マタイ5:1-12「心の貧しい人は幸いです」
2025年2月23日(日)礼拝メッセージ
聖書 マタイ5:1-12
説教 「心の貧しい人は幸いです」
メッセージ 堀部 舜 牧師

天国は彼らのものである。
1イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。11わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。12喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
マタイ5:1-12
【証し:御言葉を渇き求める幸い】
私がイエス様を信じて間もない頃、まだ洗礼を受ける決心もつかない頃のことです。毎週教会に通い、毎日聖書を読み始めて、祈り始めると、「信仰」について教える聖書箇所に出会いました。それを通して自分の罪が示されて、悔い改めると、聖書の一つ一つの言葉が心にしみて、自分のこととして理解できるようになっていきました。当時私は大学2年生で、朝、自宅の勉強机や大学の図書館の静かな場所で、御言葉を読みました。▼聖書に出会い、世界観がひっくり返るような衝撃の中で、周りには同じクリスチャンがいない、ある意味孤独な環境で、神様に集中しました。▼大学に入って、勉強に打ち込みたかった私は、毎週教会に通い、毎日聖書を読むことに、はじめは大きな負担を感じました。他の学生よりも勉強に遅れをとってしまう、不利ではないかと不安になりました。▽でも、神様を知りたい飢え渇きは抑えられませんでした。毎朝聖書から御心を知り、祈りつつ主の御声に耳を傾けるそうして得られる平安と愛の慰めは、何にも代えがたいものでした。少し大げさかもしれませんが、乾燥した砂漠で貴重な水をたっぷりと蓄えて、一滴もこぼさないように大切に飲むように、毎朝毎朝、神様の御声を聞き、神様の愛の御声を聞き取って一日を始め、一日をその臨在の中に過ごせるように、毎朝の聖書に向かいました。▼まだ右も左も分からない生まれたてのクリスチャンで、当時は「気心の知れたクリスチャンがいない寂しさ」「信仰のことが分からないことだらけの不安」「先の見えない恐れ」などで、心が渇き切っているように感じていました。今振り返ると、愛の神様が共にいて、導いて下さり、御言葉ひもとき、一歩一歩手を取って導いて下さった、神の愛に満ちた特別な期間であったと思います。▼神の言葉に飢え渇き、砕かれた心・貧しい心で神を求める幸いを思います。
【聖書の背景】
今日の聖書の箇所は、有名な山上の説教の冒頭の箇所です。新約聖書全体の冒頭近くに配置されて、主イエスご自身の言葉で一番まとまって語られた教えとして、主イエスの教えの比類のない要約だと言えます。
この教えは、「いつの時代の誰が言っても通用する『普遍的な教え』」というたぐいの教えではありません。そうではなく、いつ・誰が述べたのかが重要です。▽先々週のメッセージでも、キリスト教の核心は、「教理」ではなく、「救い主ご自身」であるとお話ししました。▼山上の説教の冒頭では、「幸いなことよ」と宣言されます。それは、主イエスの到来によってもたらされたものです。旧約聖書では、将来のこととして予言されていた祝福が、主イエスの到来によって、地上で実現し始めました。それが山上の説教です。今日の箇所は、旧約聖書の文脈と、その予言が主イエスによって実現したことを踏まえて初めて理解できます。▽イエス・キリストとの生きた人格的な交わり/キリストの生きた身体である教会の交わり のうちで、この「幸い」が私たちのものとなります。
「すでに」と「後に」
3節と10節に、「天国は彼らのものである」と同じ言葉が使われています。これは現在形で、今すでに私たちが持っているもの(頂いているもの)です。その間の4-9節はすべて未来形です。[1]▽今日の箇所全体で、「今すでに天国を頂いている」という恵みの土台の上に立って、「これから与えて頂く」神の約束に希望を置いて、キリストに従う神の民として今生きている私たちの幸いが述べられています。
心の貧しい人は幸いです
3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
【今すでに】 ある翻訳では、「天の御国が彼らのものであるということは、心の貧しい者にとって、なんと素晴らしいことでしょう!」とあります。主イエスは、天の御国がご自分と共に到来し、御言葉を聞いて受け入れる人に、すでに与えられていることを宣言されます。
貧しい人とは
今日の御言葉は、特にイザヤ書の後半と多くのつながりがあります。
イザヤ61:1「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、…」
「心の貧しい者は幸いです」という主イエスの言葉は、主イエスの到来によって、これらの旧約預言が成就したことを宣言しています。▼旧約聖書で「貧しい者」は、神の前にへりくだった者を意味します。
イザヤ66:2では似た概念の言葉が言い換えられています。[2]
イザヤ66:2「…わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。」[3]
「へりくだった者(貧しい者)」「霊の砕かれた者」「わたしのことばにおののく者」が互いに近いニュアンスであることが分かります。と言い換えられています。
【証し:心の貧しさ】
何度かお話ししていることですが、私は大学生の時に初めて聖書を読んだ時に、マタイから読み始めました。信仰とは何か、罪とは何かが分からずに読み始めて、主イエスがその信仰をほめられた二人の人、百人隊長とカナン人の女の記事を読んで、真の信仰とはどういうものなのかを知りました。▽カナン人の女が、主イエスに最初は答えてもらえなくても、「小犬」という屈辱的な言葉で呼ばれても、「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と答えました。そこに深い徹底的な謙遜と神への信頼がありました。信仰とは謙遜なのだ。謙遜なしに信仰などありえないのだということを徹底的に学び、神を神として認めて信頼していなかった自分の傲慢に気づき、「私」が中心ではなく「神」を中心に考えるようになった決定的な出来事でした。
その後、私を教え導いてくれた方が、私のために、最も大切なこととして、生涯心に留めるようにと教えてくれたのは、「『砕かれた霊』によって歩みなさい」ということでした。▼人の世は、誇りと自慢、他人への批判などに満ちています。それは、神の前で誇ることのない自分を他人と比べて、神の前に立っている自分を忘れた時に、私のうちに入ってきます。人と比べて自分を誇る時、自分が「心の貧しい者」「霊の砕かれた者」であることを忘れているのです。▽「『砕かれた霊』によって歩みなさい」――それは、あのカナン人の女の謙遜と信仰を見て、徹底的にへりくだらされた、あの時の心に、今この瞬間も経ち続けることを意味しています。
3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

悲しむ人は幸いです
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
この御言葉も、主イエスの召命を表すイザヤ61章から取られています。
イザヤ61:2「…すべての悲しむ者を慰め…」
時代背景
時代背景を考えれば、バビロン捕囚の時代に神殿は崩壊し、国は滅び、人々は諸国に離散して住むようになりました。神殿は再建されましたが、外国の支配から抜け出せず、真に復興したとはみなされませんでした。イスラエルの窮状を嘆き悲しむ敬虔な人々に、主イエスの到来は慰めをもたらしました。
適用
私たちはどうでしょうか。▽主の豊かな祝福を期待していたのに、目に見える実りが乏しい――仕事や家庭の祝福において、教会の働きにおいて、そうかもしれません。主の豊かな勝利と祝福を頂いて「神様はここにおられる」と証ししたいけれど、人々の目に認められるような結果は出てこない。▽聖書が教える信仰と希望と愛に満たされて生きたいけれど、失望し落胆することが多い。クリスチャンとして生きているのに、聖書が教えるクリスチャンらしい満たされた生き方ができない。不満や落胆が先に出て来る。▼――そうした悲しみと落胆を塗り替えてくださるのは、神ご自身です。
イザヤ61:3「シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。…」
「リバイバル(信仰復興)は、常に悔い改めから始まる」と言われます。聖霊が力強く働く時、まず悔い改めから始まります。自分の中の不徹底。気付いていながら続けていた罪、不信仰、祈りの欠如がしめされて、御言葉と祈りに対する強い飢え渇きが起こります。▼このような信仰の復興は、「悔い改めた人から」広がっていきます。一人一人の内で、恵みの流れを妨げている具体的な妨げが取り除かれる時に、恵みが流れ出していきます。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
「慰められる」というのは、神ご自身が慰めて下さるのです。人間ではありません。楽しい出来事や物質的・外面的な喜びではありません。内なる霊的な悲しみは、ただ神だけが癒すことができます。神からの内なる慰めを祈り求めて参りましょう。
柔和な人は幸いです
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
柔和な人とは
マタイ5:5は、詩篇37:11から取られています。前後の箇所を読むと、「柔和な者」がどのような者かが見えてきます。
詩編37:7-11「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、6あなたの義を光のように明らかに…される。7主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。…悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。8怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。9悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。10悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。11しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。」
柔和な人とは、他人の悪に悪を持って報いず、悪を伴う人間的な方法で神の御心を成し遂げようとしない人です。「耐え忍んで主を待ち」、私たちの「道を主に委ね」、「主に信頼」し、「主が成し遂げてくださる」のを待ち望む人です。
時代背景
主イエスの時代を考えると、イスラエルは外国に虐げられ、人々は軍事力でイスラエルを解放しようとし、やがてローマ帝国との全面戦争とユダヤの滅亡に至ります。
主イエスの柔和さ
しかし主イエスは柔和な方でした 。キリストは、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられ」ました(1ペテロ2:22-23)。地上では十字架の死を受けられましたが、復活して昇天され、やがて全世界を相続されます。
適用
私たちはどうでしょうか? 神の御心を成し遂げようとして、誰かに腹を立てたり、人間同士で争ったりするのは、無益なことです。▽主と共に歩んでいても、時には途方に暮れ、自分のやっていることが砂の上の塔のように、建てるそばから崩れ去っていくように感じることもあります。主の御業は、主ご自身が成し遂げさせて下さいます。「主の前に静まり 耐え忍んで主を待ち」、「主を待ち望」んで参りましょう。
相続地とは
「柔和な人は地を受け継ぐ」。私たちが求めている祝福の「相続地」とは何でしょうか。家庭の祝福かもしれません。神様が下さる信仰の友人・信仰の家族との心温まる交わりかもしれません。主を証しし・主のために労し・主を愛する機会かもしれません。職場での祝福かもしれません。自分以外は誰も知らない隠れた霊的な恵みかもしれません。主は、それぞれにふさわしい喜びの持ち場を、相続地のように与えて下さいます。
義に飢え渇く人は幸いです
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
聖書での「義」とは
「義」という言葉は、ヘブル人の思想文化に深く根差した言葉で、神との「関係性」から出て来るものです。▽ヘブル語では、①神が神の民にしてくださること=たとえば、救いの御業が「義」と呼ばれます(神の義)。「関係性」の中で、神がして下さることです。そして、②私たちが神との関係に誠実であることを、神が認めて下さることが「義」と呼ばれます(私たちの義)。▼神との関係性を抜きにして、宗教的な基準を守ったら「自分は正しい」とするのは、神との関係に基づく聖書の「義」からかけ離れています。▽また、宗教的な基準を守って周りの人から認められる、というのも、「神との関係」が「人との関係」に置き換わってしまっています[4]。聖書が教える「義」とは、神との人格的な交わりなしには、成り立ちません。
飢え渇く人
この神との人格的な信頼関係を追い求めるのが、「義に飢え渇く者」です。▼乾燥したイスラエルでは、水を渇き求める強烈な欲求を人々は知っていました。最近、ご高齢の方々とお話しする中で、戦後の子どもたちの「飢え」について伺いました。甘いものに飢えていて、少しでも甘い味のするものは口に入れてしまったという子ども時代のお話しを伺いました。▼喉が渇き、空腹で食べ物に飢えるように、神が下さる「義」を慕い求めるのが「義に飢え渇く者」です。
イザヤ54:17-55:1「『これが主のしもべらの受ける嗣業であり、また彼らがわたしから受ける義である』と主は言われる。『さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。』」
適用
私たちは、御言葉を渇き求めているでしょうか? 御言葉と祈りのうちに、主に出会い、主と共に過ごすことを、水に渇き・食べ物を求めるように、渇き求めているでしょうか? ▼神以外の何者も、霊の飢え渇きを満たすことはできません。しかし、主イエスが遣わされた聖霊は、私たちの心の底を潤し、「満ち足り」させて下さいます。▼毎日毎日主に出会うことを求めるのは、難しいことではないかもしれません。しかし、神様との関係への100%のコミットメントを求めます。妨げを取り除くのには祈りの苦闘が必要です。それは、大きな平安と喜びをもたらし、そこに立ち続ける者に、非常に大きな益をもたらします。

彼らは飽き足りるようになるであろう。
神の子どもの「生き方」(7-9節)
後半の7節以下は、時間の都合でごく簡単にお話しします。主イエスが山上の説教で強調した、聖なる生活(心と生活の一致)を表しているようです[5]。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
憐れみは、憐れみの心を行動に移して初めて意味があります。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
8節は、詩篇24篇と関連しており、実践的な聖なる生活を指しています。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
平和をつくることも、具体的な生き方と結びついています。
それらの全ての真実な生き方は、私たちがなした以上の大きな祝福を頂きます。神ご自身から、真実な神の民=神の子どもと呼ばれ、神の大きな憐れみを頂き、後の世でキリストをありのままに見て、その似姿に造り変えられます。
天の御国はその人たちのもの
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
迫害については、別の機会にお話しいたします。しかし、そのような状況にあっても「幸い」だと言われる理由は、「天国は(今すでに)彼らのものである」です。
11節冒頭の「わたしのために」とあるように、主イエスの名のために受ける苦しみは大きな報いがあります。私たちは、「今すでに」受けている恵みの上に立ち、「将来に約束されている、神の御業に期待して」、歩んでまいりましょう。
まとめ
「天の御国は(今すでに)その人たちのものだから」
この「今すでに」与えられている土台に堅く立ち、「将来に」約束されている神の御業に期待して、神に召された者にふさわしく、「砕かれた霊・貧しい心」をもって、「悲しむ心」をもって、「柔和で謙遜な心」をもって、「神を慕い求める飢え渇いた心」をもって、主を慕い求めて参りましょう。
神に倣う者として「憐れみ」をもって、「聖なる心と生活」をもって、「平和を作る歩み」をもって、無理解や迫害や試練の中でも、主を見上げて、主の報いを期待して、歩んでまいりましょう。
祈り
愛する天の父なる神様。天の御国を私たちに与えていてくださることを、ありがとうございます。あなたがたは「慰められる」、あなたがたは「地を受け継ぐ」、あなたがたは「満ち足りる」、あなたがたは「あわれみを受ける」、あなたがたは「神を見る」、あなたがたは「神の子どもと呼ばれる」、「天においてあなたがたの報いは大きい」と約束して下さってありがとうございます。ご臨在の聖霊に励まされ、主のお約束に信頼して、主に似た神の子どもとして、召して下さる神様にふさわしく歩む者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
[1] 構造について。①3-10節は「彼ら」(3人称)であるのに対して、11-12節は「あなた方」(2人称)であり、3-10節と11節以下でセクションが異なる。②3節と10節は「天国は彼らのものである」によって囲い込みを形成している。また、3節と10節の後半は現在形であるのに対して、4-9節は全て未来形であり、囲い込み構造を強化している。③3-6節の「~な者は」というギリシャ語は全てπ-で始まる。3-6節と7-10節の前半後半に分かれることを示唆する。▼これらをまとめると、3-10節の8つの宣言が1つのまとまりとなり、「A:3節、B:4-6節、B':7-9節、A':10節」というキアズマ構造を持っていると考えられる。様々な説があるが、本メッセージは、以下、この構造理解に従って述べる。山上の説教の冒頭の構造は、山上の説教全体の構造と、何らかの関連を持っていると考えられている。(Nolland, John, The Gospel of Matthew - A Commentary on the
Greek Text, The New International Greek Testament Commentary.など参照)
[2] ケネス・ベイリー「中東文化の眼で見たイエス」第5章
[3] 口語訳で「へりくだって」と訳されている言葉は、新改訳2017では「貧しい者」と訳されている。ただし、ギリシャ語旧約聖書のギリシャ語の訳語は、マタイ5:3とは異なる。
[4] ケネス・ベイリー「中東文化の眼で見たイエス」第6章など参照
[5] Nolland, John, The Gospel of Matthew - A Commentary on the
Greek Text, The New International Greek Testament Commentary.参照