マタイ12:1-14「安息日であっても」

2025年2月16日(日)礼拝メッセージ

聖書 マタイ12:1-14
説教 「安息日であっても」
メッセージ 堀部 里子 牧師

人の子は安息日の主である。

人の子は安息日の主である。…あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである。

マタイ12:8,11-12

そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下さげたものである。

Ⅰサムエル21:6

【日曜日の礼拝を必ず守る?】

おはようございます。昨日、私の友人の牧師夫妻がご両親のお祝いで、沖縄に家族総勢12名で行っているとのことで、写真が送られてきました。でも「日曜日の礼拝があるので、私たち夫婦は一泊二日で帰ります」と書いてありました。世の中の常識で考えると、礼拝は毎週あるのだから、牧師であっても一回くらい休んでも良いのではという意見があってもおかしくないはずです。

クリスチャンシンガーソングライターで沢知恵さんという方がいますが、彼女のご両親は牧師で、日曜日の授業参観に参加できず、娘たちも礼拝を優先させたので、授業が欠席扱いになったことで、裁判を起こしたことがありました。

日曜日に礼拝を守ることがなぜクリスチャンにとって、大切なのでしょうか。今日は「安息日」について共に考えたいと思います。「安息日」はもともと金曜日の日没から土曜日の日没までの一日のことです。キリスト教会では、主イエスが復活された日曜日に礼拝を守っています。一般的に日曜日は、休みの日と捉えられていますが、一週間に一日の休むという考え方は、聖書からきています。クリスチャンにとっては教会に行き、礼拝する日です。

【安息日とは】

安息日の起源

先ず「安息日」はどんな日かを確認したいと思います。創世記にこう書かれています。

「神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」(創世記2:2-3)

神様が六日間働き、七日目に休まれました。これが「安息日」の起源です。その日は、心と体に休みを与える日です。実際に私たちは、休みなしには疲れてしまいます。定期的に安息することで、私たちは心と体が休まり充電し、新しくされます。神様は人間を創り、命を生み出してくださいましたが、同時に人の生活サイクルも最初から神の秩序の中に組み込んでくださっていたと言えます。何と素晴らしいことでしょうか。「安息日」には「安息日」を定めてくださった神様を先ず覚えたいと思います。

安息日を聖なるものとする

神の天地創造から時が流れ、神様はモーセに人が守るべき「十戒」を与えました十戒の第四番目にこうあります。

安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」(出エジプト記20:8-11)

十戒の中に「安息日」を、神を敬うために聖なるものとするようにと明示されるようになりました。

安息日にまつわる禁止事項

時代を経て、新約時代のラビは、安息日に可能な活動範囲に関する条項を作りました。「安息日法」には、39の禁止事項が定められました。例えば、田畑を耕すこと、種蒔きすること、取り入れること、収穫の束をくくること、穀物の穂を打ち落とすこと、パンを焼くこと、裁縫すること、公共の場で運搬することなど、安息日にしてはならないことが細かく定められており、それらを厳格に守ることが律法に忠実なことの証拠とされました。そのような時代をイエス様は弟子たちと歩まれたのです。

【安息日の主イエスと弟子たちの行動】

「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。2パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。」(マタイ12:1)

安息日にイエス様が、わざわざ麦畑を通られたと聖書に記されていることは、読み手に汲み取って欲しい意図があるのです。「パリサイ人たちがこれを見て」の「見て」は文法的には過去分詞形になっており、瞬間的に見たのでなく、持続的な観察がされていたことを表す言葉です。つまり、パリサイ人たちはイエス様と弟子たちの行動を目を凝らし続けて監視して非難するチャンスを伺っていたようです。安息日に小麦の穂を摘んで食べる行為は、二つの罪にあたりました。

①穂を摘むこと⇒刈り入れをする罪

②穂を手で揉んで殻をむく⇒脱穀する罪

空腹を満たすために

イエス様は「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか」(マタイ12:3)とダビデがしたことを引用されました。

ダビデはユダヤ人にとって、理想の王様であり、ダビデを例に挙げられるとユダヤ人は誰も反論できなかったはずです。イエス様は、緊急な時には安息日の掟が適用されないときもあると示唆されたのです。「臨在のパン」とは、聖所の純金の机の上に置かれた12個のパンのことで、祭司が安息日ごとに新しく焼いたパンを二列にして並べて備えていました。祭司だけが食べることができるパンでしたが、祭司アビメレクはサウルから逃亡していたダビデとお供の若者たちにパンを渡し、彼らは空腹を満たしました。ダビデが宮の臨在のパンを食べても律法に背いたことにならないのなら、弟子たちも罪に定められる理由はないというのです。

律法の解釈基準は「真実の愛・あわれみ」

「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」。」(マタイ12:6-8)

 イエス様はパリサイ人たちに、「宮よりも大いなる者がここにいる」とおっしゃったのは、神殿よりも神殿の本体であるメシアの私がここにいて、メシアが良しとしていることをなぜあなたがたは非難するのかという意味です。

神殿はユダヤ人にとって、神の臨在を象徴するものとして神の次に大事な所でしたが、イエス様はご自分が救い主で、祭司の権限を比べものにならないくらい大きいのだと示されました。

また、ホセア書6:6の言葉を引用して、律法を解釈する基準も示されました。律法を解釈する基準は、「真実の愛」なのだと。「あわれみ」とも訳される言葉です。神様は形式的ないけにえを望まず、空腹の者たちをあわれむ愛を選ぶお方です。

「罪のない者をとがめなかったであろう」というイエス様の言葉に表されている通り、神殿よりも偉大な安息日の主イエス様によって、弟子たちの行為には何の罪もないと認められたことが分かります。安息日は聖なる日ですが、パリサイ人たちが神の本来の律法の意図である愛とあわれみを知らず、言い伝えを強要しようとしている姿に対して、イエス様は新たに救い主の視点からチャレンジをされたのです。

「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)

安息日には礼拝と祈り以外には、いかなる労働もしてはならないという律法に囚われて、真の安息日の基本精神を忘れてしまっては本末転倒です。決まりを守るために、決まりが何のためにあるのかという本来の目的から外れてしまうことはないでしょうか。また決まりを守っていない人を罪に定めていないでしょうか。決まりを守ること以上に大事なことは、あわれむ心であることを心に留めたいと思います。愛は何ものにも囚われません。

【あわれみを行動に移す主イエス】

人々はイエス様を訴えようと、安息日に会堂に入られたイエス様をじっと見ていました。「すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。」(マタイ12:10)

イエス様は人間への愛ゆえに、安息日であっても躊躇することなく癒しのわざをなさいました。

「そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。」(マタイ12:13) 

安息日は善を行い、いのちを救う日です。イエス様は誰かが苦しんでいるとき、一緒に痛みを感じ、悲しまれる方です。そして、苦しむ人を前に、ただあわれむだけでなく、行動に移される方です。そして患部に触れてくださる方です。イエス様は神様として、ただ天から地上をご覧になる方でなく、神が創られた世界と触れ合うために天から降りて来てくださいました。触れるということは、相手の温かさが自分に流れてくるということです。イエス様に触れていただく時、イエス様の愛の温かさを受けます。

何を選ぶか~癒しを喜ぶかor違反を怒るか~

イエス様は形式よりも、一人の魂の癒し・救い・回復を大切にされました。イエス様が病を癒すと、人々は怒りに満ちて、イエス様をどうするか話し合いを始めました。彼らは一人の人の病が癒されたことを共に喜ぶのでなく、安息日に癒しを行ったことを違反だと定め、怒ることを選んだのです。

三つの窓を開け放とう

あるユダヤ人の学者は、安息日に三つの窓を開けなければならないと言いました。それは、①「神様との窓」、②「隣人との窓」、③「自然との窓」だそうです。安息日は、それらの三つの窓を大きく開けて喜ぶ日であり、自分自身と隣人の人生に活力を与えてくれる喜びの日なのだと。パリサイ人たちは、「隣人との窓」を開いていませんでした。「神様との窓」は開かれていたのかもしれませんが、その窓は透明でなく、自分たちの好む色で塗られていました。

私たちの「三つの窓」は開かれているでしょうか。安息日毎に点検しませんか。「三つの窓」が開かれているなら私たちの内なる人が、生き生きしてくることでしょう。

【主を喜ぶことは力】

私は以前、身も心も疲れ果てて、何カ月も咳が止まらなくなり、辛い時期を過ごしました。病院で調べても異常なしで、薬を飲んでも咳が出ました。メッセージをする時には、咳が出ないようにと気を使いました。

ある時、教会で開催された「説教セミナー」でグループで賛美をするようにお願いされました。メンバーが咳の出る私のために祈ってくれ、皆に助けられながら賛美をしていると、内側から抑えられないほどに喜びが溢れ出てきました。イエス様に触れられたような感覚があり、自分でも不思議なように癒されたと思いました。賛美が終わり、米国から来られていた講師の先生が私のところにきて、「あなたの喉は万全でなかったかもしれないが、全能の主があなたを通して働かれました」とおっしゃいました。実際には私はほとんど声が出ておらず、音程を保つこともやっとでした。しかし、弱さを覚える私に働いてイエス様が栄光を現してくださったと御名を崇めました。その日を境に、咳が減少して全く癒されたのです。主を喜び、賛美することは力であることを心に刻んだ出来事でした。

「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない。…主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ記8:9-10)ネヘミヤは安息日を聖なる日として、喜ぶように勧めました。

律法的な安息日法は命を救えませんが、イエス様が十字架で死なれ、復活されたことによって、新たな命が創造されました。イエス様が古い宮を壊して、ご自分の体をもって新しい宮として、このイエス様の前に来て信じる人には、永遠のいのちを与える救い主となられました。

私たちも主の御心に従って命を生かす働きに励むことができますように。そして、本当の安息をいただくことができますように。安息日であっても、いいえ、安息日だからこそ、主の真実の愛に突き動かされて、救いと癒しを体験させていただきましょう。