イザヤ6:1-13「王である主との出会い」
2025年6月15日(日) 礼拝メッセージ
聖書 イザヤ6:1-13、ヨハネ12:37-46
説教 「王である主との出会い」
メッセージ 堀部 舜 牧師

1ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。2その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、3互に呼びかわして言った。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。4その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。5その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、7わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
8わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。
その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
9主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、
『あなたがたはくりかえし聞くがよい、
しかし悟ってはならない。
あなたがたはくりかえし見るがよい、
しかしわかってはならない』と。
10あなたはこの民の心を鈍くし、
その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。
これは彼らがその目で見、
その耳で聞き、その心で悟り、
悔い改めていやされることのないためである」。11そこで、わたしは言った、
イザヤ6:1-13
「主よ、いつまでですか」。
主は言われた、
「町々は荒れすたれて、住む者もなく、
家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、
12人々は主によって遠くへ移され、
荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、
こうなっている。
13その中に十分の一の残る者があっても、
これもまた焼き滅ぼされる。
テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、
その切り株が残るように」。
聖なる種族はその切り株である。
讃美と臨在体験
私が信仰をもって間もない頃に、礼拝讃美のチームに参加しました。聖書の理解はまだまだ何も分からない頃でしたが、神様の愛を知って、神様をもっと知りたいという喜びと慕わしさを感じながら、初めてのイースター礼拝で讃美奉仕をしました。讃美礼拝の中で、厳粛さと、神様の愛を讃美する慕わしさを感じて、「神様が共におられる」のを実感しました。信仰の最初期に信仰が試みられた時にも、神様の臨在の「厳かさ」と「麗しさ」は、私を惹きつけ続けました。

イザヤが神殿で「主を見た」出来事は、聖書全体の中でも最も偉大なエピソードで、私の経験とは比べるべくもありませんが、いくらかの共通点があります。すなわち、イザヤが神を見た出来事は、①全てのクリスチャンが経験する「神との出会い」の典型的な例です。また、②聖書における「礼拝」の代表的なモデルの一つです。そして、③主との出会いは、イザヤの「全生涯の奉仕を方向づけ」ました。私たちの生涯でも、「聖なる神」との出会いが、私たちの視野を開き・理解力を広げ・自分だけに与えられた「使命」に立ち・忠実に立ち続ける力を与える「希望」と「信頼」を教えます。今日は、このイザヤの召命の記事を読んでまいります。
1.「万軍の主である王」――主に出会う
時代背景
6:1に「ウジヤ王が死んだ年」とあります。ここには重要な意味があります。▼ウジヤ王は、若い頃は主の目にかなう王であり、主の助けによって王国は軍事的に強くなり、地域の諸国を支配し、農業も盛んになり経済的に繁栄しました。しかし、彼は律法に背いて神殿で自ら香をたこうとした時に、ツァラアトの病気に犯されて、隔離生活を送りました。彼の死後、ユダ王国は衰退期に入ります。ウジヤ王の死はユダ王国の繁栄の終わりを象徴しました[①]。ウジヤに代わって王位についたのは、頼りにならない日和見主義のアハズ王でした。▼そんな時代の変わり目に、イザヤが見たのは、高く上げられた王座に着いておられる、「万軍の主である王」の姿でした(5節)。主こそ、王としてまことにイスラエルを治めておられる方である。これが、この出来事を通してイザヤが悟った事実でした。
イザヤが見た光景
その時、イザヤは「私は…主を見た」と記します。その情景は、神様の言い表しきれない偉大さと、人間をはるかに超えた尊厳を表しています。▼当時は並ぶもののない巨大で美しい建物だった神殿よりも、さらに高くに主がおられ、その巨大さは、衣の裾だけで神殿全体が満ちるほどでした。▽セラフィムとは「燃える」という語源を持つ天使で、炎のように見えたのかもしれません。それらが空を飛び交いながら、2つの翼で「顔を覆う」とは、聖なる神を目の当たりに見ることを恐れた、畏敬の念を表しています。天使たちの叫ぶ声のとどろきに、神殿が基礎から揺れ動き、主の臨在を表す煙で神殿全体が満たされました[②]。「聖なる、聖なる、聖なる」とは、この世のどんな存在とも異なる、人知を超えた存在・言語を絶する存在でありつつ、同時に現実世界に現れてくる形においては、純粋で清く善であり、愛と正義で満ちていることを表します。(3回繰り返すことは、最上級の強調です。)その威厳と輝き・豊かさは、イスラエルのみならず全地を満たしています。[③]
罪の自覚
主を見た時のイザヤの反応は、5節にあります。
5 …「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
イザヤは「汚れたくちびるの者」だと言います[④]。▼神の最も近くに住む天使たちが、謙遜に自分の顔や身体を覆い、一心不乱に神を讃美する姿を見て、それとはかけ離れた自分の姿にイザヤは気付きました。▽彼は、おそらくすでに預言者として活動し、ユダの人々の不正を糾弾していました[⑤]。まさに彼が糾弾したユダの人々の神への不信仰・神がおられないかのような高ぶり・他者を顧みない利己的な利益追求・不正による虐げや傲慢が、自分自身の内にも染みつき、実行しないまでも心の内に頭をもたげてくる。一心に神の栄光だけを求め・讃美する、神の僕の姿ではなかったことに気が付きます。口では神をほめたたえながら、その心の奥深くには冷え切った苦い心があるのです。
【奉仕の中での経験】 私は、讃美の奉仕をする中で、心から讃美を捧げるために、讃美の歌詞を黙想するようになりました。すると「神様を讃美します・愛します」と歌うのですが、そのように思えない時があります。讃美する理由を思い起こし、感情ではなく、理性で考えて、意志をもって愛を決断します。しかし、そこにやって来る「逆らう思い」や、さまざまな欲に打ち勝つのは、容易ではありません。いや、実際にそれを続けていけば、それが簡単でないどころか、実は、自分の欲が満たされなくても、神の栄光だけを求める愛は、自分自身の内にはない、ただ神から注がれた愛によって湧いてくるものなのだと知りました。
【汚れた思いときよめ】 これは、神を信じる者の心のうちに、なお残っている罪の残滓です。神の愛は、この汚れた者にも十分です。主イエスの内にあって、具体的な罪の行いを離れて、罪の赦しを頂いているなら、心の汚れを感じようとも、罪に定められることはありません。しかし、心の内に汚れが残っていることは、なお清められるべき何かがあることを示しています。[⑥]
罪のゆるし
イザヤが自分の汚れを口にした時、燃える天使が近づいてきて、祭壇から取った燃える炭火を、イザヤの汚れた罪の場所であった口に触れさせました。「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。▼天使がとった祭壇の炭は、聖所にあった香の炭火か、あるいは、聖所の外のいけにえの祭壇からとられたいけにえが炭になったものだと言われます。いずれも聖なるものであり、それに触れたものを聖なるものとするものでした。▼新約聖書を知る私たちにとって、それは主イエスが十字架でご自分の命をささげられたまことのいけにえを指し示していると思います。

この箇所から「罪の赦し/全ききよめ」はどういうものなのか、その特徴を見ていきます。
①罪の赦し/きよめは「神の行為」です。
炭火を取ってイザヤの口に当てたのは、神の使いでした。イザヤはこの場面で、なされることをただ受け止めるのみです。罪の赦しを受ける者は、必死であるに違いありませんが、ただ神にのみ望みと信頼を置いて待ち望むのです。
②<恵みの手段>
誤解のないように、これがどこで起こったかにも注目しておきます。それは神殿の中心部で、つまり礼拝の場で起こっています。▽罪の赦しが「受け身」で神の御業を待ち望むからといって、御言葉も聞かず・礼拝もせず・神から離れた生活に身をゆだねながら、いつか神がなしてくださると夢見ることはできません。御言葉を聞かずに、どうして信仰に立てるでしょうか。罪の赦しを真実に求める人は、礼拝という神との交わりの場に身を置き・聖書の言葉によって罪に気づき・主イエスへの信仰を育まれながら、赦しが与えられるのを待ち望むのです。▽全ききよめを求める人も、自分を捨てて、ひたすらに神の栄光を求めてキリストに従う歩みなしに、全き信仰に至ることは、ありえません。
③罪の赦しは、罪を認め・告白した後に、与えられました。
このように、真実な悔い改めは、罪を認めて告白することを伴います(1ヨハネ1:9)。これによって、イエス・キリストだけにより頼む真実な信仰に立つことができます。罪を認め・告白することは、イザヤが「神を見る」という恵みの出来事の中で経験したように、それ自体、神の恵みを頂いたしるしです。
④罪の赦しには、赦しの宣言が伴います。
赦しが神のわざであるなら、神がなされたことを示す宣言が必要です。現代の私たちにとって、それは、聖書の約束の言葉を自分に当てはめることであり、あるいは聖霊が直接に私たちの心に証しし・宣言してくださいます(ローマ8:16)。[⑦]
⑤罪の赦し/全き聖化は、一瞬のみわざです。
誠実な歩みの積み重ねの結果として罪の赦しや全き聖化があるのなら、積み重ねの時間がかかります。しかし、主イエスの「恵みのみによって」与えられるのなら、神がそれをくださるのに時間の制限はありません。▼もし、私たちの側の唯一の条件である「信仰」が整えられたなら、神が直ちに与えてくださるはずです[⑧]。 信仰を得るために、「まずあれをしなければ、これをしなければ」と考えるなら、もはや「恵みによる」のではなく、「行いによって」得ることを期待していることになります。▼ジョン・ウェスレーは、福音的回心を経験する直前に、当時の英国教会の常識に反して、聖書に記されたすべての回心は「一瞬の御業」であったということに理解に目が開かれていきます[⑨]。後年、ウェスレーは、「恵みによる罪の赦し」には、3つの要素が互いに結びあっていることを述べて、より詳細に定式化しています[⑩]。
第一に、「恵みによって」。「罪を赦して頂くためには、その前に、もっと聖書を読まなければ、もっとまじめに生きなければ、もっと悔い改めなければ…」という考えは、行いによって救いを求めることです。
第二に、「ありのままで」。救いが行いによらないのなら、「今あるまま」「罪人のまま」の姿で、主イエスを信じるのです。
第三に、今あるままの姿で恵みを頂けるのであれば、神はその恵みを惜しみなく下さるのだから、神様は「今すぐに」でも赦しを与えて下さいます。「神は、イエス・キリストを信じる罪人に、いつでも誰にでも惜しみなく、直ちに救いの恵みを与えてくださる」という信仰です。
このように罪の赦しは、「恵みによって」「罪深いありのままで」「今この瞬間に」頂くことができるという、切り離すことのできない3つの要素があることを教えました。
ここで、神は罪の赦しを「直ちに(瞬時に)」与えて下さるということが鍵ですが、このことは、このイザヤの罪の赦しにおいても、典型的にそうでした。
2.「だれを、わたしは遣わそう」――主に遣わされる
御声を聞く
御使いがイザヤの口に祭壇の炭火を当てた時、イザヤの罪は赦されました。その時初めて、イザヤは主ご自身の御声を聞きます。ちょうど管をふさいでいたゴミが取り除かれることによって、水が管を流れ出すように、濁った水が透き通り、見通すことができるようになったように、主の御声がはっきりと聞こえます。それは、神の前に居並ぶみ使いたちに、神ご自身が語り掛ける御前会議のような場面です。

派遣
8 …「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。
イザヤは自ら答えます。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
イザヤはこれまでも預言者として働きながら、自らも神の御前に立つことができない者であることに直面しました。しかし今は、主に罪を赦された者として、神から遣わされます。こうして初めて、彼は真に神のメッセージを取り次ぐことができるようになりました。
イザヤの派遣は、預言者としての召命・派遣でした。先々週のメッセージでは、「父なる神は、この世に御子と聖霊を派遣されたように、教会をも派遣されることをお話しました[⑪]。一人一人のクリスチャンは、この世にあって、神の国の基準に従って生き、神の国に共に仕えることによって、この世に神の国を作り上げる父・子・聖霊の神と共に働くのです。この世にあってこの世に染まらず、むしろ地の塩・世の光として感化し、主イエスを証しすることが、この世に遣わされたクリスチャンの使命です。

頑なにさせる預言
しかし、イザヤの使命は、単純なハッピーエンドや順風満帆な奉仕の予想はありません。むしろ、無理解と反発・迫害です。イザヤの前にいたのは、神の言葉を聞いても悟らず、見ても理解することのない頑なな民でした。イザヤが神のメッセージを語っても、むしろ心を高ぶらせて耳を貸さず、霊的な理解力は鈍くなり、御言葉を聞けば聞くほど、心を頑なにして、神に立ち返るどころか、かえって遠く離れ去っていきました。神がそう仕向けたのではなく、彼ら自身が背き去ったので、語れば語るほど心を頑なにしてしまうのです。
「主よ、いつまでですか」というイザヤの言葉には、主に従いつつも、悲しみと忍耐の中で希望を求める心が表れています。
荒廃と聖なる裔の預言
イザヤに告げられたのは、非常に厳しいさばきの預言でした。アッシリアとバビロンによる捕囚を予期し、町々の荒廃と人々の移住・北イスラエルの滅亡・残されたユダ王国の荒廃を預言しました。しかし、切り倒されて命が絶たれたように見える切り株から新芽が出てくるように、聖なる民の残りの者が残されます。こうして、はるかかなたに、イエス・キリストの到来が予言されます。
イザヤの召命とメッセージ
イザヤ6章の召命の出来事は、イザヤの全生涯の奉仕を方向づけ、そのメッセージに深く刻み込まれました。神様を「イスラエルの聖なる方」と呼ぶ、イザヤに特徴的な言葉遣いは、彼の召命体験から出た言葉でしょう。主は、偉大なウジヤ王が死んだ年に、天の王座に着く王として姿を現し、その栄光はユダのみならず、「全地に満ちる」と言われました。
◇主への信頼
イザヤは、アハズ王の時代、アラムやアッシリアなどの強国の間で悩み同様する王を、「主を信頼するように」いさめました[⑫]。ヒゼキヤ王がアッシリアの大軍に攻撃された時、神に信頼する王を励ましました。厳しい国際的な軍事衝突の中で、イザヤは「主こそ全てを支配するまことの王である」ことを教え、主への信頼を教えました。
イザヤ26:3-4
3 あなたは全き平安をもって
こころざしの堅固なものを守られる。
彼はあなたに信頼しているからである。
4 とこしえに主に信頼せよ、
主なる神はとこしえの岩だからである。
◇主のしもべ
そして、万軍の主である王を見たイザヤは、主のしもべとしての道を教えました。主の言葉を語っても聞かれず、むしろあざけりと迫害を受ける中で、やがて来られる救い主に希望を置いて信頼し、忍耐強く主に従い通しました。イザヤは、膨大なキリスト預言を残したばかりか、自ら主のしもべとして歩み、主にならい、キリストを指し示す生涯を歩みました。
【適用】 現代を生きる私たちも、この世に遣わされるとき、理解や冷淡な扱いを避けることはできません。▽イザヤの召命の御言葉は、人々の無理解と反発の中でも、主の使命に従い続ける忠実さを求めています。イザヤは主の弟子として、柔和な謙遜さを教えました。人々の歓心を買うために、使命を曲げることは許されません。▽そして、揺れ動く環境の中で、主に堅い信頼を置く生き方は、私たちを全き平安のうちに守り、戸惑い恐れる人々に、指針を与えるものとなります。
8 …「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。
王である主に出会い、恵みによって罪を赦された者は、主によって遣わされます。一人一人に与えられた召命に、忠実に歩んでまいりましょう。
3.「私たちが聞いたことを、だれが信じたか」――主に従う
今日はイザヤ書と共に、ヨハネ福音書が朗読されました。
37このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。38それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。39こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、40「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。41イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。42しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。43彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
44イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、45また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。46わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。
ヨハネ12:37-46
ヨハネ福音書ではイザヤ53章が引用され、イザヤが預言した救い主は主イエスであり、イザヤは主イエスの栄光を見たのだ、と言います。主イエスは、ご自分が父なる神と一つであり、ご自分を信じるようにと招いています。
ヨハネ12:44 イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、45 また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。46 わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。
◆服従
ヨハネ12章では、イザヤの時代の不信仰と、主イエスの時代の不信仰が重ね合わせられます。イザヤは、自分の時代の民のかたくなさを預言したと共に、イエス・キリストの時代の民の頑なさも預言しました。
ヨハネ12:42 …役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。43彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。
主イエスを信じたけれど、追放を恐れて告白しなかった議員たちへの厳しい言葉です。この中には、十字架の後に信仰を公にするニコデモやアリマタヤのヨセフも含まれていたと思います。主イエスの時代に、主イエスへの信仰を持ちつつも、堅く立つことのできなかった人々の弱さを描いています。
◆危機の中での信頼
それはちょうど、イザヤの時代に、厳しい政治的・軍事的状況の中で、信仰を持ちつつも、よろめいたアハズや晩年のヒゼキヤの弱さと似ています。▼イザヤは、具体的な危機の中で、主を信頼することを教えました。▼新約聖書のヨハネが言う「主イエスを信じる」ことも、会堂から追放されるような危機的状況でも主に信頼し、主イエスを告白する信仰です。会堂からの追放という大きな代償を払っても、「人からの栄誉よりも、神からの栄誉を愛する」信仰です。
イザヤ26:3 あなたは全き平安をもって
こころざしの堅固なものを守られる。
彼はあなたに信頼しているからである。
◆キリストを証しする生涯
もう一つ、イザヤの信仰から学ぶことは、イザヤ自身の歩みがキリストと似たものとなり、キリストを指し示す者となったことです。イザヤが主の言葉を語り・人々が受け入れず・心を頑なにしたことは、同じように、主イエスにも起こりました。このことはイザヤの預言の成就と見なされました。▼イザヤが逆境の中で、主からの召命に忠実に、柔和に自分の使命を果たし続けた「しもべ」の姿は、キリストを指し示すものとなりました。逆境の中で忠実なイザヤの歩みこそが、来るべきキリストのモデル(予型)となりました。
同じように、現代の私たちが、逆境の中で忍耐強く、柔和に謙遜に与えられた使命に励み続ける時、私たちはキリストに似た者となり、キリストの弟子とさせて頂きます。そこにこそ、私たちの全き平安と喜びが、安息が、そして栄光の希望があります。

祈り
聖なる天の神様。私たちに出会ってくださったことを感謝いたします。人生の困難な状況に遭う時、あなたこそすべてを支配する天の王であることを悟らせてください。あなたを信頼することを教えてください。イザヤのように、希望をもって忍耐強く、使命を果たし、主を証しする者としてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
[①] 2歴代誌26章
[②] 祭壇から立ち上る煙だろう。いけにえの祭壇の煙か、香の祭壇の煙かは分からない。
[③] ちょうど画用紙に描かれた絵がキャンパスをはみ出して、その大きさ・豊かさ・勢いを表すように、イザヤが見た情景は書き記された範囲をはるかに超えて高く・広く広がっています。
[④] イザヤが自覚した罪である「唇の汚れ」とは何だったかを推測すると、①「天使の讃美の唇のようでない」――天使の一心不乱の讃美を見て、自分の不徹底と神にふさわしくない姿を見た。②「預言者としての唇の言葉に真実でない」――預言者として自分が教えた通りに生きていなかったことを悟った。預言者として災いを宣告した人々と、同じ罪の根を、自分自身のうちに見た。③「唇の言葉によって表される人としての内実において、汚れている」――唇の言葉に現われた内面が、神に相応しくなく・滅びるべき汚れた者であることを知った。
[⑤] イザヤ書6章の召命の記事以前に、イザヤが預言活動をしていたかどうかは、見解が分かれる。おそらくイザヤは、それ以前にも預言者として活動していたが、6章の出来事が、彼の全生涯のメッセージとなる決定的な召命であったと言えるだろう。イザヤ1-5章は、イザヤの生涯にわたるメッセージの要約である。第5章には、ユダの人々の不正や高ぶりに対する「災い」の宣言がある。
[⑥] 旧約聖書の預言者の経験が、新約聖書のクリスチャンへの約束(義認、聖霊の内住、全き聖化)とどう関係するかは難しい問題である。旧約の預言者の経験は、新約聖書に固有な約束(聖霊のペルソナ的内住など)の面では、新約の経験とは同一ではなかったはずである。つまり、厳密には、イザヤの経験は、新約聖書が約束する「全き救い」と全く同一ではないと考える。ただし、話が複雑になるため、ここではイザヤの経験を、新約の経験との類比で適用してみた。新約の経験の精確な聖書的基礎づけは、新約聖書の教えから見ていく必要がある。
[⑦] ウェスレー説教9,10「御霊の証し」参照。
[⑧] 作者不詳「不可知の雲」奥田平八郎訳 古典文庫p213訳注第34章(1)タウラーの説教より「あなたに神の御働きを受け容れる能力があると神がみそなわし給わば、直ちに神が働きかけぬものと考えることは、過ちを神に帰すこととなろう」。
[⑨] ウェスレー日誌 1738年4月22日、Kenneth Colins, “The Theology of John Wesley: Holy Love and the Shape of Grace”.
[⑩] ウェスレー説教43「聖書的救いの道」、訳者ノートも参照。
[⑪]https://oj-koinonia.com/sermon/使徒1-6-14私たちをこの世に遣わす聖霊の力/
[⑫] イザヤ12:2-3。イザヤは、ユダヤ人の伝承によれば、ウジヤ王のいとこにあたる王族の出身だったとされる。伝承の真偽は不明たが、王たちとの接点も多く、聖書の記述から貴族階級であったことは間違いないとされる。国際情勢にも精通していた。(石原潔「旧約聖書概論」p177)