ピリピ1:9-11「キリストの日に備えて」
2025年1月5日(日)礼拝メッセージ
聖書 ピリピ1:9-11
説教 「キリストの日に備えて」
メッセージ 堀部 里子 牧師
わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。
ピリピ1:9-11
新年明けましておめでとうございます。今年も主にあって、どうぞ宜しくお願いいたします。2024年は「神の恵みの通り良き管として」というテーマで、Ⅰコリント3:7と詩篇37:5を年間聖句として共に歩んで参りましたが、いかがだったでしょうか。去年の御言葉は、植物の成長に例えられており、多くの解説をしなくても分かりやすい御言葉であったかもしれません。私たちの信仰の成長の励ましになったのであれば感謝なことです。
今年の年間聖句が与えられて
今年は、「キリストの日に備えて」というテーマで、ピリピ1:9-11が年間聖句として与えられました。去年の御言葉のコリント書もピリピ書も、使徒パウロの書簡です。特にピリピ書は共に福音の恵みにあずかってきたピリピの信徒に向けて、更に成長の先にある結実のために書かれた励ましの書簡です。同じ年間聖句でも、今日の御言葉の味わいと、一年後の味わいは深みが違っていると思います。今年一年かけて、お一人ひとりが個人の生活において、また教会としてこの御言葉にどのように生きて行くか、共に味わって行きたいと思います。
創立45周年の年を迎えて
特に2025年は、コイノニア・クリスチャン・チャーチ創立45周年の節目の年です。去年の創立記念礼拝で具志堅聖先生が、ピリピ書からメッセージを語ってくださった時に、「祈りのパートナーシップ」という言葉がありました。「コイノニア」という言葉は、英語では「パートナーシップ」、ギリシャ語で「交わり、共同体」を指す言葉で、最も親密な関係性を意味します。「関わり」と言い換えてもよいでしょう。
コイノニア・クリスチャン・チャーチは単立教会ですが、単独の教会でなく、これまでも様々な交わりを大切にしてきました。JEAや諸教会との交わりや、地域との交わり、そして何よりもイエス・キリストとの交わりです。交わりは個人や単体では成立しません。キリストを中心に、互いに関わり合い(愛)、助け合い(愛)、そして分かち合い(愛)ながら、頭(かしら)であるキリストに向かって、今年も皆さんと共に進んで参りたいと思います。
パウロの祈りを、私たちの祈りとして
今朝は、今年の年間聖句である「パウロの祈り」からメッセージを取り次ぎます。ピリピ書は、パウロが自ら開拓して建てたピリピ教会に宛てた手紙です。ピリピ書はパウロの感謝と喜びで始まり、9節から祈りの言葉になります。パウロはピリピ教会の成長を願い、彼らの愛が豊かになるようにと祈りました。しかし、最初パウロには、ピリピに行く予定はありませんでした。パウロがピリピに行かなければ教会もなかったですし、ピリピ書が書かれることもなかったでしょう。何があったのでしょうか。
神の「No」サインと「Go」サイン
聖書には、「アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、・・・イエスの御霊がこれを許さなかった」(使徒の働き16:6、7)と記されています。つまり、パウロが立てた宣教計画に神様が「NO」を出したのです。良い計画であり、常識的にも信仰的にも落ち度なく、誰も反対をしない計画であっても、聖霊が禁じられることがあるのです。パウロの計画は閉ざされましたが、神様は代わりにマケドニアのピリピの町へ行く祝福の道を開かれました。
「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」(使徒16:9)と訴える幻を見たパウロは、ピリピを訪れたのです。そこで救われる人が起こされ、教会が形成されていきました。私たちは神の「GO」サインにはいち早く気付くかもしれませんが、神の「NO」サインに気づき、祈り深く備えているべきではないでしょうか。
私に出されたかつての「NO」サイン
私が20代の頃、教会の土曜学校で、小学生の英語クラスを担当していた時の話です。私は英語を学ぶことを通して、子どもたちにイエス様のことを知って欲しいと心から願っていました。毎週、自分で教材を作成し、ゲームを考え、工夫を凝らして準備を頑張っていました。
クリスマスの時期になり、英語クラスのクリスマスの出し物は、子どもたちが英語で「主の祈り」を覚えて披露することを思いつきました。しかし、牧師先生は「それはどうかな」と、明確なGOサインを出しませんでした。それでも最後の決断を私に委ねてくださりました。私はもちろん良いことだと思い、当初の計画を決行しました。しかし、クリスマスが終わると、子どもたちは徐々に来なくなってしまいました。今でもそのことを思い出すと、悔やみます。
先ず、英語の「主の祈り」は、小学生の英語のレベルと合っていないにも関わらず、私は彼らの親も見に来るだろうと思い、体裁や完璧さを子どもたちに求めてしまいました。また成果を披露しようとしたことに、私の傲慢さが現れていました。私に多少の熱心さはあったかもしれませんが、私は指導者として子どもたちに対する愛が欠けていたのです。パウロの祈りの言葉が心に響きます。
パウロの祈り
①知識とあらゆる識別力によって、愛が豊かになること
「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、」(ピリピ1:9)
物事の良し悪しなどを総合的に判断するために、確かな知識が必要です。ここで言う知識とは、より深く知ることです。つまり、憶測でなく状況把握や、事実確認です。また識別力とは、知的能力を意味しており、得た知識から一歩進んで判断することです。しかし、パウロは判断力や識別力が上がるようにとは言っていません。結果として、愛が豊かになることを祈っています。
パウロは、「もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。・・・もし愛がなければ、わたしは無に等しい。・・・もし愛がなければ、いっさいは無益である」(Ⅰコリント13:1-3)と言っています。また「知識はすたれても、愛は決して絶えることがない」のです。ピリピの教会は、福音の働きに熱心な教会でしたが、教会内外で発生した問題によって、分裂の兆しがありました。パウロはそのような状況に対して、命令やアドバイスでなく、手紙に愛と祈りを込めたのです。
②大切なことを見分けること
「・・・あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、・・・」(ピリピ1:9)
「大切なこと見分ける」とは、得た知識や識別力を駆使して判断した結果、実際に選び取って行くことです。別の言葉で言うなら、本当の重要なこと、真にすぐれたものを多くの中から取り出して、自分のものとすることです。
ソロモン王に与えられた見分ける目と心
ソロモン王様は王様になったとき、神様に「あなたに何を与えようか、求めなさい」(Ⅰ列王記3:5)と聞かれたときに願ったことは、「聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください」(Ⅰ列王記3:9)でした。神様はソロモン王に言いました。「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、・・・賢い、英明な心を与える。」(Ⅰ列王記3:11-12)
ある日、ソロモン王の下に二人の母親がやってきました。二人は同じ家に住み、同じ時期に赤ちゃんを産みました。一人の女性が寝ていたときに、誤って自分の赤ちゃんの上に乗ってしまい死なせてしまいました。するとその女性は隣で寝ていた赤ちゃんと、死んだ自分の赤ちゃんを取り換えてしまいました。朝になり、二人はどちらとも生きている赤ちゃんの所有権を巡って言い争い、ソロモン王に正しい裁きを求めてやって来たのです。
王の前でも言い争う二人に、ソロモンは言いました。「刀を持ってきなさい」「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ。」(Ⅰ列王記3:24-25)結果として、本当の母親は我が子が殺されるくらいなら、相手の女性に譲っても生きて欲しいと、自分の権利を放棄しました。それを見たソロモン王は、その女性が母親だと言い当てます。
ソロモン王は二人の女性の言い争う姿を前に、本当に大切なことを見抜きました。人のものを奪い取るのでなく、愛ゆえに自分の権利を放棄する母親の愛情を見分けたのです。私たちも本当に大切な本質を見抜く目を与えられていきたいと思います。
③キリストによって与えられる義の実に満たされる
「イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」(ピリピ1:11)
ソロモンの知恵をみましたが、神様が与える知恵は平和に満ちており、平和をつくる人々によって義の実を、つまり神の義しさの実を結びます。
「しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。」(ヤコブ3:17-18)
実は単独ではできません。実は、枝がしっかりと幹に繋がっていて、栄養が吸収されて結ばれるものです。イエス様はご自分のことを「ぶどうの木」だとおっしゃいました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)
世の中の正しさの基準と、聖書が示す神の義は明らかに違います。私たちが暮らしているこの世界の裁判では、自分の正しさを立証するために多額のお金を弁護士に払って、戦わないといけないこともあります。法廷の場は言葉で戦います。言葉で通じないと分かり、武器をとるなら戦争になります。人は、自分の正しさを証明するために戦いますが、キリストによって与えられる義とは、イエス様が十字架上で代わりに罪と死と戦って勝利してくださったことによる実です。ですから、誰でもキリストを信じ、繋がることで与えられるのです。何が正しいのか、誰が正しいのか、本当に正しい方は神お一人であることを覚え、義の実を結ばせていただきましょう。
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)
「キリストの日」に
最後に、「キリストの日」とは神様が裁きを行われる日です。世の終わりに、イエス様がもう一度来られる「再臨の日」ですが、その日は正しい人には救いの日であり、悔い改めずに最後までいた人には滅びの日となります。それはいつなのでしょうか。いつになるのかは誰も知りません。
イエス様を信じた人には、神様が救いの働きを始められ、それを完成してくださると確信します。この確信こそ、苦しみの中にあっても神の国を待ち望み、信仰によって大胆に生きることができるようにしてくれます。日々、愛と義の実を追い求めて行こうではありませんか。すべてのことを通して、私たちの愛と義の実が教会に、そして各家庭に、また遣わされるところに満ち溢れる年とさせていただきましょう。