ヨハネ1:1-14「人生を照らす光 イエス・キリスト」
2024年12月1日(日)礼拝メッセージ
聖書 ヨハネ1:1-14
説教 「人生を照らす光 イエス・キリスト」
メッセージ 堀部 舜 牧師
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は初めに神と共にあった。3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
6ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。7この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。8彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。13それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネ1:1-14
【報告】 先週、クリスマスの飾り付けをしました。今日からクリスマスを待ち望むアドベントの季節に入ります。今日の午後は、スノードーム作りをします。
神の実在を感じる時
佐藤彰牧師:奥様の正夢
東日本大震災の時に、福島第一原発に最も近い教会の牧師であった佐藤彰先生から伺ったお話しです。佐藤先生の奥様は、結婚して間もない頃、何度も同じ夢を見たそうです。教会員みんなでバスに乗り、各地を巡る夢でした。非常にはっきりした夢で、汗びっしょりになって起きる日が続いたそうです。▼それから20年以上が経ち、3.11の震災が起こりました。礼拝堂は閉鎖され、教会員60-70人と共にバスで避難をして、流浪の旅が始まりました。奥様は、バスの景色を見て、「これ、見たことある…」とつぶやきました。結婚してまもなく見た、あの夢の情景そのままだったといいます。1年間流浪の旅を続け、山形県、東京奥多摩を経て700kmを走り、再び福島のいわき市に落ち着くまで、数多くの主の導きを証ししておられます。▼このお話を聞く時に、人知を超えた神の計画を感じずにはいられません。[①]
三浦綾子さん
三浦綾子さんは、小学校教師として7年間軍国教育に献身し、戦後に罪悪感と絶望を抱いて退職し、結核にかかり、療養をしながら自暴自棄な生活を送ります。▼ある日、婚約者の西中一郎さんを訪ねて、婚約を破棄します。その夜に、綾子さんは冷たい海に入って自殺を図ります。その時、後を追ってきた西中一郎さんが綾子さんを捕まえて、海辺の砂山に連れて上がります。[②]
彼女の代表作「氷点」で、主人公の友人・北原の手紙の中に、同じ斜里の海で自殺未遂をした女性の話が出てきますが、これは綾子さん自身がモデルだそうです。その女性について、手紙は次のように述べます。
死のうとしても死ねない時があるということが、ぼくには意味深いものに思われてなりません。それこそ文字通り死にものぐるいの人間の意志も、何ものかの意志によってはばまれてしまったというこの事実に、ぼくは厳粛なものを感じました。単に偶然といい切れない大いなるものの意志を感じます。ある意味において、それは人の死に会った時よりも厳粛なものとはいえないでしょうか。[③]
これは、三浦綾子さん自身の思いではないでしょうか。その出来事を振り返ってみた時に、人間を越えた大いなる者の意志を感じたのではないかと思います。
私たちは、日常生活では神の計画を実感することは少ないかもしれません。佐藤先生や三浦綾子さんのように劇的ではないかもしれません。しかし、人生の忘れられない場面で、人間を越えた神の導きを感じることがあるのではないでしょうか。
■1.いのちの光であるキリスト
聖書の背景
今日の聖書箇所は、ヨハネ福音書の冒頭の言葉です。キリストの福音を述べるにあたって、天地創造の出来事からキリストが何者であるかを示しています。そして、モーセの幕屋と臨在の記事から、キリストの恵みの実現を述べています。こうして、旧約聖書全体の約束の成就として来られたのが、イエス・キリストであることを教えています。
神の言葉であるキリスト
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は初めに神と共にあった。3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言葉は、旧約聖書の冒頭の天地創造のエピソードを参照しています。
創世記1:1-3 「1はじめに神は天と地とを創造された。2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。」
「神はただひとり」であるけれど、キリストは神に等しく、天地創造のはじめからおられたというのは、どういうことかを、ヨハネは説明しようとしています。▼「神は言われた」…「そのようになった」――天地を創造した神の「言葉」こそ、キリストなのだ、とヨハネは教えます。▼人は声を発する前に、心の中で言葉によって考えを持ちます。人の思いそのものが、心の中で「言葉」となります。心の「思い」と内なる「言葉」が一つであるように、神と一つになって天地創造から共に働かれたのがキリストでした。▼ちなみに、神の霊=聖霊もこの箇所に登場します。「霊」とは「息」という意味もあります。人の言葉を「声」として伝えるのは人間の「息」です。そして、心の思いを導き、思考を導くのは「霊」です。そのように、聖霊は「神の息・霊」として、神ご自身と、その「言葉」であるキリストと共に、一つとなって働かれます。
人の光であるキリスト
4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
いのち
キリストは、天地創造のはじめからおられ、生きておられました。全ての被造物は、神の言葉によって生まれ、神の霊によって生きるものとなりました。人がおかれたエデンの園の中央にはいのちの木がありました。イエス・キリストこそ、命を与える源です。
光
「光」は、闇の中で方向を指し示す道しるべです。神と共にあるいのちこそ、人間が生きるべき方向を示す光であり、生きる目的であり、喜び・希望です[④]。▼この方を見失う時、人は道しるべを失い、行くべき人生の方向を見失います。
三浦綾子さん:前川正さんの真実な愛
三浦綾子さん(当時は結婚前)が婚約を破棄して自殺を図り、自暴自棄な生き方をしていた時、幼馴染の前川正さんが、彼女を春光台の丘に誘いました。彼も結核療養中で、自分の命が長くないことを知って、綾子さんが自分の命を真剣に生きることを願いました。必死に祈り、彼女のために尽くしたいと願っていた前川さんは、綾子さんがいつまた自殺するかも分からず、いい加減に生きているのを見て、自分がふがいなくなり、突然石を取り、自分の足をゴツンゴツンと打ち続けました。綾子さんは記しています。
わたしは言葉もなく、呆然と彼を見つめた。いつの間にかわたしは泣いていた。久しぶりに流す、人間らしい涙であった。…わたしはその時、彼のわたしへの愛が、全身を刺しつらぬくのを感じた。
自分を責めて、自分の身に石打つ姿の背後に、わたしはかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと、わたしは思った。[⑤]
綾子さんは、その光がイエス・キリストの光であることに、気付いていました。ここから彼女の求道が始まり、彼女の生活は次第に変わっていきました。▼彼女は、前川さんの愛の中に、キリストの光を見ました。神を愛し・人を愛する生き方に、真の人間の生き方・「命」の姿を見て、そこに生きる希望の光と目的を見出しました。
◆光を理解する力
5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここに光と闇の対立があります。同時に、「打ち勝たなかった」とは、「理解しなかった」とも訳せる言葉です。おそらく意図的に二重の意味を持つ言葉が使われています。▼キリストは、世の光として暗闇の中に現れたのに、世はそれを理解できませんでした。これを理解できないことに、神から離れた人間の暗闇があります。
ある著名な神学者(ヘンリー・ニューマン)が、霊的な感受性について、次のように述べています。
原罪と自分の罪のこの二種類の罪に気づいているならば、その人の中に、まだ誠実で真面目な感受性があると考えられます。……一般の人たちが持っていない、このような感受性が私たちにあるという事実がわかると、人はだれでも、聖書が教えるいろいろな教えを真実だと思うようになります。同様に、私たちの心を引きつけるまことに聖なる方を、私たちが(霊的な感受性を通して)知るようになれば、平和が充満し、……愛の御霊によって生まれ変わるにつれて、この愛がどこから来るのかわかるようになるでしょう」。[⑥]
神について、光について、世は理解できません。私たちの内で聖霊が働き、私たちの目を開き・耳を開き、霊の感受性を開かれる時に、神の事柄を理解し始めるようになります。
◆光を理解できない闇
口語訳「9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」
1:9は口語訳や聖書協会共同訳が原文に近いと思います。光が、世に「来る」だけでなく、初めから世に「あった」ことが述べられています。
10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
キリストは、この世の外からやって来る異質な存在ではありません。むしろ、初めからおられ、この世を愛によって創造された方なのに、世はキリストを知らなかった。闇の中に目が閉ざされていたのです。
■2.神の子とされる特権
1-11節では、キリストの到来を、天地創造の出来事から見てきました。14-17節では、モーセの幕屋と律法の側面から述べられます。
モーセへの約束
14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
「宿った」とは、文字通りには「幕屋を張る」という言葉です。▽「栄光を見る」とは、モーセやイスラエルの民が主の栄光の輝きを見た時のことを思わせます。▽「めぐみとまこと」に満ちているとは、モーセが十戒を二度目に頂いた時に、主ご自身について宣言された言葉です。[⑦]
モーセが立てた幕屋に神の臨在が満ちたように、主イエスの肉体という幕屋に、神の臨在が満ちていました。旧約聖書の冒頭の天地創造から、旧約聖書中心である律法と幕屋・神殿に至るまで、神が民と共に歩まれた歴史が指し示すものが、イエス・キリストの到来でした。
「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」。そのイエス・キリストこそ、まことの人として、へりくだって神と共に生きる、私たちの生きる道を示しておられます。
独り子の栄光
「父のひとり子としての栄光」という言葉は、主イエスのほかに比べるもののない神の独り子としての神との関係を表しています。▼「わたしたちはその栄光を見た」という言葉に、イエス・キリストの栄光の目撃者としてのヨハネの感動と、それを伝える使命が表れています。
神の子ども:〈契約の民〉
12節は一連の段落の、修辞構造上の中心とも言われます。
12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
「神の子ども」とは、旧約聖書では神の契約の民であるイスラエル民族を指す言葉でした。▼出エジプトの時に主はファラオに対して「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」と言われました。▽モーセは、約束の地を目前にしたイスラエル人に対して、「あなたがたはあなたがたの神、主の子供である」と思い起こさせました[⑧]。「神の子」とは、契約の民を表す言葉です。
今や、主イエスによって、救いは全ての人に開かれています[⑨]。イスラエル民族だけでなく、主イエスを「信じる者」すべてを、「神の子ども」としてくださるのです。
神の子ども:〈神から生まれる〉
「神の子どもとなる」とは、「契約の民となる」という関係性の変化と共に、「新しい命に生まれる」という内実の変化を伴います。
13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
人間の赤ちゃんが生まれると、その瞬間から呼吸を始め、心臓が鼓動し、泣き・眠り・生きていきます。▼「神から生まれる」とは、クリスチャンが新しい生命に生かされることを表しています。▽神から生まれた人は、赤ちゃんが呼吸するように、神を求め・神を探し・神に祈るようになります。赤ちゃんがお母さんに触れて安心するように、神の臨在に触れて喜び・平安のうちに安らぎます。
続氷点 陽子
三浦綾子さんの作品「続・氷点」の最後に、主人公の陽子が夕日に燃える流氷を見ながら、突然、罪を赦す神の存在に目が開かれていく場面があります。
じっと、そのゆらぐ焰をみつめる自分の心に、ふしぎな光が一筋、さしこむのを陽子は感じた。…
(天からの血!)
そう思った瞬間、陽子は、キリストが十字架に流されたという血潮を、今目の前に見せられているような、深い感動を覚えた。それは、説明しがたいふしぎな感動だった。…
先程まで容易に信じ得なかった神の実在が、突如として、何の抵抗もなく信じられた。このされざれとした流氷の原が、血の滴りのように染まり、野火のように燃えるのを見た時、陽子の内部にも、突如、燃える流氷に呼応するような変化が起ったのだ。
この無限の天地の実在を、偶然に帰することは、陽子には到底できなかった。人間を超えた大いなる者の意志を感ぜずにはいられなかった。…
あざやかな焰の色を見つめながら、陽子は、いまこそ人間の罪を真にゆるし得る神のあることを思った。…〔友人の〕順子から聞いていたことが、いまは素直に信じられた。…なぜ、そのことがいままで信じられなかったのか、陽子はふしぎだった。
・・・陽子は静かに頭を垂れた。どのように祈るべきか、言葉を知らなかった。陽子はただ、一切をゆるしてほしいと思いつづけていた。
陽子は、北原に、徹に、啓造に、夏枝に、そして順子に、いま見た燃える流氷の、おどろくべき光景を告げたかった。自分の前に、思ってもみなかった、全く新しい世界が展かれたことを告げたかった。そして、自分がこの世で最も罪深いと心から感じた時、ふしぎな安らかさを与えられることの、ふしぎさも告げたかった。
〈一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである〉…。陽子はその言葉を胸の中でつぶやいた。この言葉にこそ、真の人間の生き方が示されているような気がする。[⑩]
「この人々は、…神によって生まれたのである」。▼神から生まれることは、自分の意志や努力によってするものではありません。神を信じる人に、神がなしてくださる御業です。
12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
ここには、神の恵みの招きに対する私たちの応答が求められています。まず、使徒たちが伝えた主イエスの証しを受け入れて、主イエスこそまことの神であり、聖書が予言した救い主であることを信じることです。そうすれば、神は私たちの心の耳を開き、聖書から私たちへの主イエスの教えを聞かせて下さいます。そして、心の感受性を開いて、神の臨在に目を開かせてくださいます。
そのようにして、真実な信仰は、聖霊の働きによって、時と共に神の子どもとしての内実の変化をもたらします。聖書は、神の霊に導かれているなら、私たちは神の子どもだと教えています。そして、神の子どもであるならば、神のあらゆる祝福の相続者として頂けるのです。
神の独り子は、私たちが皆、神の子となることができるように、地上に来てくださいました。今年のアドベントの期間も、人の光であるキリストに従って、歩んでまいりましょう。
[①] 参考:https://f1church.com/hinanhoukoku.html
[②] 三浦綾子「三浦綾子 電子全集 道ありき」10
[③] 三浦綾子「三浦綾子 電子全集 氷点(下)」 「千島から松」
[④] 詩編36:9, 43:3, 56:13, 119:105
[⑤] 三浦綾子「三浦綾子 電子全集 道ありき 青春編」11
[⑥] 金子晴勇 霊性思想史 勉強会配布資料「第10章 ウェスレーとニュウマン」言葉遣いはシンプルに改変した。「しかし大変憐れみ深い神は、罪深い人間と神ご自身との間に仲介者がおられることをわたしたちに示してくださいました。……原罪と自罪のこの二種類の罪に気づいているうちは、その人の中に、まだ誠実で真面目な感受性があると考えられるからです。……一般の人たちが持っていない感受性がわたしたちにあるという事実がわかると、人はだれでも、いろいろな事柄に対する話を真実だと思うようになります。同様に、わたしたちの心を引きつけるまことに聖なる方をわたしたちが知るようになれば、平和が充満し、……造り主なる主の愛の霊によって生まれ変わるにつれて、この愛がどこから来るのかわかるようになるでしょう」。
[⑦] 出エジプト40:34-35、33:18-23、34:6
[⑧] 出エジ4:22, 申命記14:1, エレミヤ 31:9, ホセア11:1, イザヤ63:16, 64:8, マラキ1:6
[⑨] ローマ11:32
[⑩] 三浦綾子「三浦綾子 電子全集 続 氷点(下)」 「燃える流氷」