エペソ1:15-23「キリストが満ちている教会」
2025年5月18日(日) 創立45周年記念礼拝メッセージ
聖書 出エペソ1:15-23
説教 「キリストが満ちている教会」
特別講師 大井満 牧師(お茶の水聖書学院 学院長、太平洋放送協会常務理事)

15こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、16わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。17どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、18あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、19また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。20神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、21彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。22そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。23この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
エペソ1:15-23
コイノニア・クリスチャン・チャーチ創立45周年おめでとうございます。松下和弘先生ご夫妻、堀部先生ご夫妻の祈り、また教会員、教会役員、多くの方々の祈りが実を結び、この日を迎えることが許されたわけですが、それらの祈りを聞いてくださった神様の御名を、あがめます。
エペソ1:15-23の「祈り」
今朝は、エペソ人への手紙1章15〜23節を通して、み言葉を聞きましょう。エペソの教会と、教会に連なる人々に向けて書かれたこの手紙は、まず手紙の執筆者であるパウロからの挨拶(1〜2)に始まり、神様への賛美が続き(3〜14)、祈り(15〜23)へとつながっていきます。
今日の聖書個所は、その祈りの部分にあたるわけです。「祈のたびごとに」(16)と、「・・・くださいますように」(17)、「・・・できますように」(19)が、この部分が祈りであることを教えています。
16節に、「わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて」とあります。これは、「名前を挙げて祈る」という意味で、パウロは教会のこと、教会に集う人々のことを具体的に名前をあげて祈っていることを示唆しています。
神を「深く知る」ように
さて、今日の聖書個所においては、大きく分けて二つの祈りがあります。最初の祈りは、「神を深く知ることができるように」という祈りです。「知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ…」(17)。
「知る」と訳されている言葉は、実は「深く知る」という意味です。わたしたちは神さまを「深く」知っていると言えるでしょうか。新約聖書のギリシア語を学ぶときに、動詞の活用(変化)を覚えるために使うギノースコーという動詞があります。これは「知る」という意味で、新約聖書書において207回用いられています。それに対して、「深く知る」という意味のエピギノースコーは20回で、17節の「知る」は、このエピギノースコー(深く知る)という意味なのです。
先日、出張で東海道新幹線に乗ったのですが、帰りの新幹線の車掌さんのアナウンスが興味深いものでした。その車掌さんは駅が近づくと「お忘れ物などないように『よーく』ご注意ください」とアナウンスしました。通り一遍の確認ではなく、「十分に注意してください」と言ったわけです。まさにわたしたちは、神様を「よーく」知る必要があります。神をただ知るだけでなく、深く知るためにパウロは祈っているのです。わたしたちは神様を深く、よく知っているでしょうか。
「あなたがたの心の目を明らかにして下さるように」(18)と続くのは、神を深く知ることは、わたしたちの心の目がはっきり見えるようになることでもあるからです。

神が与える希望にたつように
第二の祈りは「神が与える希望(望み)に立つように」というものです。「あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている」(18〜19節)と、あるとおりです。
そればかりではなく、「この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって…」(14)とあり、聖霊がわたしたちと共にいて、御国を受け継ぐ希望への確信を与えてくださるのです。
結局これらの祈りは、この手紙の受取人であるエペソの教会が、神さまのお考えをはっきりと見て(深く知って)、歩んでいく方向を確かなものとしていくようにとの祈りです。
わたしたちが、信仰や神について知っていると思っていることが、ほんの一部にしか過ぎないのだということ、神様を本当に深く知らないで、自分たちの経験で判断したり、議論していないか、確認する必要があります。
さらにこの神はキリストのうちに力を働かせたお方(20)でもあります。
「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(20〜23節)。
神はキリストを受肉させ、復活させ、天に昇らせて御自身の右の座に着かせ、あらゆる名(権威)の上に置かせられ・・・なによりも、教会の頭(かしら)としてお与えくださったのです。わたしたちはキリストの体である教会の枝ですが、その頭はキリストであり、キリストが満ちておられるのが教会です。
終わりに
わたしたちの教会はそれぞれの地に建てられています。わたしは昨年3月にトルコに行きました。パウロの伝道旅行の足跡をたどり、黙示録2〜3章に記された「七つの教会」の遺跡を訪ねる旅でした。その旅において、エペソの遺跡も訪ねました。広大な遺跡です。エペソが、一日ではまわりきることのできないほどの大きな都市であったことがわかりました。
ではエペソの教会はその大きな都市のどこにあったのでしょうか。残念なことですが、教会がどこにあったか、それはわからないのです。
しかし二千年の昔、確かにエペソに教会が建てられていたのです。使徒の働き19章23節以下にあるようにアルテミス神殿の模型を作っていたデメテリオによって煽動されたエペソの人々がパウロ一行に対して迫害したような困難な状況にあっても、パウロたちは、この町で福音を宣べ伝え続けたほどの宣教がなされたのでした。
またパウロが、第3回の宣教旅行を終えてエルサレムに戻る際には、ミレトスにエペソの長老達を呼び寄せて告別説教を語りました(使徒の働き20章)。このようにエペソの教会はパウロに取って大切な教会でした。
この王子の地にも、キリストの体であるコイノニア・クリスチャン・チャーチが建てられています。そしてキリストが満ちている教会の枝として、教会の方々がおられて、ここにもキリストが満ちておられるのです。「あなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである」(コロサイ人への手紙2:10)との確信に立っていきましょう。
先ほど、神を深く知り、希望を持って信仰生活に励もうと述べました。教会の歩みにおいても、一人一人のキリスト者の歩みにおいても、いつも順風満帆ということはありません。困難が伴うこともあるでしょう。しかし、「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」(ローマ人への手紙5:3-4)とあるように、45年の歩みをふりかえるだけではなく、50年、60年、100年。イエス・キリストが再びお出でになるそのときに向かって、満ちあふれるキリストの恵みに満たされながら、希望を持って福音の宣教と教会の形成に励みましょう。
