ヨハネ18:33-38「真理とは何か」
2024年11月24日(日)礼拝メッセージ
聖書 ヨハネ18:33-38、サムエル下23:1-7
説教 「真理とは何か」
メッセージ 堀部 里子 牧師
イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。
ヨハネ18:37-38
まことに、わが家はそのように、神と共にあるではないか。それは、神が、よろず備わって確かなとこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。どうして彼はわたしの救と願いを、皆なしとげられぬことがあろうか。
サムエル下23:5
おはようございます。先週、知り合いの牧師ファミリーと交わりの機会が与えられ、いろいろな証しを伺い感謝でした。素適だなと思ったことは、過去の同じ出来事を振り返って、親子それぞれの視点からお話しを伺えたことでした。転機の時には御言葉が与えられ、受け取ったとおっしゃっていた姿が印象に残りました。親子といえども、神様はそれぞれに御言葉をもって決断を与えられるお方なのです。親子それぞれの立場がありますが、親子関係の真ん中に、御言葉がある祝福を目の当たりにしました。
四福音書は四人の弟子の視点から記された書簡ですが、その中心はイエス・キリストです。物事の中心に誰がいるのか、何を据えるかで見えてくるものも違ってくるのではないでしょうか。
ユダヤ人指導者たちの心は?
さて今日の箇所は、イエス様が総督ピラトのもとに連れて行かれたことから始まります。祭司長を含むユダヤ人の指導者たちは躍起になってイエス様を殺そうとしてピラトのところに連れて来ました。ヨハネ12:11には「ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである」とあるように、群衆がイエス様のところに集まったことに嫉妬したからでした。「この男さえ始末すれば、群衆は自分たちのところに帰ってくるだろう」と思ったでしょう。ユダヤ人の指導者たちには、群衆を惹きつける力が足りませんでした。彼らは、外側は美しい服を着て飾り、厳かに宗教行事をしましたが、イエス様のように人をよみがえらせる力もなく、権威ある言葉も語れませんでした。
明け方に連れて行かれたということは夜通し、大祭司たちから尋問を受け、イエス様は寝ていないということになります。イエス様を引き渡したユダヤ人指導者たちは、官邸の中には入りませんでした。理由は「…彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった」(ヨハネ18:28)と。
彼らはユダヤの祭りときよめの儀式を守ることには徹底していましたが、心の中はイエス様に対する憎しみと殺害の思いでいっぱいでした。表面だけの心の伴わない礼拝は単なる宗教儀式でしかなく、救いを受けることはできないのです。心からの霊と真理をもって主を礼拝したいと思います。
ピラトの主イエスに対する尋問
ピラトは、ピラトはユダヤ人たちの下心を知っていましたので、仕方なくユダヤ人指導者たちに会うために官邸の外に出て来ました。下心とは、彼らがすでにイエス様の殺害を決定していながら、自分たちには死刑宣告と執行が許されておらず、ピラトを説得してイエス様に十字架刑が宣告されることを願っていることです。ピラトは官邸の外にいるユダヤ人たちと、官邸の中にいるイエス様の間を行き来しながら、尋問をすすめました。
最初の尋問は「あなたは、ユダヤ人の王であるか」(ヨハネ18:33)でした。これこそユダヤ人たちがイエス様を告訴した罪状の大義名分だったからです。「ユダヤ人の王」ということは二つの意味がありました。一つは、旧約聖書で預言されているダビデの王位につく永遠の王であるメシア・救い主という意味です。もう一つは、政治的な意味合いでの王です。ユダヤ人の指導者たちは、「この男はユダヤ人の王と自称しており、それはローマ政府に反逆する反乱者なのだ」ということを利用して反乱罪で告訴したのです。
ピラトに信仰のチャレンジを与える主イエス
イエス様は答える代わりにピラトに問い返しました。「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」(ヨハネ18:34)この質問にはピラトに対する質問も含まれています。人々がイエス様について様々なことを言ったとき、弟子たちに「あなたがたはわたしをだれと言うか」(マタイ16:15)と聞かれたのと同じです。イエス様はピラトに信仰のチャレンジを与えられました。
大学生たちと修養会をした時の話です。「もし聖書の真理と違うことを強要されたらどうするか」とグループで話し合ってもらいました。クリスチャンホームで育った学生がこう言いました。「僕は家の家訓を守るんで、ときっぱり断わっています」と。彼の言う家訓とは、聖書であり、神様が喜ぶかという基準のことでした。イエス様は私たちにも同じように聞かれます。信仰を守るにあたり、「周りのいろいろな声があるでしょう。しかし、あなたはどうですか。何を守り通すでしょうか」と。
「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」(ヨハネ18:35)イエス様の質問にピラトはむきになって「私はユダヤ人でないのに、なぜ私までこの論争に巻き込むのか。あなたは何をしたのか」と聞き返します。ピラトは早くイエス様の口から直接「わたしはユダヤ人の王だ」と聞きたかったのです。ピラトは、自分はローマの属国ユダヤの総督になったが、文化・習慣・宗教も違うユダヤ人の問題に、総督として深く関わることは面倒だと思ったかもしれません。
神の国に属する主イエス
イエス様は「何をしたのか」というピラトの問いに対して、神の国について話します。「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。(ヨハネ18:36)
ピラトはイエス様の言う「わたしの国・神の国」が分かりません。「それでは、あなたは王なのだな」(ヨハネ18:37a)と質問に質問を返します。ピラトの考える王とは「部下がいて王を守る」ということでした。ですから「部下に守られもせず、一人で尋問を受けているイエスは本当に王なのか」とますます理解できなかったことでしょう。
「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」(ヨハネ18:37)。
ピラトはイエス様の言うこと全ては分かりませんでしたが、自分が真理に属していないことと、イエス様に何の罪もないことは分かったようです。ただ「真理とは何か」(ヨハネ18:38)と尋ねました。もはや尋問でなく、信仰問答のようになっています。
ピラトの尋問は「真理とは何か」と聞くことで終わりましたが、ピラトはイエス様から明確な答えを聞かずに去っているので、真理について本当に感心を持って真摯に質問をしてわけではなさそうです。この世のものではない国の王であるイエス様に対して、これ以上の関わりを持たない決意を、無意識に現しているかにも見えます。
真理を受け入れる者に与えらえる特権
「真理」とは何でしょうか。「真実・事実」とはどう違うのでしょうか。英語ではどちらもtruthと訳されます。真理は真実を含み、真実を越えて更に永遠に変わらない絶対的なものです。聖書で言う真理は、神ご自身であり、神の言葉そのものであり、神の国です。頭で理解すると同時に心と魂で受け止め、信じ受け入れることで、私たちも真理に属する者となります。イエス様は真理であり、またこの真理を証しするために生まれ、世に来られたとおっしゃいました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)
ピラトは11年間ユダヤの総督でした。これは事実ですが、真理とは言いません。総督は替わり、王様も代わり、国も政治も時代も変わっていきました。変わらないものは何でしょうか。世界万物を創造し、命を吹き入れた神と神の言葉です。そしてその言葉として来られたイエス・キリストです。「永遠に変わらないもの」が真理なのです。それは信じるに値します。
真理であるイエス様が王として神の国を治めるのは、当時のユダヤの国だけでなく、現代を生きる私たち一人ひとりの心です。真理を受け入れない人や敵対する人々はいつの時代でも一定数います。しかし、受け入れた人には「神の国のこども」となる特権が与えられているのです。イエス様は神の子として地上に遣わされ、十字架で死んで私たちに真理を示し、命を与えるために来られました。この真理の命こそ、「世界最大の贈り物」なのです。クリスマスは「世界最大の贈り物」が何かを世の人々が知る良いチャンスです。このチャンスを用いましょう。
「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。…めぐみとまこと(真理)とに満ちていた。…律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこと(真理)とは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」(ヨハネ1:9-12,14,17)
さまざまな姿をしたキリスト
来週からアドベントに入りますが、クリスマスの時期になると思い出す絵本があります。トルストイが書いた「靴屋のマルチン」という絵本ですが、大まかな内容は以下です。
靴屋のマルチンは妻や息子を病気で失い、「神なんていない」と寂しく毎日を過ごしていました。ある日、イエス様の声が聞こえました。「マルチン、明日あなたのところに行く」と。翌日、マルチンは期待をして待っていましたが、イエス様らしき人は現れません。その代わりに、マルチンは雪かきをしている老人を見て、家に招き温かいお茶を出しました。そして赤ちゃんを抱いて寒そうにしているお母さんに上着を与え、りんご売りのおばあさんからりんごを奪おうとした少年を見て、仲裁をしました。夜になりマルチンは「ああ、イエス様は来られなかったな」と思います。その時、イエス様の声が聞こえました。「今日、私はあなたを訪ねた。あの老人も、あの赤ちゃんと貧しい母親も、あの少年とりんご売りのおばあさんも、皆私だったのだ。お前のところに行ったのが分かったか」
「最も小さい者たちの一人」
ある教会の教会学校で「靴屋のマルチン」の劇がクリスマスに行われることになりました。子どもたちは一生懸命練習し、本番を迎え、大成功に終わりました。その日、教会はキャンドル礼拝、キャロリング、訪問などスケジュールは目白押しだったそうです。劇の片づけをしていると、教会のドアが開いて一組の親子が劇のチラシを持って立っていたそうです。お父さんがこう言いました。「昨年妻が亡くなり、私たちは父子家庭になりました。今年は二人きりのさびしいクリスマスになると思っていました。それが、この子が私を教会に行こうと誘ってくれたんです。子どもは楽しみにして私の帰りを待っていたのですが、私にどうしても抜けられない仕事が入り、遅くなってしまったんです。本当にすみません。わがままだって承知していますが、どうかこの子のためにもう一度、劇をやっていただけませんか」
子どもたちは「やろう」と言ったそうですが、大人たちは「予定が詰まっているから無理だ」と言い、結局大人の意見が結論になり、その親子は帰って行ったそうです。牧師先生が子どもたちに状況説明すると、少しの沈黙の後にキリストの役をした男の子が大きな声で劇のセリフを大人に向けて泣きながら叫んだそうです。
「貧しい人、悲しんでいる人、苦しんでいる人、困っている人、そのような人たちの中にわたしはいます。本当のキリストが来たのに、大人は帰したんだ。教会がキリストを返していいのか!」劇のチラシにはマタイ25:40の言葉が書かれていました。「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」
牧師先生が急いで外に出て親子を捜したそうですが見つかりませんでした。
佐々木炎著「人は命だけでは生きられない」p.147~より
真理と愛は表裏一体
真理は、絶対的で変わらず、例外はありません。また真理は鋭く、裁きとなります。一方で愛は例外も規格外も良しとし、変化をいといません。神は真理なる方ですが、愛の神でもあります。真理と愛は表裏一体です。イエス様は真理であり、王ですが、君臨して王座から動かない王でなく、愛の故に地上に降りて来られました。イエス様は真理と愛を同時に体現してくださった方です。
先程の教会の子どもたちは、クリスマスの本当の意味を知って、チラシを持って来た親子の中にイエス様を見出しました。一方で大人たちは真逆の対応をしました。イエス様を迎えるにあたり、私たちはどのような心構えと準備が必要でしょうか。真理は愛によって拡がり、様々な人たちに届けられて行きます。私たちの内に真理の鋭さと、愛のしなやかさの両方を持ちたいと思います。子どものような心で、イエス様を迎える準備を共にいたしましょう。