創世記22:1-18「神と共に生きる」

2025年7月13日(日) 礼拝メッセージ

聖書 創世記22:1-18
説教 「神と共に生きる」
メッセージ 堀部 舜 牧師

1これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。2神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。3アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。4三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。5そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。6アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。7やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。8アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

9彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。10そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、11主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。12み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。13この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。14それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

15主の使は再び天からアブラハムを呼んで、16言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、17わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、18また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。

創世記22:1-18

1.恵みの経験と、神を恐れる信仰

今日は、アブラハムの信仰の歩みを共にたどりながら、私たち自身も彼の立場に身を置いて、彼の信仰から学びたいと思います。今日のエピソードは、信仰の最高到達点のような姿ですが、まずはそこに至るまでにアブラハムが通った信仰の道のりを振り返って、神様の恵みを心に留めたいと思います。

【アブラハムがこれまでに頂いた神の恵み】アブラハムは、神の御言葉によって異教の地から導き出され、絶えず約束の言葉によって導かれました。▼飢饉を逃れてエジプトに行ったとき、アブラムはエジプト人を恐れて、サライは王宮に召し入れられましたが、神様がアブラムを守られました(12:10-20)。▽財産と家畜が増えて、甥のロトの僕との間にいさかいが起きた時、アブラムは豊かな土地をロトに選ばせてロトと別れましたが、この時も神様がアブラムを祝福されました(13章)。▽王たちの戦争が起こった時、アブラムが少数の部下を率いて戦った時、主が勝利を与えて下さり、彼の命を救い出されました(14章)。▽アブラムが約束の実現を待ちきれずに、女奴隷ハガルによってイシュマエルが生まれた時、主は彼をもアブラムの子として顧みて下さいました(16章)。▽ソドムの町が滅ぼされた時には、主はそのご計画をアブラハムと親しく語り合い、アブラハムの願いを聞き入れられました(18-19章)。▽そして、御使いの予告通りにサラは身ごもり、不可能を可能される神の力によって、ついに約束の子どもイサクが与えられ、アブラハムの家族は喜びの笑いで満たされました(21章)。▽サラは、ハガルとイシュマエルを追い出しますが、神様は彼らの祈りにも耳を傾けて下さいました(21章)。[1]

神様は絶えず約束をもってアブラハムを導き、失敗の中でも彼を守り、力をもって約束を実現して下さいました。命を守り・財産を増し・子孫を下さっただけでなく、神と親しく語り合う真の友として下さり、彼と契約を結び、正義と公正を行う神の民を起こし始められました(18:19)。

私たち自身は、どのような神様の恵みに出会って来たでしょうか。神様は、それぞれの信仰の歩みにふさわしく、次の信仰のステップを用意してくださいます。

2.沈黙から生まれる信仰

【神の言葉のニュアンス】

1これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。2神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

ヘブライ語での言葉遣いでは、神様は「アブラハムよ、どうか行ってくれないか」と丁寧に頼み込んでいます。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサク」と呼んで、アブラハムがどんなに大切にしているかを知っておられます。神様の願いの内容は厳しいものでしたが、神様は冷酷な支配者ではなく、私たちを友と呼んで知っておられる親しい方です。▼アブラハムへの命令のあまりの過酷さに、ユダヤ教のある著名なラビは、「彼を燔祭としてささげなさい」という言葉は、厳密には、「(全焼のささげ物として)連れて上りなさい」という言葉遣いであり、イサクを「ほふりなさい」とは言われなかったことを指摘して、始めからイサクを屠らせることを意図してはいなかったと教えています。▽アブラハムは現実にイサクを屠ろうとしましたが、神様は最終的にはそれを止めて、イサクの命を奪うことを許しませんでした。アブラハムを試練にあわせられた神様の深い御心は、人知を超えて測りがたいですが、最終的にはイサクの命を奪わなかったことに、神様の真実な品性が表れていると思います。[1]

【沈黙の従順】

アブラハムは身に着いた信仰の従順によって、迷うことなく直ちに行動します。

3 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

一連の箇所に見られる「沈黙」に注目します。もしアブラハムが言葉を発すれば、言い訳や苦悩の言葉が出てきたかもしれません。いろいろな人に相談をすれば、心が動揺して山に行くのをやめたり、動物のいけにえで済ませたりしたかもしれません。しかし、もしアブラハムがそうしていたら、試練を越えた後に与えられた、主イエスの先祖となり・世界の祝福の基となるという祝福は失っていたでしょう。▼アブラハムは沈黙の中で神に向かいます。これが神を恐れるアブラハムの生き方でした。

現代では、沈黙の価値が見失われているかもしれません。情報があふれ、スマホから絶えず多くのメッセージが届きます。祈りよりも様々な活動が評価されます。しかし、試練の時には、沈黙によってしか神に向かうことができないことがあります。「神を恐れること」と「沈黙」には、密接な関係があります。理解を越えた神からの出来事に触れる時、私たちは自分の言葉を収め、沈黙のうちに神を見上げます。自分の理解を越えた神の御前で沈黙して、ただ神に従いながら、神の導きを待ち望むのです。[2]

【配慮と優しさ】 また、アブラハムの沈黙は、愛する家族への配慮と優しさが込められています。動揺してもおかしくない試練の中で、彼は動揺を表に表しませんでした。自ら黙々と準備をし、家族に詳しい事情を明かしませんでした。彼の慎重な言葉遣いには、家族を不安にさせまいとする心遣いが表れています。試練の中で、沈黙してひとり神に向かい、神に従い、普段通りに振る舞い、落ち着いて、信仰と希望の言葉を語りました。

【適用】 私たちは、危機に直面する時、沈黙して神様に向かうでしょうか。混乱して、いろいろな状況に気が散ってしまうことはないでしょうか。鍛え抜かれた信仰の父アブラハムが、沈黙して神に向かい、神に従った姿勢に学びましょう。▽また、危機の中で、私たちはどのような言葉を語るでしょうか。不安や恐れの中で語るなら、言葉に出さずとも、周囲の人は敏感にそれを感じ取ります。沈黙の中で神に向かい、神の前に立つ自分の立ち位置を取り戻し、そのようにして語る、わずかな言葉によってこそ、主にある希望と信仰を語れるのではないでしょうか。▼アブラハムは家長として振る舞いましたが、父/母として、夫/妻として、息子/娘として、兄/姉/弟/妹として…、それぞれの立場があると思います。▽ある若い兄弟は、末っ子として年長の兄姉たちを立てながら、信仰においてはきょうだいのリーダーのように祈りをもって支えているという話を聞いたことがあります。それぞれの立場を踏まえながら、発することのできる信仰と希望のメッセージがあります。それは、試練の時には、沈黙して神に向かい、御言葉に従う献身によって、隠れた祈りの場から生まれるものです。

3.アブラハムの信仰と神の介入――神の山に備えあり

4  三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。

モリヤ山を目にしたアブラハムの心境はどうだったでしょうか。アブラハムは、重苦しい衝撃を受けたに違いありません。しかし、アブラハムは、沈黙のうちに神の言葉に従いながら、信仰の歩みへと踏み出していきます。

【約束の子と奴隷の子】

5節でアブラハムは、しもべたちに言います。

5  …「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。

モリヤ山の旅路は、信仰の世界の旅路に似ています。ただ信仰者アブラハムと約束の子イサクにしか、ここから先を進むことはできません。しもべたちは、彼らと共に進んでいくことはできません。▽モリヤ山での礼拝は、最も大切な・愛する者を犠牲として捧げる、最も高価な礼拝の場所です。この世の利益(ごりやく)や楽しさにひかれてこの道を進んできた者は、高価な犠牲の礼拝の道を進むことはできません。愛によってではなく、恐れによって従ってきた者は、ここから先の道のりを共に進んでいくことができません。

▽信仰の道のりの最初の段階では、神は多くの喜びを下さり、目に見え・感じることのできる祝福をくださいます。しかし、信仰の成熟へ向かっていく時、私たちは物質的な祝福や喜びといった感覚的なものを離れて、目に見えない神ご自身に心を定めなければならない地点に到達します。賜物ではなく、与え主である神ご自身に心を定めるために、目で見える祝福や、喜びなどの感情それ自身は、与えられても気に留めなくなるのです[3]。▼私たちは、アブラハムのように信仰によって歩む者として、イサクのように約束の子どもとして、目で見える祝福の領域を離れて、神ご自身に向かって、御言葉の導きに従って、進んでいきます。

わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。このアブラハムの言葉には、信仰による希望があります。ヘブライ語を厳密に訳すと、「私たちは戻って来る」となり、アブラハムはイサクと共に戻って来るという信仰を表明しています。▽どのようにしてかは、アブラハムは知らなかったでしょう。しかし、かつて神が「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」(21:12)と約束された以上、イサクが滅びることはないという希望と信仰が、この言葉に表れています。

【アブラハムとイサクの信仰】

6  アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

イサクを屠るための刃物と火を持っていく時、どんな心境だったでしょうか。彼らの姿にはもはや迷いはありません。もはや、神様だけを見上げて、信仰によって進んでいきます。6節と8節に、「ふたり一緒に行った」と2度記されています。アブラハムだけでなく、イサクも、同じ信仰の心で進んでいったことが分かります。▼イサクは、アブラハムの信仰の家庭に育ち、神の約束によって生まれたという自分の誕生までに与えられたすべての神様の恵みを聞かされて育ったはずです。イサクがモリヤ山頂の祭壇の上で、抵抗することなく縛られたのは、命を捧げて神を礼拝するというイサク自身の信仰を表しています。▽アブラハムとイサクは、心を一つにして、主を見上げて進んでいきました。

7やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。

沈黙を守ってきたアブラハムの心を貫く、鋭い質問でした。

8アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。…

アブラハムは、遠回しに答えます。「小羊を備えてくださる」と訳された言葉は、神様がいけにえの羊を「準備してくださる」という希望のニュアンスと共に、「神が羊をご覧になり、選ばれる」、すなわち、いけにえの羊として、イサク自身を選び取られる可能性にも含みを持たせている言葉です。▽イサクは、おそらくこの言葉を聞いて、自分がその捧げ物となる可能性を悟り、神の前に命をも捧げる覚悟を決めたと思います。

8cこうしてふたりは一緒に行った。

この沈黙の交わりの内に、すべての心備えがなされていきました。

山頂に着くと、二人は黙々と祭壇を築き、礼拝の準備をします。そこには、無言の中に親子の深い信頼関係があり、神への信頼と献身が表れています。山頂での礼拝の準備をする間、二人はもはやこの地上の生と死をこえたものを見て、永遠の神に思いを向けていました[4]

9彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。10そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、…

【神の介入:主の山に備えあり】

11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。12み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。

13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。14それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

8節でアブラハムが「神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と言った信仰の通りに、神様はしてくださいました。「主の山に備えあり」――別訳では「主の山で、主が現れてくださる」。主ご自身が介入し、状況を大逆転させてくださいました。▼主イエスはしばしば、「あなたの信じたとおりになるように」と言って病気を癒されました[5]。主を信じる者に、主は思いがけない助けを備えて下さいます。

【例話】皆さんも、様々な経験があるのではないでしょうか。私が青年会にいた頃、初めは数人の小さな交わりでした。共に祈り、励まし合いました。時には共に泣きながら祈って、その祈りが答えられたこともありました。そんな小さく温かい交わりの中で、一緒に奉仕していたリーダーの姉妹が結婚して別の教会に行くことになりました。私は喜びと共に、寂しくなるなという思いを抱いて、彼女の結婚式が過ぎました。そして、姉妹がご主人の教会に行き始めたちょうどその週に、新しい青年がやってきました。私と年の近い兄弟でした。毎週平日に一緒に祈りと学びの時を持つようになり、大変慰められました。その平日の集まりには、数人の若い兄弟たちが集まるようになりました。私の思いを越えて、神様が兄弟たちを送って下さり、共に祈る仲間を送り出した私が寂しくないようにしてくださいました。

【適用】神様は、私たちの全ての必要を満たしてくださいます。病気になる時には、必要な助けを与えて下さいます。経済的な試みを受ける時には、求めに答えて、必要な支えを与えて下さいます。落ち込んでいる時には、思いがけない励ましを送ってくださいます。教会の運営においても、神様は必要な人を送ってくださいます。「人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う」――神様が、聖書の時代だけでなく、私たちの時代にも、信仰の求めに応じて、全ての必要を満たしてくださいます。

4.試練を越えて与えられた祝福

試練の中で主に信頼して従い、神の介入によって乗り越えた時、神の祝福が与えられます。

15 主の使は再び天からアブラハムを呼んで、16言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、17わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、18また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。

パウロの解釈によれば、この箇所で単数形で「あなたの子孫」と呼ばれるのはイエス・キリストのことです。「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得る」のは、主イエスを通してです。

救いの歴史の転換点となるこの約束がアブラハムに与えられたのは、アブラハムが「〔主〕の言葉に従ったから」でした。そして、アブラハムが「あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかった」からでした。ここに、神の御心に近く歩んだアブラハムの姿があります。

【モリヤ】 アブラハムがイサクを捧げたモリヤという地名は、旧約聖書でもう一度だけ出てきます。それは、ソロモン王が神殿建設に選んだエルサレムの地名です。[6]アブラハムが主の言葉に従って、心を尽くして神を礼拝したその場所に、何世代も後に主を礼拝する神殿が建設されました。▼さらに何世代も後に、その場所に神の独り子イエス・キリストが来られます。▽信仰の父アブラハムが、愛する独り子を神に捧げたその場所で、神ご自身が、十字架で愛する独り子主イエスの命を与えてくださいました。▼アブラハムは、このキリストの犠牲を指し示し、愛する独り子を犠牲にした父なる神の愛を表すモデルとなりました。

独り子主イエスを惜しみなく与えて下さった神の愛は、今、私たちに向けられています。

ローマ8:32-39「32ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。…35だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。…38…死も生も、…現在のものも将来のものも、…39…その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

私たちがこの愛を知ったなら、愛をもって応えることを、神は願っておられます。今日のもう一つの聖書箇所、1ヨハネ4:10-11です。

1ヨハネ4:10-11「10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。11愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。

まとめ・適用

信仰の父アブラハムに倣って、私たちはどのように神の愛に答えれば良いでしょうか。

【沈黙】 私たちの試練の中で、沈黙のうちに神様に向かいましょう。神は良い方で、私たちに良いものを備えてくださっていることを信頼して、希望の言葉を語りましょう。

【信頼】 現代においても、「主の山には備えがある」。希望の見えないところで、主ご自身が道を開き、「私たちの信仰の通りになれ」と命じて下さいます。どのようにしてかは分からなくても、主が逃れる道を準備して下さることを信頼して、主に希望をもって歩んでまいりましょう。

【聴従】 アブラハムが「主の言葉に聞き従った」ように、私たちも主の言葉に聞き従い、それぞれに与えられた信仰のチャレンジに答えて参りましょう。私たちが捧げる礼拝は無意味ではなく、その犠牲は主に覚えられています。神に捧げる献身こそ、神が喜ばれる全きいけにえ、後に続く多くの世代に祝福をもたらす神の祝福の通路となるのです。

 


[1] 神様と正式に契約を結んだ時、主は荘厳な式でアブラハムへの約束を保証されました(15章)。13年間の沈黙がありましたが、再び主はアブラハムに現われて下さり、約束を更新し、契約のしるしの割礼をくださいました(17章)。▽さらに主はペリシテ人の領主アビメレクからもアブラハムを守られました(20章)。

[1] (1) Rashi's Commentary 創世記22:2注解「bring him up」の項目、22:12「for now I know.」の項目。https://www.chabad.org/library/bible_cdo/aid/8217/showrashi/true

(2) 「イサクを捧げよ」との命令の倫理的問題性に関しては、次を参照。Victor P. Hamilton, The Book of GENESIS Chapters 18–50, New international commentary on the Old Testament. 22:1の注解

(3) 旧約聖書において息子を燔祭にすることが忌み嫌われたことを示す聖句の一部は、ミカ6:7、レビ18:21、レビ20:2、申命記18:10-12、2列王16:3、エゼキエル20:25、ほか。これらの記事と創世記22章の出来事との関連については、(2)の注解参照。

(4) 「イサクを屠ることを神が命令した」という考えの問題について、聖書解釈としては完全に時代錯誤な説明だが、一般向けの説明として次のような説明を付記する。

イスラエルの文化は、家族や生命を非常に大切にする文化である。一例としては、子ヤギを母ヤギの乳で煮ることを「残酷」と考える。まして、人間の父親が息子をいけにえとすることなど、想像もできない。別の例では、現代の戦争の捕虜交換でも、ユダヤ人捕虜1人に対して外国人捕虜数百人の比率で捕虜交換をすることにも、家族・子どもの命を大切にする文化が表れている。まして、自分の子どもをいけにえにするなど、ユダヤ文化では想像もできない。

アブラハムへの命令の過酷さについては、ラビ・ビンハス・ベリー「トーラーの知恵」の中の「試練」ハイェー・サラ創世23:1-25:18の解釈でも深く認識されている。

(4)はあくまで現代ユダヤ文化に照らした旧約聖書の解釈であるが、(1)-(3)の議論を踏まえて、神が人間のいけにえを要求されたと考えるのは、難しいと考える。アブラハムはイサクを屠ろうとしたが、結局、神はそれを止めて下さったのである。

[2] 箴言10:19、17:27

[3] 十字架のヨハネ「カルメル山登攀」

[4] 創世記21:33

[5] マタイ8:13、9:29、15:28、参照:17:20

[6] 歴代誌下3:1。考古学的に、創世記22章の「モリヤの地」と、歴代誌下3:1の「モリヤの山」が同一であるかは不明である。しかし、少なくともユダヤ人にとって二つの地名には明確な関連があり、これらの出来事が結び付けられて認識されたことは、聖書解釈上、重要な意味を持つと考える。