創世記21:8-21「神は聞いておられる」
2025年7月6日(日) 礼拝メッセージ
聖書 創世記21:8-21, 21:1-7
説教 「神は聞いておられる」~ハガルとイシュマエル~
メッセージ 堀部 里子 牧師

「しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。…
「立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。
神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒野に住んで弓を射る者となった。
創世記21:1-7
恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
ローマ6:1b-2,4,11
おはようございます。創世記からアブラハムの話をしていますが今日は、ハガルとイシュマエル親子の記事から、「神の救いの豊かさ」について話したいと思います。
今年の始め、半額で売られていた「遺伝子検査キット」を試してみました。その検査結果が先日、送られてきたのですが実に面白いと思いました。自分のDNAに組み込まれている体質、傾向性、性格、祖先のことなど実にあらゆることが分かるのです。すごい時代ですね。検査結果、私は100%日本人でした。沖縄出身なのでもしかしたら、南方からの血が混じっているのではと思ったのですが。。。(笑)
ユダヤ人は血筋を大切にする民族です。失われた部族の末裔かもしれないという方々には、DNA検査で何代も遡ってユダヤ人であることが証明されたりするのです。「信仰の父」と呼ばれているアブラハムの二人の子どもを巡って、共に聖書を読みたいと思います。
【約束の実現を待てないサライ】
ハガルの人生は、人間的な言葉を使えば「可哀想な運命」であり、神の目から見たら「神の計画の中にある」と言えます。ハガルはアブラハムの妻サライの女奴隷でした。サライは不妊の女性でしたが、老年になって夫アブラムに「わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします」(創世記13:16)と約束が神様から与えられ、子どもが産まれることを期待していたはずです。しかし、待てど暮らせど子どもは産まれません。皆さんは、約束の実現が引き延ばしになり、待てなくなるときどうしますか。
とうとうサライは待てなくなり、別の考えを実行します。「サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。」(創世記16:2)
サライは自分の女奴隷によって自分自身の子を得るのだと考えていました。当時はこのような考え方が一般的に認められており、罪だとは考えられていなかったようです。創世記16章を読むと、妊娠したハガルは女主人であるサライを軽く見るようになり、追い出されるというか、居づらくなり逃げ去ります。しかし、荒野の泉のほとりで主の使いに出会いました。

【神はハガルの苦悩を聞かれた】
「主の使はまた彼女に言った、『わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう』。…『あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。』」(創世記16:10,11)
「子孫繁栄の約束」と「子どもの名前」をもらって励まされたハガルは、サライの元に帰りました。そして、アブラムに息子を産みました。イシュマエルという名前は「神は聞かれる」という意味があることを心に留めたいと思います。
【アブラハムの跡継ぎ問題】
さて時は流れ14年後、アブラムが100歳のとき、サライに息子イサクが誕生しました。神にとって不可能なことはありませんでした。アブラムが最初に神様から子孫繁栄の約束をもらってから25年が経ち、サライがサラに、アブラムはアブラハムへと二人の名前も変わりました。しかし、ここで浮上してきたのが「跡継ぎ問題」です。
イサクをからかうイシュマエル
「さて、おさなごは育って乳離れした。イサクが乳離れした日にアブラハムは盛んなふるまいを設けた。」(創世記21:8)
「乳離れ」はイサクが1~2歳、もしくは3歳くらいであったと考えられます。盛大な宴会が開かれている中、15~16歳のイシュマエルの心中は複雑だったと思います。同じ父親を持ちながら、明らかに自分と弟イサクの扱いが違うことに気付いていたと思います。もしかするとイシュマエルの乳離れのときには、宴会は開かれなかったかもしれません。彼はお祝いの最中、イサクをからかってしまいました。年も離れているので、本格的にいじめたのではないかもしれませんが、その場面をイサクの母であるサラに見られてしまいました。
私も三歳下に弟が産まれたとき、両親の目が届かないところで、弟にちょっかいを出したり、泣かない程度に叩いてみたりしたことを思い出しました。今まで自分だけに注がれていた親の愛情が、弟に注がれているのを感じて嫉妬したのだと思います。
サラの要求とアブラハムの葛藤
「(サラは)アブラハムに言った、『このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません』。この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。」(創世記21:10-11)
アブラハムにとっては、イシュマエルもイサクも自分の子どもであることに変わりありません。でも、サラにとっては他人です。彼女が名前でなく「この女奴隷とその子」と呼んでいることからも、アブラハムの周囲は穏やかでありません。アブラハムは、「約束の子」と「奴隷の子」の件で板挟みになり、苦しみます。しかし、神様は問題の解決を与えてくださいました。神の言葉がアブラハムに臨みました。
【イシュマエルに対する約束】
「神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。」(創世記21:12-13)
この神様の言葉を聞いたアブラハムは、どんなにか安心したかと思います。サラから産まれる子が「約束の子」であることは、最初から変わらない約束でした。しかし、アブラハムはイシュマエルのことが常に気がかりだったのです。17:20でも神様は「またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福して多くの子孫を得させ、大いにそれを増すであろう。彼は十二人の君たちを生むであろう。わたしは彼を大いなる国民としよう」と約束してくださっていましたが、ここでも再度神様は、イシュマエルもアブラハムの子孫として一つの国民としてくださると神様は、はっきり約束してくださったのです。
旅へ出されるハガルとイシュマエル
「そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、『わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない』と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。」(創世記21:14-16)
イシュマエルの誕生前にもハガルは、行く当てもなく荒野を彷徨ったことがありました。孤独だと思っていたハガルは、神の使いと出会い、生きる希望を見い出しました。「そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、『あなたはエル・ロイです』と言った。彼女が『ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか』と言ったことによる。」(創世記16:13)
しかし、ハガルは再び荒野を彷徨うことになってしまったのです。ハガルの人生を見るとき、神と出会って生きる希望を見い出しても、次のライフステージに進むなら、そこで新たな試練と直面することが分かります。「一難去ってまた一難」という言葉の通りです。前回と違うのは、今回はすでに神の約束の言葉が与えられており、自分から逃げ出したのでなくサラによって親子で追い出されたことです。

【ハガルとイシュマエルの泣き声を聞かれる神】
アブラハムが持たせたパンと水が尽きると、ハガルは「死ぬこと」を考えました。ハガルとイシュマエルは声をあげて泣きました。祈りにも似た魂の叫びではなかったかと思います。神様が聞いておられました。
「神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、『ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう』。」(創世記21:17-18)
イシュマエルの名前の通りです。神様は二人の泣き叫ぶ声を聞かれ、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない」と優しく声をかけてくださいました。息子が死ぬのを見たくないと、距離をとって泣いていたハガルに「立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい」と神は近寄るようにとおっしゃいました。「あなたたちは孤独でない、このまま死なないよ。わたしが一緒にいることを示しなさい」とおっしゃっているかのようです。
命の水が与えられる
荒野で飲み水を飲み切ってしまうことは、死を意味します。死を覚悟していたハガル親子に、神様は命の水を与えてくださいました。
「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。」(創世記21:19-20)
神様は約束通り、ハガルとイシュマエルを見捨てることなく、愛と恵みを現わしてくださいました。イサクは当然、アブラハムの正妻の子として祝福を受け継ぐ者となっていきますが、奴隷の子であっても同じくアブラハムの息子イシュマエルと、彼の子孫も神様は顧みてくださいました。

【神の救いの豊かさ】
神様はなぜ約束の子どもでない、女奴隷ハガルと子どもイシュマエルの苦しみを聞かれ、恵みを注がれたのでしょうか。それは、神様が罪によって苦しむ者たちの声を聞かれ、救われるように願われているからです。ハガルは飲み水がなくなり、死を覚悟したとき、神様が目を開き、井戸を見せてくださいました。
イエス様はおっしゃいます。
「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。(ヨハネ4:14)
神様はユダヤ人だけを祝福する方ではなく、彼らを通してすべての人が祝福され、救いの中に入ることを願い、先ずアブラハムを選ばれたのです。
「あなた(アブラハム)を祝福する者をわたしは祝福し、あなた(アブラハム)をのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなた(アブラハム)によって祝福される」。(創世記12:3)
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」(Ⅰテモテ2:4)
「地のすべての部族」の中に、エジプト人ハガル親子も、異邦人である私たちも含まれているのです。確かに、神は罪によって苦しみ、心の底から救われたいと願う人々の声を聞いてくださっています。そして、私たちが神以外に頼るものがないかどうか、本気度を試しておられます。
ある母親と息子のこと
昔、あるクリスチャン女性の方と知り合いになりました。話しを聞くと、彼女の置かれている環境が想像を絶する過酷な状況であることが分かりました。「事の起こるとき、わたしは常にそこにいる」(イザヤ48:16新共同訳)「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)が彼女の支えの言葉で、教会に行きたくてもなかなか行けない中、聖書の言葉が彼女にとっても命の泉でした。ご主人の会社が倒産・失業し、息子が精神疾患を患っている中、彼女がパートに出て働いていました。息子さんにパニック発作が起きると死のうとするので、彼女は自分よりも大きな息子さんを抱きしめ、「主よ~、助けてください~!!」と必死で祈るのだそうです。信仰深い方でしたが、「息子がもし地獄に行くなら私も一緒にいきます」と言い切るほどに、息子を愛しておられ、一日守られると神様に心からの感謝をささげておられました。
今回、ハガルとイシュマエルの記事を学びながら、彼女と息子さんのことを思い出しました。私は彼女の信仰の姿に随分と励まされたものです。今はどうしておられるでしょうか。神様は彼女と息子の心からの叫びを聞いておられ、今も聞いておられると信じます。またお会いして、その後の歩みを伺いたいと思っています。
もはや罪の奴隷でない
サラはアブラハムの「跡取り問題」でハラハラしていましたが、神様の大きな御計画の中で、すべてが完璧に進んでいました。奴隷であったハガルにも祝福の道が神によって開かれていきました。確かにイサクから出る者が「約束の子」でしたが、神様はアブラハムを通して、罪によって壊れた神の国を回復されることを約束されました。そして、その約束の通りにイエス・キリストをこの世に送られ、キリストを信じる者たちを義とし、罪の奴隷から救い、永遠のいのちをあたえられました。神様の救いの計画の偉大さと、その愛の深さ、広さ、長さ、高さを覚えます。感謝しつつ共に前進いたしましょう。
「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:6-8)