マルコ10:17-31「神の国に入ることは難しい?」

2024年10月13日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ10:17-31
説教 「神の国に入ることは難しい?」
メッセージ 堀部 里子 牧師

富んでいる者が神の国にはいるよりは、
らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい(ラクだ😁)

23それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。24弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。25富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。

マルコ10:23-26

12というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。…15この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。16だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

ヘブル4:12、15-16

おはようございます。秋分の日を越えて段々涼しくなったと思ったら、ここ最近はめっきり寒くなって来ました。季節の変わり目ですが、皆さんの体調が守られますように。今月27日はファミリーコンサートとなりました。全体で15組がエントリーしています。

さて、今日は「神の国に入ることは難しい?」と題してメッセージをいたします。その答えは最後に皆さまが決めていただきたいと思います。

「神の国」とは?

先ず、「神の国」とは何でしょうか。「神の国」とは、肉体の死の後に備えられている天国・御国でもありますが、神の支配が及ぶところ全てです。つまり、この地上で神を信じる者の内側にも実現することができます。

礼拝の前奏曲・讃美歌90番の歌詞の三節を紹介します。

「ここも神の御国なれば、よこしましばしは 時を得とも、主の御旨のややに成りて、天地遂には一つとならん」

現代訳にするなら「罪がしばらくの間この世を席捲(せっけん・支配)したかのように見えても、しばらくの時が過ぎれば、神の御旨が事を為す」です。つまり、この世界は、たとえひと時、それが悲しみと苦しみの景色にしか見えないとしても、それは神の創造された場所で「極めて良い場所・神の国」なのだということです。

イエス様と弟子たちの一行は北から、ガリラヤ地方を通って南下していました。苦難を受けることを弟子たちに告げられて以来、十字架までのカウントダウンが始まったかのようです。イエス様はエルサレムに行く道途上で多くの人々と出会い、病を癒し、教えられ、また人々の質問に答えたりしました。ある日のことです。

金持ちの男性が得たかった永遠の生命

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。(マルコ10:17)

マタイの福音書では、一人の青年が「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」となっています(マタイ19:16)。質問をした男性は真剣にイエス様に従う道を模索していたと考えられます。彼の質問の特徴的な点は、「永遠のいのち」と自分の行いを関連付けていることです。良い行いをして「永遠のいのち」が得られるなら教えてもらいたいと思ったのでしょう。

「永遠のいのち」とは何でしょうか。

「永遠のいのち」とは、身体的な命とは区別される「イエス・キリストにある新しいいのち」(ローマ6:4、8:2)のことです。また、復活されたイエス・キリストご自身の命のことでもあり、永遠なる神の下に属することを意味します。

イエス様の答え

 金持ちの青年の質問に対してイエス様は、律法について問い返して、それを守るようにと命じています。

「いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。(マルコ10:19)

すると青年は、それらすべての戒めを小さい頃から守っていると堂々と答えました。

イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(マルコ10:21)

律法の戒めを忠実に守って生活していた青年にとって、イエス様の命令は青天の霹靂だったと思います。この青年は「永遠のいのち」を願ってイエス様のところに来ましたが、自分以外の他者を愛し仕えることには関心がなかったのかもしれません。

すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。(マルコ10:22)

自分の財産の一部を売り、貧しい人たちに分け与えることはできるかもしれませんが、財産のすべてを売り払ってまで分け与えることは難しいことです。

隣人を愛するチャレンジ

イエス様が引用された十戒の第5~9は、「相手に関する関係性」でした。「永遠のいのち」を得る方法を質問したのですがイエス様の言葉は、戒めを守るという消極的な意味で終わるのでなく、「隣人を自分のように愛して生きる」という積極的に愛を示す人間関係への言及だったのです。この青年はイエス様の言葉を聞いて、悲しみながら立ち去ってしまいました。

もし彼が諦めずに正直に自分の状況をイエス様に話していたらどうだったのだろうと私は考えてしまいます。

「イエス様、私は確かに多くの財産を所有しています。全てを売り払って貧しい人々に施すことは、今の私にはとてもハードルが高いです。でももう少し時間をください。あなたの言うとおりにしたいです。今はできませんが、あなたに従って行きたい思いがあります。永遠のいのちを得たいのです。憐れんでください。」と大胆にもう一歩イエス様に近づいたなら、どうだったのでしょうか。できない自分を認め、主の憐れみにすがり、できるようになるまで導いていただくのも一つの方法ではないでしょうか。

大胆に主イエスに近づき求める姿勢

数週間前の礼拝メッセージで、シリア・フェニキアの女性がイエス様に自分の娘から悪霊を追い出してくださるように願った時、イエス様は最初は断りました。しかしそれでも彼女は引き下がりませんでした。「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と大胆に恵みを求めました(マルコ7:28)。するとイエス様は「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」と女性の求めの通りに癒されました(マルコ7:29)。

私たちは求める心はあっても、求め続けることをしないことが多いのではないでしょうか。そして自分の欠けを指摘された時にひるまず、受け止めそこを越えて行く勇気もいただきたいと思います。

【神の力に頼ること】

金持ちの青年が立ち去った後、イエス様は二度言われました。

「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう…富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マルコ10:23、25)

当時、金持ちは神の祝福を受けた者だと考えられていました。ですから弟子たちは面食らって「それでは、だれが救われることができるのだろう」と言ったのは当然です(マルコ10:26)。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)

らくだが針の穴を通る」という表現は比喩で、イエス様は金持ちが神の国に入ることは人間の力では不可能だが、神の力に頼るなら可能だということをおっしゃりたかったのです。

食わず嫌いからの脱却

私は小さい頃から「食わず嫌い」の傾向があり、これは無理だと思ったら挑戦を止めてしまうことが多々ありました。小さい頃に行っていた教会学校の先生がある時、私に何かを頼みました。具体的なことは忘れましたが、私は「できません」と答えました。すると先生は「全部しなくていいから、お祈りしてやるだけやってみてごらん」と言いました。押し問答を繰り返しましたが、先生がしなくていいとおっしゃらないので、とうとう私は心の中で祈り、少しだけトライしてみました。「あ、できるかも」と思った瞬間、先生が「ありがとう。もういいわよ。よくできました。」とストップをかけました。後から思い返すと、先生は私に最初からできないと決めるのでなく、挑戦して行動を起こすことを教えてくれたと思います。自分の力でできないと諦めるのでなく、神の力で前進することをこれからも学んでいたいと思います。

ニコデモの場合

「救い」に関することは人間の財力、努力、学力や経験などでパスできる事柄ではありません。イエス様は「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」とおっしゃいました(マルコ10:15)。「子どものように」とは「素直に」という意味です。大人になると知恵や知識が増し加わり、心の中心に神以外の物を置きやすくなると思います。そして「素直に神を信じる」ことが難しくなる傾向があると思います。

聖書の中に、ニコデモという議員がいますが、イエス様に興味を持って近づいて来ました。イエス様のなさったことを褒めたのですが、彼もまた神の国に入るためにどうしたらよいかと聞きたかったのでしょう。イエス様はニコデモにこう言いました。

「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない…だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。…それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:3、5、15-16)

 このニコデモは後に十字架に架かったイエス様のために新しいお墓を用意し、陰ながら最後までイエス様と共に歩んだ人でした。以前にイエス様から指摘されたことを心で留め反芻し、イエス様の教えから離れることなく、救いの道を選んだ証拠だと言えます。

では、イエス様に従う道はどのようなものでしょうか。

【弟子として従う動機は?】

 ペテロがイエス様に「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」と弟子たちを代表して言いました(マルコ10:28)。するとイエス様は「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」とペテロに答えました(マルコ10:29-31)。

ペテロや他の弟子たちは、イエス様から弟子としてついてくるように言われ、家族や家など何もかも後ろに置いて(捨てて)イエス様に従って来た自負があったでしょう。そして金持ちの青年は全てを捧げることが出来なくて去ったが、私たちは違うのだと少なからず思ったかもしれません。しかし果たして本当に純粋な気持ちで従って来たのでしょうか。

マタイ19:27でペテロは「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」と質問をしたことが記されています。私たちは何かをいただくためにイエス様に従うのでしょうか。弟子たちの内に隠された動機を見抜いていたイエス様は、彼らに全てを捨てる動機を示されました。それは「わたし(イエス様)のため、福音のため」です。「家、家族、財産を捨てる」という言葉はとても強い言葉ですが、これらを全く省みないという意味ではありません。今まで、自分で家や家族を養い、財産を貯めるというスタンスから、神に委ねて頼って進むというスタンスにシフトするという意味です。

愛はすべてを覆い満ち足らせる

 一般的に何かが欠けている、足りない状態ということは不安要素になります。ある日、夫婦でお気に入りのお店で久しぶりに食事をした時のことです。夫がこう言いました。「僕には量は少し少ないけど、十分に満足できた。」それは食事の多さ、量よりも美味しさ、雰囲気など気持ちが満たされ全体的な質に満足したということでしょう。主に御手に委ねられるとき、「いつも十分」ということが起こります。

昨日のアパルームの証しの中で、一人の女性牧師が、急にお客様に夕食を提供しないといけない状況で、慌てふためいてしまったときのことが書かれていました。一人分として十分だけど、三人分としては十分ではありませんでした。祈りつつあるもので供える中で、素晴らしく満ち足りた楽しい食事会となったということです。「ほんの少ししかないように見える時でさえ、愛を込めて給仕するならいつも十分なのです」とありました。人は愛を感じる時に、満たされ、十分に満足するのではないでしょうか。

家族や家を捨てるということは、彼らを愛さないということではありません。今までの生活にイエス様が介入して来られ、優先順位が変わるということです。福音のために自分自身を差し出すほど、もっと多くの物を持つようになるのです。多くの物とは、お金に換えられない心に与えられる平安、喜び、満たしなどです。すべて主から与えられ主にお返しをするものばかりではないでしょうか。

イエス様は先に救われた者が後になることもあるので、永遠のいのちを受けたからと言って安住するのでなく、最後まで身を引き締めて従い続けることを励ましてくださっています。

知り合いの葬儀に出席した時、棺の中に横たわっている姿の横に献花しながら、「地上に宝を積むより、天に宝を積んでね。天国には持っていけないよ」と言われている気がしました。地上のことであくせくする以上に、神の国のために労苦し、そのために愛の実践を喜んでする者でありたいと思いました。 あなたにとって「神の国」入ることは難しいでしょうか?