マタイ12:14-21「聖霊の賜物」
2025年6月8日(日) ペンテコステ礼拝メッセージ
聖書 マタイ12:14-21、詩篇51:12-19
説教 「聖霊の賜物」
メッセージ 堀部 里子 牧師

18「見よ、わたしが選んだ僕、
マタイ12:18-21
わたしの心にかなう、愛する者。
わたしは彼にわたしの霊を授け、
そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
19彼は争わず、叫ばず、
またその声を大路で聞く者はない。
20彼が正義に勝ちを得させる時まで、
いためられた葦を折ることがなく、
煙っている燈心を消すこともない。
21異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
あなたの救の喜びをわたしに返し、
詩篇51:12,17
自由の霊をもって、わたしをささえてください。
…
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステといえば「聖霊降臨日」です。聖霊は肉眼では見えないのですが、私たちに確かに働きかけてくださるお方です。
二つの霊的必要
ビリー・グラハム先生の「聖霊」という著書の冒頭にこう書かれています。「人間には、二つの大きな霊的必要がある。一つは赦される必要である。もう一つは善なるものへの欲求である。意識的に、あるいは無意識のうちに、人間の内なる魂はこの二つを慕い求めている。不安、混乱、孤独、恐れ、圧迫感の中で、自分では何を叫び求めているのか知らないとしても、時としては人が実際にこれら(赦しと善への求め)を叫び求めることさえある。」
また以前読んだ別の本には、人が死ぬ直前に求めることは①和解・「ごめんなさい」と、②感謝・「ありがとう」を相手に伝えることだとありました。その伝える時間を「仲良し時間」と呼び、心の平安を得て旅立つのだと。人は①赦しと、②愛(一番善いもの)を必要としている存在なのだとつくづく思います。皆さんはどう思われますか。
赦される必要~赦しを受けるために
今朝の聖書箇所の一つは詩編51篇ですが、ペンテコステに開かれることは珍しいのかもしれません。ダビデ王の悔い改めの有名な詩です。聖書日課を見た時に、神様はここから何を語りたいのだろうかと思い、祈り求めました。黙想し学んで行く過程で、ビリー・グラハム師も言及された人間の霊的必要である「罪の赦し」のために、また聖霊が自由に働くためには、実に悔い改めが重要な鍵であることを心に留めました。クリスチャンとしては当然のことですが、簡単ではないときも多いのではないでしょうか。
子どもの悔い改め
先日、小さな兄弟二人がケンカをしてお兄ちゃんが弟を叩いているのを見ました。でもお兄ちゃんは弟の泣き声にハッと我に返ったのか、すぐに「叩いてごめんね」と言っている姿にほっこりしました。悪いと思っていても、なかなか「ごめんなさい」と言わないことも私たちにはあると思います。また反対に悪いと思っていないから「ごめんなさい」を言わないこともあるかもしれません。

ダビデ王の悔い改め
ダビデ王は、自分自身が犯した姦淫と殺人の罪を隠蔽しようとしました。ダビデ王だけでなく、人は罪が明るみに出ることを嫌い、正当化し、覆い隠そうとします。しかし、ダビデ王は預言者ナタンに大罪を暴かれました。そしてダビデ王の子どもが死ぬという裁きを宣言されます。その時にダビデ王は自分の罪を素直に認め、神の前にひれ伏し告白しました。
「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。…わたしを清めてください、…わたしを洗ってください、…わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。…血を流した罪からわたしを助け出してください。」(詩篇51:4,7,9,14)と。
ダビデ王は、罪の大きさに打ちのめされ、自分ではどうしようもないと悟ったでしょう。犯してしまった罪の根源である、自分の内側がきよくなるように、新しくしてくださいと祈りました。そして与えられている聖なる御霊を取り去らないでくださいと懇願しました。
「神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。」
(詩篇51:10-12)
ダビデ王が犯した罪は、王であっても当時も今でも、簡単に水に流したり、赦されるようなものではありません。しかし自分の弱さを認め、罪の赦しと内なる刷新を求めるダビデ王の真実さに私は感動を覚えます。自分がダビデ王の立場ならできないかもしれないと思う心があるのと、私自身もいつでも罪を犯す可能性を秘めているからだと言えます。時として人間の人生には、墓場まで持って行きたい人に言えない罪や恥があるかもしれません。誰かに打ち明けて、心の重荷を軽くしたいと思うかもしれません。ダビデ王は悔い改め、真実に主に赦しを求めました。罪を犯したことや失敗した事実は残りますが、赦された者が新しい出発をすることを神は喜ばれます。赦された後の心と生活がどのように変化するかが大切です。赦しは、悔い改めを通して神から与えられる祝福です。
身代わりのキリスト
神様は人間の心と魂の叫びを聞き、人間の罪の赦しのため、身代わりとして世に遣わされたのがイエス・キリストです。イエス様は神様からの「救いのプレゼント・賜物」なのです。このプレゼントは、自分が罪人であることを認め、イエス様の十字架の血によってのみ赦しが与えられることを受け取るなら誰でも与えられる救いです。
しかし、救い主であるイエス様を殺そうとする動きが常にありました。今朝のもう一つの箇所です。「パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。」(マタイ12:14)
パリサイ人たちは律法に精通している人たちですので、「殺してはならない」という教えを勿論知っていました。彼らには彼らなりのイエス様を殺すことを正当化する言い分がありましたが、神の目には罪であり、民衆を混乱に陥れるだけでした。イエス様は反対者たちと対峙する時もありましたが、その時はすっと身を引かれました。
「イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、」(マタイ12:15)
神の子が人間社会で生きることはどんなにか大変だったことでしょうか。しかしイエス様は神の言葉が実現するために働きを続けられました。
「これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、」(マタイ12:17)
また、神様は赦しの賜物だけでなく、「聖霊という善き賜物」もイエス様を通して与えてくださりました。これは「人間の善なるものへの欲求」に対する神の答えです。イエス様が昇天された時、人としての地上の宣教活動はすべて完了しました。そして、続く働きは弟子たちに委ねられました。聖霊を送り、地上の宣教の働きをバトンタッチをされたのです。これは新しい時代の幕開けです。聖霊とは一体誰なのでしょうか。

聖霊とは誰か
「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。」(マタイ12:18)
聖霊は三位一体の神です。預言者イザヤを通して神様は聖霊のことを「わたしの霊」とおっしゃいました。「彼」とはイエス様を指し示しています。イエス様も聖霊についてヨハネの福音書14章から16章で言及されました。「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。」(ヨハネ15:26)他にも、聖霊は語り教え(黙示録2:7、使徒の働き13:2)、導き(ローマ8:14)、とりなし(ローマ8:26)ます。
聖霊が働くとき
皆さんは「聖霊」と聞いて、何をイメージし、また自分とどんな関係があると思いますか。私はイエス様を受け入れたときから、自分自身の中に聖霊がいると信じていましたし、今もそうです。そして献身した時には、自分自身の内に特別に聖霊に満たされる経験をしました。
以前務めていた教会は、大正と昭和のリバイバルの中心的役割を果たした教会でしたので、個人的な救いだけでなく、共同体や地域に臨むリバイバルを祈ってきました。聖霊のダイナミックな働きを通して、霊的な覚醒が起こることが必要だと思っていたからです。今でもそれは変わりません。
アメリカのケンタッキー州にあるアズベリー大学も過去に大きなリバイバルを経験していましたが、2023年2月の大学内のチャペルで再びそれは起こりました。聖霊が豊かに会衆に注がれ、その場で自発的な罪の悔い改め、証し、エンドレスに賛美と祈りが捧げられ、礼拝堂が連日満杯になりました。全米からその様子を目撃しようと人々が押し寄せました。その数5万人に及んだということです。これを現代のリバイバルと呼ぶか議論があるようですが、インターネットで拡散された礼拝を見て、Z世代の若い人たちがこれほどまでに生きて働く聖霊を渇望している姿に感動を覚えました。
ペンテコステの日に起こったこと
ペンテコステの日に起こったことは聖霊の偉大な働きでした。その日だけでおよそ3,120人が聖霊の賜物をうけました。聖霊の賜物は、聖霊御自身であり、年齢や性別、地位や人種などの区別に関わらず、すべて神の前で悔い改めて信じる人すべてに与えられる神様の約束の実現です。
二つのグループ
聖書を読むと、ペンテコステの日は二つのグループが聖霊の賜物を受けています。両方のグループが同じ聖霊の現象を経験したとは聖書には書かれていません。両者の違いは何でしょうか。
①一つ目のグループはすでに新生している使徒たち120人で、彼らが二階座敷に集まって10日間約束された聖霊を祈り待ち望んでいるときに起こった。
「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒2:2-4)
②二つ目のグループは、未信者であり、その日初めて福音を聞いて悔い改めた約三千人の人たちです。信じた時に聖霊の賜物を受けた。特に聖霊を待ち望んでいなかったが、ペテロたちの説教を聞いて、心を刺された人たちであった。
「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と質問するとペテロは「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。…彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。」(使徒2:37,38,41)
ペンテコステの日に聖霊の賜物を受けた二つのグループには、明らかな違いがありました。ここから分かることは、聖霊は待ち望む者たちにも、大きな期待を抱かなかったが、心から主イエスを信じ悔い改めた人たちに豊かに臨んでくださるということです。ハレルヤ!
「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。」(テトス3:5-6)

一連の救いの働き
イエス様は「十字架・復活・昇天・聖霊の注ぎ」と一連の救いの働きを担ってくださった唯一の方です。「ペンテコステはイエス様の救いの過程の最後の出来事である」と、イギリスのジョン・ストット師は言及しています。ペンテコステの日以来、すべてのクリスチャンは、キリストの全生涯を懸けて与えてくださった赦しと聖霊の賜物を受けている存在です。水のバプテスマは、イエス様との交わりに入ることを公に表す儀式として、罪が洗い去られることと、聖霊が与えられることを目に見える形で表しています。
ペンテコステに日に起こった聖霊降臨や、アズベリー大学で起こった霊的覚醒の出来事は、特別な主の恵みであり、霊的高揚感は私たちの日常生活で毎日起こることではないかもしれません。聖霊の賜物は聖霊御自身で、厳密に言うとその後個々に与えられるあらゆる能力や賜物などいろいろありますが、今朝はその説明は割愛します。ただここで述べたいことは、「十字架と復活」は救いのパターンとしてよく言われますが、復活後の「昇天と聖霊の注ぎ」も救いの大切な働きであり、聖霊の導きなしにはキリストを主と告白することもできないということです。キリストの一連の救いの働きを感謝したいと思います。
聖霊に満たされることを求める
ジョン・ストット師は、「何か全く新しい特別な祝福を求めるのでなくむしろ、恵みによってどのような者とされたかを思い出し、絶えずそこに自分自身を呼び戻し、信仰と愛と知識と聖さにおいて成長するように、益々聖霊に満たされるように」とおっしゃいました。
確かに聖書には「聖霊のバプテスマを受けなさい」という命令ではなく、「聖霊に満たされなさい」とあります。聖霊を受けて救われた者が、聖霊に満たされることは継続的に求めないといけないことです。「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、」(エペソ5:18-20)

主イエスと出会う
どのようにしたら聖霊に満たされるのでしょうか。イエス様の招きに応答することです。「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)
イエス様のところに来ることは、イエス様と出会うことです。「渇く、来る、飲む、信じる」という四つの動詞が皆現在時制で書かれているのは、毎日するべきことだからです。私たちは霊的に渇く状態にすぐになります。そして飲んだ命の水は、他人を祝福するために流れ出す水になるそうです。受けた聖霊を保持できず、聖霊は常に動き、流れ出すのだそうです。
またエペソ5:18の「満たされなさい」という一つの命令に、「語り、歌い、感謝し、従う」という四つの動詞がかかっています。すべて複数形で書かれていて、すべてのクリスチャンに対して書かれています。これは聖霊に満たされている証拠は、超自然的な現象でなく、その人が結ぶ実で分かります。その人が捧げる礼拝とその人が隣人と築く関係性・交わりの中に現わされます。
聖霊の賜物は、聖霊御自身であり、聖霊は一人ひとりの内に、それぞれ相応しい方法で働かれます。聖霊の働きの現象以上に、三位一体の神御自身、キリストご自身、また聖霊に満たされることを求めて参りましょう。
■参考文献:
「今日における聖霊の働き」ジョン・ストット、
「御霊に満たされることの意味」DM.ロイドジョンズ、
「御霊の賜物について」ドナルド・シー、
「聖潔のバプテスマ」A.M.ヒルズ 他