マタイ28:1-10「主イエスはよみがえられた!」

2025年4月20日(日)イースター 礼拝メッセージ

聖書 マタイ28:1-10
説教 「主イエスはよみがえられた!」
メッセージ 堀部 舜 牧師

もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、           

1ペテロ1:3

1さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。2すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。3その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。4見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。5この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、6もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。7そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。8そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。10そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

マタイ28:1-10

【1.Yさんの生涯への神様の導き】

イースターおめでとうございます! 今朝の礼拝では、特別にメッセージ前に教会員Yさんに人生のストーリーをお話しして頂きました。

【Yさんと精神里子運動】 Yさんの里子(さとご)であるMさんは、フィリピンのスラムの出身で、Yさんは里親を始めて2年後に、当時8歳のMさんを訪ねた時、彼女は栄養失調で入院していたそうです。カメラを向けても笑顔のない、やせ細ったMさんの姿に、「涙、涙の初対面」だったそうです。

その後、セブ島の里親運動の事務所の働きが打ち切りになり、支援していた別の里子とは連絡が取れなくなります。Yさんご夫妻は、訪問時に何気なく撮っていた写真に写っていた住所を頼りに、里子のMさんと直接連絡を取ることができました。手紙にお金を同封して送っても、途中で抜き取られてしまう。フィリピンの大手銀行に行っても口座を作らせてもらえない。クーデターが起こる。里親運動の事務所が閉鎖される中で、個人的な支援のルートをゼロから開拓して、支援を続けられました。一般的には、直接の支援では物品をおねだりされることがよくあるそうですが、Mさんも慎ましく真心こめてその愛を受け止め、高校・大学を卒業して、立派な高校の教師・母親になられました。相互の信頼と真実な関わりに、真実な愛の交流を見る思いがします。

【神の導き】 Yさんの信仰の生涯の中で、多くの出会いと転機がありました。クリスチャンであった中学校の先生を通して、Yさんの心は神様に向かって開かれ始めました。19才で夜の伝道集会に出席を重ね、朝の礼拝に「週に一回出席すべきだと感じ」たのは、神様の招きだったと言えるでしょう。まだ洗礼を受けていない10代の新入社員であった頃に、社長に直談判して日曜日に休みをもらったのは、神様への大きな捧げ物でした。礼拝に出て、聖書を読むようになり、何年かかかって聖書の理解が深まっていかれました。▼教会と縁の深い奥様との結婚も、里子のMさんとの出会いにも、神様の導きがあったのではないでしょうか。Yさんは数十年間、教会から離れていましたが、Mさんとの交流は多くの障害を越えて続いていき、大人になったMさんから「お父さん、教会に行ってください」と繰り返し背中を押されて、教会に戻られました。ここに、確かに神の導きの御手を見ることができます。▼Yさんの人生を神が導かれたように、私たち一人一人の人生に、神は働きかけておられないでしょうか?

【試練】 人生をその時その時のスナップショットで見る時に、いつでも悩みはあり、悩みがクローズアップされて、神の導きか分からないことがあります。個々の悩みや課題から一歩下がって、大きな視点で人生を思う時、神様が一歩一歩私たちに働きかけ、忍耐強く語りかけ続けて下さっていることに気付くことがあると思います。

【2.イースターの女性たち】

今日の聖書箇所は、主イエスが復活された朝の記事です。▼復活は、キリスト教信仰の最も大切な出来事でが、それははるか昔の・日常からかけ離れた 奇跡の中の奇跡で、私たちの日々の生活とのつながりを感じにくいのではないかと思います。 ▼しかし今日の記事は、私たちが「神様に出会う」のがどういうことなのかを、よく示してくれています。今日はこの聖書から、神様に出会うとはどういうことなのか、見ていきます。

墓を見に行

2000年前のイースターの朝、女性たちの前にあったのは、主イエス様の十字架の死と埋葬という強烈な突然の現実でした。日が昇るのも待ちきれずに、示し合わせて墓に行った女性たちの目の前で、墓は巨大な石でふさがれ、その周りは屈強で乱暴なローマ兵たちが警備していました。

わずか1週間前に、イエス様がエルサレムに入られた時には、イエス様についてきた大群衆が、イエス様を王として・救い主として、熱狂的に迎えました。その同じ週のうちに、エルサレムの指導者たちとイエス様の間に激しい論争が起きました。指導者たちは、主イエスを王にしようとする群衆が暴動を起こして、自分たちの地位が脅かされることを恐れて陰謀をめぐらし、夜のうちに主イエスを捕らえて裁判にかけ、次の朝には十字架に架けて、激しい苦痛と屈辱の内に、主イエスを殺しました。▼主イエスの弟子たちは何の手出しもできず、ただ成り行きを見守ることしかできませんでした。

【適用:無力さ】 現代の私たちの人生の中でも、逆らうことのできない状況に圧倒されて、無力さを痛感することが、誰しも経験があると思います。Yさんも、大きな病気を重ね、奥様を天に送られました。祈りが聞かれず、悩みや悲しみの中で神様の恵みが感じられない時期があったかもしれません。そんな時には、自分の無力さばかりか、弱さや罪深さを痛感するかもしれません。▼しかし、これこそ、神が私たちを導き・神を求めるようにされる神様の方法なのです。神様は、試練も通して着実にYさんの人生に働かれました。▼そのように、聖書の女性たちの前で、神の働きが力強く働いていました。

天使

女性たちが見た地震・輝く天使の姿・屈強な兵士たちを縮み上がらせる権威は、神が力強く働いていることを表します。そばにいた女性たちも、この光景を見て恐れました。天使は、彼女たちを安心させ、主イエスが復活したことを告げます。

復活の告知

6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。

女性たちは天使の言葉を聞いて、墓の中を見て、墓が空であり、主イエスの遺体にまかれていた布が、そのまま残っていたのを見たでしょう。そして、主イエスの言葉を思い出して、イエス様が前々からご自分の死と復活を予告しておられたことに気付きました。女性たちは、主イエスが言っていたとおりに実現しているのを、少しずつ理解していきました。

【適用:徐々に理解する】 私たちの信仰の理解も、そのように時間をかけて深まっていくものではないでしょうか。

Yさんは、中学校で初めてイエス様の話を聞き、神様に祈り、それから近所の教会の伝道集会に参加するまでに7年かかりました。夜の集会に参加し続けて御言葉を聞き続ける中で、ある時、朝の礼拝に「週に一度出席すべきだと」お感じになりました。一歩一歩時間をかけて、神様がYさんを引き寄せていかれました。▽Yさんは、初めは聖書の奇跡が納得できなかったそうです。しかし、礼拝に出席し、聖書を読み進めるうちに、何年か経つと、次第にそんなことも腑に落ちるようになっていかれたそうです。

信仰をもって、洗礼を受ければ、1日や1か月で全てが変わるというものではありません。▼(今日の礼拝には、初めての赤ちゃんが参加していますが、)ちょうど赤ちゃんが首が座り、寝返りを打ち、お座りし、はいはいを始め、つかまり立ちを始めるように、私たちの信仰も段階を追って成長します。1才の赤ちゃんが言葉をしゃべらないといって嘆くことはありません。でも、私たちが大人になってから信仰に入ろうとする時、これに似たことがよく起こるように思います。「信じても何も変わっていないんじゃないか?」「御言葉を聞いて平安を頂くけれども、それが続かない。私の信仰は何か間違っているんだろうか?」――信仰の達人のような、何があっても揺るがない平安やどんな迫害の中でも喜びにあふれる姿は、トップアスリートのような、信仰の鍛錬の先にある恵みです。▽信仰は人間の肉体の成長と同じように長い時間をかけて成熟していきます。私たちはまだ信仰の道を駆け足で進めてはいないかもしれません。▼でも、赤ちゃんがよく飲みよく食べて、親の目には日毎に成長していくように、私たちの信仰も、聖書の言葉に養われて、いつの間にか成長していくものです。

聖書の女性たちも、①天使の言葉を聞き、②空の墓を見て、③イエス様の教えを思い出して、次第にイエス様が復活されたことが理解されていきました。

復活を知らせに走る

主イエスの復活を聞いた女性たちは、驚きと大きな喜びを抱いて、弟子たちに伝えるために夢中で走りました。すると、なんとイエス様ご自身が彼女たちの前に現れます。

主イエスと出会う

主イエスが言われた「おはよう」という言葉は、元々は「喜びなさい」という意味です。普段通りの挨拶の中に、復活の喜びが込められています。私たちが復活のイエス様と出会うとき、私たちの内に静かな喜びが湧いてきます。▼女性たちは、主イエスの残酷な十字架と死に恐れましたが、復活の主イエスは「恐れることはない」と言われました。復活されたイエス様が共におられるなら、私たちは恐れることはありません。平安が約束されています。▼復活された主イエスに会う時、彼らは全てを理解し、恐れから解放されて、平安を頂き、感謝の喜びに満たされました。

【適用:キリストに出会う】 福音書の女性たちは、復活したイエス様と顔と顔を合わせて会いました。今の時代はイエス様の肉体は天にあり、肉眼で見ることはできませんが、イエス様は私たちの心の内に住んでくださいます。▼イエス様に祈って平安を感じ・喜びを感じる時、聖書を読んで心を刺され、聖書の言葉を自分のこと感じて、イエス様の愛を感じる時、私たちは、心の中におられるイエス様に出会い始めているのです。

【3.キリストに出会う】

イエス様は、どのような形で私たちに出会って下さるのでしょうか。今日の箇所から3つ見てみます。

1.十字架につけられたままのイエス

5節に「十字架につけられたイエス」とあります。原文は実はとても不思議な表現で、「今もなお十字架につけられている方」「十字架にかけられたままのお方」というニュアンスがあります。この言葉を深く研究している日本の聖書学者がいるのですが、この変わった言葉遣いが、パウロの手紙の重要な箇所に3回出て来ます。▼実際のイエス様の肉体は、すでに十字架から降ろされて葬られ、復活して今は天にあります。しかし、ある意味で、イエス様が今なお十字架の苦しみを負っておられると言えるのかもしれません。▼聖書で私たちの苦しみは、主イエスの苦しみと一つに結ばれています。私たちが人生で苦しむ時、キリストは私たちと共に、私たちの苦しみを共に苦しんでおられます。――私たちは、理不尽な苦しみだけでなく、自分自身の罪・過ちから出た苦しみの中でさえ、主イエスが共に苦しんで下さり、その苦しみの中でこそ、主イエスに出会うのです。 ▽福音書の女性たちが復活の主イエスに出会ったのも、まさに絶望のただ中にありました。主イエスが死に、希望がすべて絶たれたと思ったその時に、復活のキリストご自身が表れて、希望となってくださいました。▽私たちは、神様に平安と喜びを求めるでしょうか。神様はそれをくださいます。でもそれは、絶望と苦しみの十字架のただ中で、十字架に架けられた主イエスご自身との出会いによって、もたらされるのです。

2.よみがえられた主イエス

第二に、主イエスは「よみがえられた方」として出会ってくださいます。私たちが主イエスに出会うのは、まさに私たちの苦しみという十字架のただ中です。私たちが死を覚悟してあきらめた時に、私たちは復活のいのちに希望を置きます。地上の命に絶望しないうちは、永遠の命に希望を置くことはありません。地上のいのちの限界を知る時に、復活のいのちが希望となります。Yさんは、年を取られて多くの病気を担い、死を絶えず身近に覚悟してこられた中で、日々を支えて下さるイエス様の恵みと、復活の希望を繰り返し心に留めながら歩んでこられたのではないかと思います。

しかし、私たちが何かを恐れる時、虐げられることを恐れ、無視されることを恐れ、仕事を失うことを恐れ、生きていけなくなることを恐れます。病気になり、命を失うことを恐れます。私たちの恐れは、何かを失うこと、究極的には死の恐れに結び付いています。使徒パウロは死を「最後の敵」と呼びました。主イエスが死からよみがえったことは、私たちもやがて命を頂くことを約束しています。死からよみがえらされること――もはや死を恐れる必要がなく、失うことを恐れなくても良いことを教えています。それは、人生の逆境の中で人間らしく生きる力を与えます。

主イエスは、十字架の苦しい死のどん底にあっても、自分を苦しめる人を恨まず、彼らのために祈り、母親を顧み、共に十字架につけられた強盗を祝福しました。十字架の主イエスの姿は、最悪の死の苦しみの中で、勇敢に恐れに打ち勝ち、最も人間らしく生き抜いた真の人間の姿でした。永遠の命の希望は、私たちにも敗北や喪失や屈辱や死の恐れに打ち勝って、苦しみの中でも人間らしく勇敢に生きる力を与えます。

3.共にいて下さる主イエス

第三に、復活の主イエスは、共にいて下さる方です。御言葉を思い巡らす中で、二つの約束の言葉が心に残りました。一つは、パウロが苦しみを取り除いて下さるように願った時に、主が答えた言葉です。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」。もう一つは、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と言われた言葉です。▼どちらの言葉も、神が一度切り語られたというのではなく、「主は言っておられる」(主が語られた状態が今も続いている)と言われています。▽復活のイエス様は、彼らのそばにいて、この御言葉を保証し続けておられる、心に語りかけ・励まし続けて下さっているのではないでしょうか。

マタイ福音書の最後で主イエスは言われました。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」復活されたイエス様は、世の終わりまで、「いつも共にいて下さる」方です。そのイエス様は、試練のただ中で、私たちと共にいて、共に苦しみを担って下さいます。

【まとめ】

私たちは苦しみから逃れることはできません。しかしそのただ中で、十字架に架けられた主イエスご自身が、共に苦しみを担ってくださいます。試練の中で、私たちが聖書を読む時、主イエスは絶えず共にいて、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と語りかけて下さいます。そして、私たちの苦しみの十字架のただ中で、私たちに出会って下さり、復活の希望をもって立ち上がらせてくださいます。

祈り

主イエス・キリストの父なる神様。主イエスの復活によって、私たちに新しい命を与えて下さり、ありがとうございます。私たちの苦しみという十字架のただ中で、主イエスに出会わせてください。主ご自身が下さる復活のいのちに希望を置き、失うこと・小さくされる・滅びることを恐れることなく、この地上の生涯を愛と勇気をもって歩ませてください。主が共にいて励まし、約束の言葉をもって導き続けて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。