人間が作った制度ではなく、神が定めた制度です。そして、結婚を通して祝福がもたらされ、平和の一致の基礎として定められていました。

【一体性】

マルコ10:7-8で言われた夫婦が一体であるという箇所は、創世記2章の女性が創造された時のエピソードから出ています。

創世記2:21-24 「21そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。24それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

あばら骨は、足の先でも頭の上でもなく、身体の中ほどにあります。ですから男女は本来虐げる関係ではなく、支配する関係でもなく、平等な関係として創造されたことを象徴します。また「あばら骨」は心臓を守る骨ですが、夫婦は一つの心で、心を通わせて歩むものとして計画されていると言われます。

夫婦は「私の骨からの骨、…肉からの肉」と言われたように、自分の身体のようにお互いを大切にします。▼主イエスが引用された24節には、「男は…その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」とあります。エバがアダムの肉体から取られた「骨からの骨、肉からの肉」であったように、夫婦は切り離すことのできない一つの身体のように、神の目から見て新しい一つの存在となることを教えています。▼マラキ書2:15(新改訳2017)では、「神は人を一体に造られた」ので、夫婦が一つの霊であり、夫婦を「一体の人」と呼んでいます。▼主イエスは、このことを「彼らはもはや、ふたりではなく一体である」(マルコ10:8)と言って強調しています。[②]

マルコ10:9 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。

この言葉は、私たちが結婚式を司式する時は、結婚の成立を宣言する結婚宣言として用いています。▼結婚は単なる人間同士の約束ではありません。神の前で、神の支配の下で結ばれ、営まれるのが結婚の契約です。

【弟子たちへの教え】

主イエスは、パリサイ人との議論を終えて、家に入り、弟子たちからの質問に答えます。ヘロデ・アグリッパの離婚の件で、公の場での発言は慎重にしなければなりませんでしたが、弟子とのプライベートな対話では、より率直に話されました。

10家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。11そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。12また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

離婚と再婚に関する主イエスのこの教えは、「神が合わせられたものを、人は離してはならない」という原則の、直接の結論です。▽主イエスは、結婚の本来あるべき姿として、夫婦が一体になって、互いに愛し、仕える姿を教えました。神が結び合わせて一体とされた相手に対する義務を捨てて、他の相手と関係を結ぶなら、それは姦淫の罪であるとされました。▽現代の日本の離婚の理由の第一位は「性格の不一致」です。結婚式の誓約では、「あなたは、常に妻/夫を愛し、敬い、慰め、助け、そのすこやかな時も、病む時も、命の限り、固く節操を守ることを誓いますか?」と問われます。もしこの結婚の誓約を生涯にわたって守り、知恵深くこの誓約に忠実に生きるなら、現代の日本の離婚はずっと少なくなるはずです。

結婚によって結ばれて、「一体」とされた関係は、双方が生きている間、有効です[③]。神が祝福し、神の前で結ばれ、神の見守りのもとにある関係です。それを切り離すことは、御心にかなわないことを主イエスは教えました。

結婚関係は、離婚を避けるという消極的なものにとどまる必要はありません。クリスチャンの結婚カウンセリングでは、時を重ねるほど関係が深まることを教えています。神の国の祝福が流れ出る源として、家庭が豊かにされていくように祈り、愛し、仕えて参りましょう。

■【2.子どものように神に頼る信仰】

今日の聖書箇所の後半マルコ10:13-15では、子どもたちが出てきます。 ▼少し前の9:36-37でも子どもが登場しました。誰が一番偉いかと論じ合っていた弟子たちを見て、主イエスが子どもを抱いて、「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」と言われました。▼ところが弟子たちの姿はほとんど変わりません。13節で、人々が主イエスに子どもたちを祝福して頂こうとして、子どもたちを連れてきます。しかし、弟子たちは彼らを厳しく叱りつけました。

【取るに足りない者】

16節で主イエスは子どもを腕に抱いていますから、まだ小さい子どもだったと思います。▽現代社会は子どもを大切に扱いますが、古代社会では子どもたちは労働力として劣った存在であり、取るに足りない存在と見なされていました。弟子たちのぞんざいな態度は、人を地位や序列で判断する、古い価値基準から出ていたと思います。

【神の国の姿】

主イエスは、珍しく怒りをあらわにされます。

14それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。

主イエスの憤りは、主イエスにとって大切なことが妨げられていることを表しています。▼名もない小さな子どもが、主イエスの祝福を求めて、主イエスのもとに行く場面で、「神の国はこのような者たちのもの」と言われます。▽「神の国の祝福を受けるとは、まさにこのようなものなのだ」――自分の努力によっては、どんな祝福にも値しない幼い子どもたちが、ただイエス様の祝福を求めて、イエス様のところにやってくる。これこそ、神の国なのだ。「わたし(主イエス)こそ神の国をもたらす者であり、わたしのうちに恵みと真実がある。わたしのところに来なさい。わたしに来る者を決して妨げてはいけない」と。

【子どものように】

続く15節は、相変わらず自分の名誉やプライドに固執していた弟子たちに、強調表現を重ねて、神の国の真理を表しています。

15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

主イエスは、受難と復活を予告して、ご自分の命を与えて人々に仕えるために、歩んでいかれました。▽一方、弟子たちは、「誰が一番偉いか」と論じ合い、自分たちの地位と特権を求めました。それは、神の国からほど遠く、むしろ、主イエスとは正反対の姿でした。▽主イエスは、弱い子どもを邪魔する弟子たちに憤り、十字架の真理を悟るように招いておられます。

神の国を受け入れる」とはどういうことでしょうか?それは、この地上にあって、神の国の価値観を受けいれ、それに従うということです。▼しかし実際の弟子たちは、主イエスの十字架と復活の予告を聞いた時、ペテロは主イエスを叱責し、弟子たちは理解できずに恐れました。▽パウロはこれを「十字架のつまずき」と呼びました。救い主キリストが、十字架で死ななければならない私の罪とは何なのでしょうか? ▽「神の国を受け入れる」とは、「キリストの十字架を受け入れる」と言い換えられるのではないでしょうか。それは、「キリストの十字架が必要である私の罪」を認めることです。それは、神の恵みなしには耐えられないことです。

しかし、幼子が何も持たずに主イエスの前に出て祝福を頂いたように、私たちも自分の罪を認めて、ありのままで神の恵みを頂くのです。▼幼子は自分を飾りません。何も持たずに主イエスの前に出て、立派なことをするわけでもなく、ただ神の前に出て、祝福を頂きます。主は祝福を与えようとしておられます。ありのままで出ていくだけで十分なのです。▼私たちの罪のために、主イエスは十字架につけられました。もしそうでなければ、十字架は必要ありませんでした。ここにつまずきがあります。▽しかし、キリストを十字架につけた罪を認めることの先にだけ、キリストにより頼む信仰があります。そして信仰を通してのみ罪の赦しと平安があります。▼赦された罪人として十字架の前に立つ時、私たちは他人を裁くことはできません。十字架こそ、私たちの平和の一致の土台です。主イエスの十字架を認めて、何も持たない子どものように、恵みを求めて御前に行きましょう。

16そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。

触って頂こうとしてやってきた子どもたちを、主イエスは抱き上げて、手を置いて祝福してくださいました。主はいつでも、私たちが求める以上に与えようとしておられます。

そして彼らを抱き、手をその上において祝福された」と言われたように、子たちが神の国に受け入れられていることを、主イエスは見える形で示されました。▼私たちも、子どものように主イエスの十字架を認めて、ありのまま・飢え渇いたまま・貧しく乏しいままで、主イエスを求めて出て行きましょう。主イエスは、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。…神の国はこのような者の国である」と受け入れ・祝福してくださいます。

【子どものように神の国を受け入れる:二十六聖人とトマス小崎】

「子どものように神の国を受け入れた者」として、キリシタンの姿を思い起こしました。豊臣秀吉の時代、キリシタンが急激に増える中、日本が植民地化されることを恐れた秀吉は、宣教師を追放する伴天連追放令を出します。1596年、京都や大阪で、外国人宣教師や日本人信徒24人が投獄され、耳たぶを切り落とされて見せしめに市中を引き回されます。ところが、人々も役人たちも、彼らの様子がこれまでの犯罪人たちとは違うことに驚きます。「こんなに苦しめられ、恥ずかしい思いをさせられているのに、それでも喜んでいるとは、いったいどうしたことだ」。しかし、24人はそのときの気持ちを手紙に書き残しています。「私たちは喜びでいっぱいです。それは神さまへの信仰と愛のために縄で縛られ、辱めをうけるために選ばれたからです。」

彼らは長崎で磔にされるために、京都から900kmの旅をしました。途中、彼らの世話をしてきた2人を加えて、長崎の西坂の処刑場に着き、疲れ切った26人は、自分の名札のついた十字架を見ると、残った力を振り絞ってそこへ走り寄り、十字架をしっかり抱きました。神父の導きで聖歌を唱和し、日本人修道士のパウロ三木が、十字架の上から人々に説教しました。

「…私は何の罪も犯さなかったが、ただ私の主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私にお与えくださった大いなる恵みだと思う。今、この時を前にして貴方がたを欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリシタンの教えが敵と、自分に害を加えた人々を赦すように教えているので、私は(死刑を命じた)太閤(秀吉)と私の死刑に拘わった全ての人々を赦す。太閤に対して憎しみはなく、むしろ彼 と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。」

そして26人は槍を受けて殉教します。この時、親子で殉教した14才のトマス小崎が、残される母に宛てて道中で書いた励ましの手紙が残っています。

「神の御助けにより、この手紙をしたためます。パードレ(神父)以下われわれ二十四名は…長崎で磔刑を受けるため、ここまでまいりました。わたしのこと、また(共に殉教する)ミゲル父上のこと、ご心配くださいませんように。パライソ(天国)ですぐお会いしましょう。お待ちしております。たとえパードレがいなくても、臨終には熱心に罪を痛悔し、イエズス・キリストの幾多の御恵みを感謝なされば、救われます。この世ははかないものですから、パライソの全き幸福を失わぬよう、努力なさいますように。人からどんなに迷惑をかけられても耐え忍び、すべての人に大いなる愛徳を施されますように。私のふたりの弟…を、どうか異教徒の手に渡さぬよう、ご尽力ください。私は母上のことをわれわれの主にお願いいたしましょう。…罪を痛悔するのを忘れぬよう、再び重ねて申し上げます。なぜなら唯一の重大なことなのですから。アダムは神に背き、罪を犯しましたが、痛悔と贖いによって救われました。  …安芸の国 三原城にて」[④]

■【まとめ】

14「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。15よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

子どもたちが、ありのままで主イエスの前に出て、受け入れられたように、私たちも、十字架と復活によって開かれた神の国を心から受け入れ、十字架の前に罪を告白し、何も持たずありのままに御前に出て、神の平和を頂きましょう。

【祈り】

私たちの父なる神様。私たちの罪のために、十字架のイエス様を遣わして下さり、ありがとうございます。主イエスが最も低い者になられ、全ての人に仕えて下さったことをありがとうございます。この世の競争や名誉や辱めを恐れることなく、へりくだって主イエスに従う者としてください。何も持たない子どものように、イエス様の前に出ます。主イエスに従って歩む時、主イエスに似た者に造りかえてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


[①] この記事の舞台は10:1で「ヨルダンの川向こう」とあり、デカポリスかペレヤの地方である。もしペレヤであれば、ヘロデ・アンティパスの領地であった。

[②] 聖書にはしばしば一夫多妻が記録されていますが、この箇所で「ふたり」とあるのは、一夫一妻制を土台としていると考えられています。多くの学者は、聖書は一夫一婦制を支持しており、一夫多妻はそこからの逸脱だと考えています。

[③] 1コリント7:39

[④] まるちれす研究室「ガリラヤへ 新たな出会いと出発のキリシタン史」p45-54