使徒10:34-43「誰にでも与えられる恵み」

2025年5月4日(日)礼拝メッセージ

聖書 使徒10:34-43
説教 「誰にでも与えられる恵み」
メッセージ 堀部 舜 牧師

ペテロと百人隊長コルネリウス

34そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、35神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。36あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。37それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。38神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。39わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。40しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、41全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。42それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。43預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。

使徒10:34-43

【聖書の背景】 今日の聖書箇所は、教会に非ユダヤ人が本格的に加わっていく先駆けとなった、ローマの百人隊長コルネリウスの一家の記事の一部です。初期キリスト教の大きな転換点です。

背景を簡単にお話しします。コルネリウスは「信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をして」いました。ある日、彼は祈りの時間に幻で御使いを見て、別の町にいるペテロを招くよう命じられます。コルネリウスがしもべたちを遣わすと、ペテロはペテロで幻を見ました。ペテロが戸惑いながら幻の意味を思い巡らしていると、ちょうど使者が来て、彼をコルネリウスの家に招きます。ユダヤ人であるペテロにとって、外国人の家に行くことは慣習に反して汚れを受けることでしたが、ペテロは聖霊の語りかけに従って、コルネリウスの家を訪ねます。コルネリウスが家族を集めて彼の言葉に耳を傾けようとしているのを見て、ペテロは神が外国人も救いに招いておられることを悟り、今日の聖書箇所のメッセージを話しました。

今日はこの箇所から、①福音の「内容」について、②福音の「性質」について、③福音の「現実」について、見ていきます。

1.福音の内容――ナザレのイエスのこと

第一に、福音の内容についてです。ペテロの説教は、福音をコンパクトに要約しています。福音を一言で全体をとらえようとすると、ある翻訳では38節にあるように、福音とは「ナザレのイエスのこと」と言えます。

【御子に関すること】 パウロはこれに近い表現をローマ書の冒頭で使います。「この福音は…御子に関するもの」です[1]。福音とは、キリストが人として生き・働かれたことの全体=「御子イエス・キリストに関すること」です。

主イエスが王となられた

【福音の語源】 ギリシャ語の「福音」ユーアンゲリオンという言葉は、古代ローマで新しい皇帝が即位した時に、帝国全体に使者が遣わされて、皇帝の即位を知らせた知らせを指して使われた言葉で、「良い知らせ」という意味です。教会が、皇帝の即位を告げるこの言葉をキリストの到来に用いたのは、「キリストが(皇帝に代わる)全世界の支配者として即位したことを知らせるため」に、意図的に用いたとも言われます。

【神のわざ】 今日は、主イエスの生涯の出来事を具体的に振り返ることはしませんが、福音とは、「私たちがするべき何か」ではなく、「イエス・キリストを通して、神がなして下さったこと」であることを、覚えたいと思います。

証人の言葉を通して信じる

コルネリウスは、幻で御使いに示されて、ペテロが何者であるかを知らずに招きました。ペテロは自分たちが主イエスの証人であることを伝えます。41節に「全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました」とあります。▼これは、よく考えれば不思議なことだと思います。復活されたイエス様は、多くの弟子たちに姿を現わされましたが、宗教指導者たちや群衆にはご自分を現わされませんでした。主イエスは、なぜ「全部の人々にではなかったが」、「証人としてあらかじめ選ばれた者たち」に現れなさったのでしょうか。

神様は、復活のキリストを見ることによってではなく、弟子たちの証言を聞くことを通して、信じた人々を救おうと定められました。パウロは言います。「神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」。聖書の歴史の中で、選民イスラエルさえも、神に背いて離れ去り、神を知り・神の道を歩もうとしませんでした。「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった[2]」▽そこで、福音の真理を伝えるために神が選ばれた方法は、優れた思想によってではなく、目に見えるキリストの顕現によってでもなく、ペテロたち無学な証人たちが伝えた言葉を聞いて信じるという、素朴で単純な方法でした。これは、人間の高ぶりを打ち砕いて、へりくだって神に信頼する者を救おうとする、神の知恵だと思います。

罪の赦し

43節に、聖書の教えの短い要約があります。

10:43 預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています。」

ペテロは、この主イエスこそ、旧約聖書が預言した救い主だと証言します。主イエスは聖霊に満たされ、神が共におられたからです。▼「信じる者はことごとく」とあります。アブラハムが割礼を受ける前に信仰によって義と認められたように、いろいろな律法の規定に従うこと抜きで、信仰だけによってありのままで神に近づくことができることを教えています。▼「罪のゆるし」については、聖餐式の制定句で、ご自分の十字架の死を覚えて、「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」と言われました[3]。「その名によって」とは、「イエス様のおかげで」という意味です。私たちの悔い改めや、私たちの内にある良い性質のためではありません。私たちの悔い改めが不十分であっても、罪の赦しの土台は、主イエスご自身のとりなしの祈りと神への服従と犠牲にあります。

ウェスレーを導いた教え

「行いなしに信仰のみによって」という教えを突き詰めたのはルター派の伝統です。私がたびたび思い起こしたいと思うのは、ジョン・ウェスレーの福音的回心を導いた、ルター派のモラビア兄弟団の指導者ペーター・ベーラーの言葉です。▼ウェスレーはかつて、罪を赦されるためには、「悔い改めて、頂いている恵みを最大限に活用して、誠実を尽くしている人を、神は恵みによって義と認めてくださる」と考えていました。罪の赦しを頂くためには、恵みに答えて誠実に歩んでいなければならない。これが当時の英国国教会の一般的理解でした。しかし、罪の赦しを受けるために誠実を尽くせば尽くすほど、自分の罪深さに気付き、救いの平安に到達できない。(私自身もそうだったと思います。)しかし、ウェスレーは、モラビア派指導者のペーター・ベーラーの教えから、「罪の赦し」の新しい理解に目が開かれます。「ありのままの罪人」として神の前に立つのです。以下は、あるモラビア派指導者の教えです。

不信心な者を義とする方を信じる人が、その信仰が義と認められる」のです。あなたは、「義」とされる基礎が私たちのうちにないことが、分からないのですか?不信仰な者のうちには、神に結び付けてくれるものは何もないのです。良い行いでしょうか、正しさでしょうか、悔い改めでしょうか?いや、不信仰だけなのです。あなたが(救われるために)正しい基礎を据えたいのなら、不信仰を携えて、キリストの御許に行きなさい。[4]

人間のどんな誠実さも努力も悔い改めも、神に近づく土台にはなりません。「キリストへの信仰のみによって」とは、罪の真っただ中で、ありのままの罪人として、汚れだけをもってキリストのもとに行くのだと。

(救いのためにキリストだけに信頼する)「この信仰は、神の贈り物であって、忍耐してこの信仰を求める各々の魂に、これを間違いなく分与してくださるのです。」[5]

ペーター・ベーラーに説得されて納得したウェスレーは、「キリストだけに頼る信仰」を求めるようになり、3カ月ほど後に福音的回心を経験します。その日のウェスレーの日記の言葉です。

私の心が不思議に温かくなったのを感じた。そしてキリストを、ただ一人の救い主であるキリストを信頼しているのを感じた。そして、主は私の――この私の――罪をも取り去ってくださり、罪と死との律法から私を救ってくださったという確信が与えられた。[6]

10:43 預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、〔自分の悔い改めや誠実さにはよらず〕その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。

2.福音の性質――平和の福音

ここまで福音の内容から、それに向き合う姿勢までをお話ししてきました。第2に、福音の性質として、「平和」についてお話しします。36節で「神は…イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました」とあります。別の訳では「平和を告げ知らせた」とも訳されます。主イエスの福音は、平和(ヘブライ語でシャローム)をもたらすものです[7]

主イエスによる平和

シャロームとは、物質的にも・人間関係においても・神との関係においても、満ち足りた豊かな状態を指しています。主イエスの十字架は、これらのあらゆる面での満ち足りた状態を与えるものです。

イザヤ53:5 「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

エペソ2:14「キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、…」

主イエスは、どのように平和をもたらされるでしょうか?――聖書は、いろいろな面を教えています。①主イエスは、ご自分をいけにえとして捧げられたので、私たちの罪は取り除かれ、神との関係が回復しました[8]。②主イエスのとりなしの祈りが、神との関係を回復させました[9]。③主イエスを復活されたと信じる人を、神は義と認めて下さり、それによって神との関係が回復します[10]。④主イエスの十字架で、律法の違反は処罰され、私たちを断罪する律法の働きが終わり、平和が訪れました[11]。⑤主イエスご自身が神殿となられ、主イエスを通して・主イエスの内で、神への礼拝・交わりが回復しました。⑥主イエスを信じた人は皆、主イエスの体に結ばれ一つとされ、互いの違いを乗り越えて、一致と平和がもたらされました[12]

平和がもたらす一致

葛藤を越えた一致

【初期教会の一致】 このことを、初期の教会はどのように受け止めたでしょうか。▼ユダヤ人たちにとって、コルネリウスは、敬虔ではあっても汚れた外国人であり、彼らを受け入れることは慣習に背き、心に抵抗を覚えたに違いありません。▼コルネリウスたちが聖霊を受けた時、一緒にいたユダヤ人たちは驚きました。ペテロがコルネリウスに洗礼を授けてエルサレムに戻ると、ユダヤ人は汚れた外国人と共に食事をしたペテロを非難しました。コルネリウスをクリスチャンとして受け入れるということは、神の家族として受け入れ、同じ食卓で交わりを持つのです。ペテロが、聖霊に導かれた経緯を伝えると、彼を非難したユダヤ人たちは沈黙して、神の御心を認めて神をほめたたえました。▼異邦人クリスチャンの扱いに関するその後の論争を思えば、自分たちの慣習に反する出来事に、彼らの感情は乱されたに違いありません。しかし、彼らは同じ主イエスへの信仰にたち、聖霊が彼らを受け入れたという事実を重く受け止めました。聖霊こそ、彼らの導き手でした。

【適用】 現代のクリスチャンにも、非常に大きな違いがある場合があります。考え方の違い、社会的・信仰的背景の違い、神学の違い、好みの違い。世代の違い。性別の違い。文化の違い。性格の違い・人間関係の持ち方や距離感の違い、礼拝の考え方の違い、礼拝音楽の好みの違い、祈り方の違い、メッセージの傾向の違い。神学の違い。しかし、どんな違いよりも、「キリストのうちにある」ということを重んじているでしょうか?私たちがキリストを信じ・キリストのうちにあるなら、キリストのからだとして互いに一つにされています。そこに分裂があってはなりません。反感があるなら祈らなければなりませんし、理解できないことがあるなら理解するように努めなければなりません。教会は、社会的には全く異質な人間同士の集団です。違いを前提に対話を重ねなければ、心からの一致はできません。

聖書に基づく一致

【新約聖書における一致】初期の教会で異邦人クリスチャンが増えるにつれて、文化的・宗教的摩擦は急激に増えて、異邦人クリスチャンが割礼を受けるべきかどうかで激しい論争になりました。論争の末に、教会は一致した結論を出しました。パウロの書簡は、各教会の様々な事情の中で、ユダヤ人と異邦人のクリスチャンの一致を求める内容が頻繁に出てきます。福音が目指すのは、「多様性の中の一致」という、満ち足りた平和シャロームの姿です。そのために、彼らは聖書を研究し、聖書によって対話しました。聖書こそ、対話と一致の土台です。

【適用】 現代の私たちも、聖書を学び続け、心を開いて学んでいかなければなりません。聖書を学び続け、教会の伝統がどのように聖書を理解してきたか、理性と論理に従って聖書を読み解いていかなければなりません。そうして初めて、この多様な変わりゆく社会の中で、説得力のある神の言葉に聞き、教会に真の一致の可能性が開かれると思います。

3.福音の現実――聖霊の支配

コルネリウスの記事における聖霊の働き

【聖霊の主導権】 コルネリウスの回心の記事全体には、聖霊の力強い働きがありました。▼ペテロが証しした主イエスの生涯には、力強い聖霊の働きがありました。神が主イエスと共におられて、聖霊によって油を注がれ、死者の中から復活させられたことは、聖霊の支配によって、神の国が到来していることを示していました。

福音が異邦人に広がる転換点になった、コルネリウスとペテロの出会いも、聖霊の明確な導きによりました。コルネリウスたちは洗礼も受ける前に、ペテロが話している間に聖霊で満たされました。彼らが聖霊を受けたことは、誰もが認める事実であり、しるしでした。

神秘的になる必要はありません。しかし、健全な聖霊の働きを否定するならば、命のない外面的な宗教しか残りません。聖書を理解させるのも、その恵みに与からせるのも、信仰と希望を与えるのも、愛と喜びと平安を与えるのも、聖霊の働きです。私たちは聖霊を祈り求めなければなりません。私たちのうちに、聖霊は力強く働いておられるでしょうか?

聖霊の働きと、敬虔な生活

【コルネリウス】 聖霊が力強く働かれたコルネリウスは、どのような人だったでしょうか。35節では「神を恐れ、正義を行う人」と言われます。10:2では「敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた」とあります。敬虔で、慎み深く、周囲に対して愛の責任を果たし、祈りに励んでいたことが分かります。彼らがペテロの説教を聞いて主を信じた時、直ちに聖霊が下りました。【適用】私たちの生き方はどうでしょうか?聖霊の働きを妨げる、罪や愛に反する心はないでしょうか?主イエスの証しに、信仰をもって聞いているでしょうか。コルネリウスのように、いつも祈りを捧げているでしょうか。敬虔で、神を恐れ、愛の業に励んでいるでしょうか。私たちの内が通り良い時、聖霊は流れよく私たちを通して働かれます。

聖餐(礼拝)に現れる神の国の現実

【神の国の現実性】 最後に、福音の現実性(リアリティ)に心に留めたいと思います。▼38節に「ナザレのイエス」とあります。この言葉遣いは、歴史上に実在したありのままの主イエスを指す時に用いられます。雲の上の存在ではなく、目に見えない世界の・時空を超えた存在などではなく、歴史上に実在し、現実の社会に生きた人物のことです。

【適用】私たちは、信仰を「霊の世界の話」とか「やがて来る肉体を離れた天国の話」と考える傾向があるかもしれません。しかし、福音とは、肉体をもって実際の歴史の中に来られたイエス・キリストのことです。「あの世」のことではなく、「この世」の出来事です。▽今、私たちは、キリストの身体を見ることはできません。主イエスは、私たちの目から隠されています[13]。しかし、そのような目に見えない神の国の「目に見えるしるし」として定められたものがあります。それは、洗礼と聖餐/礼拝です。そこでは、神の御国の到来が、目に見える形・手に触れることのできる形で、水やパンやぶどう液によって表されています。▽ある人たちは、こうしたものを「形式主義」とか「儀式」と言って軽視します。しかし、これらは神ご自身が定められた方法であり、これらのうちに神の国が「目に見える形」で表されていることに、心を留めたいと思います。主イエスによって歴史上のこの世界に到来した「神の国」は、私たちの時代にも、目に見え・手に触れることのできる洗礼や聖餐式(礼拝)のうちに、最も確実な方法で経験できることが約束されています。

主イエスご自身が下さる、罪の赦しによる平和の福音を頂き、その恵みを日々新しく頂きながら、その約束のうちを歩ませて頂きましょう。

まとめ

主イエスご自身が下さる、罪の赦しによる平和の福音を頂き、その恵みを日々新しく頂きながら、その約束のうちを歩ませて頂きましょう。

祈り

【祈り】 天の父なる神様、主イエス・キリストを遣わし、私たちのために与え、死者の中から復活させてくださったことを、感謝いたします。主イエスの死によって、平和を頂いていることをありがとうございます。主イエスのうちに一つにされた兄弟姉妹と、平和のうちに生きるように、私たちをへりくだらせ、主の御言葉のうちに一つの心となって歩ませてください。主イエスが聖霊に満たされてこの地上を歩まれたように、私たちも私たちに下さる聖霊のご臨在の内を、この地上の生活にあって、日々歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


[1] ローマ1:2-3

[2] 1コリント1:21

[3] マタイ26:28

[4] 標準ウェスレー日記1 第2部 1738年8月8日 ウェスレーが福音的回心の数か月後に、ドイツを訪問した際に聞いた、クリスチャン・デイヴィッド氏の説教の抜粋。

[5] 標準ウェスレー日記1 第2部 1738年5月24日 12.

[6] 標準ウェスレー日記1 第2部 1738年5月24日 14.

[7] ルカ12:51なども考慮する必要があるが、ここでは単純化する。

[8] コロサイ1:20、イザヤ53:5,7,10、

[9] イザヤ53:5,12

[10] ローマ5:1

[11] エペソ2:14-15

[12] エペソ2:15-17

[13] コロサイ3:3