創世記25:19-34「神の憐れみで立てられた人」

2025年7月27日(日) 礼拝メッセージ

聖書 創世記25:19-34
説教 「神の憐れみで立てられた人」
メッセージ 堀部 舜 牧師

19アブラハムの子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムの子はイサクであって、20イサクは四十歳の時、パダンアラムのアラムびとベトエルの娘で、アラムびとラバンの妹リベカを妻にめとった。21イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。22ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」。彼女は行って主に尋ねた。23主は彼女に言われた、

「二つの国民があなたの胎内にあり、
 二つの民があなたの腹から別れて出る。
 一つの民は他の民よりも強く、
 兄は弟に仕えるであろう」。

24彼女の出産の日がきたとき、胎内にはふたごがあった。25さきに出たのは赤くて全身毛ごろものようであった。それで名をエサウと名づけた。26その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。リベカが彼らを産んだ時、イサクは六十歳であった。

27さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。28イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。 29ある日ヤコブが、あつものを煮ていた時、エサウは飢え疲れて野から帰ってきた。30エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。31ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。32エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。33ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。34そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。

創世記25:19-34

【ある兄弟の証し:選び】 以前いた教会で繰り返し聞いた、ある兄弟の最後の病床での出来事です。その方は病気が重くなり、最後の床で、牧師がお見舞いに行きましたが、言葉を出すことができませんでした。しかし、牧師の手を取り、その手に指で十字架を記されました。その兄弟はまもなく召されましたが、牧師は最後まで主への信仰に生きた彼の信仰に感動して、繰り返しこのことを語り続けていました。▼今日の聖句と関連する重要な主題は、「神の選び」です。

【聖書の背景】

礼拝で続けて創世記を読んでいますが、先週はアブラハムがしもべを遣わしてイサクの妻を迎えた話でした。その後、アブラハムは満ち足りた生涯を送り、亡くなります。今日は、息子イサクの一家の物語です。今日のエピソードは、3つの場面に分けられます。①子どもが与えられず主に祈った期間(19-21節)。聖書では短い記述ですが、イサクは40歳で結婚して60歳で子どもが生まれましたので、20年かかったことになります。②妊娠から出産までに与えられた預言とエピソード(22-26節)。③成長したヤコブとエサウの物語(27-34節)。▽特別に目立つエピソードではないかもしれませんが、族長ヤコブの誕生の物語は、神様の救いの歴史の原型のように、イスラエルに記憶されていったストーリーです。

1.神への信頼――イサクの祈り

イサク自身のエピソードは、それほど多く残されていないように思います。しかし、21節が心に留まりました。

21 イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。

聖書で神様を指す呼び方は、「主」や「神」などいくつかありますが、新改訳2017では太字の「」となっています。これは、神様の個人的なお名前です。▽例えば私は「人」であり、職業は「牧師」であり、名前は「堀部舜」です。いろいろな呼び方がありますが、一番パーソナルな呼び方は「堀部舜」という名前です。21節などで使われている太字の「」は、「神様」ではなく、「ご主人様」でもなく、神様のパーソナルなお名前です。▼21-23節で4回「」というお名前が出てきます。イサクは主に祈り、主は彼の祈りを聞かれました。ここに、イサクが神様との人格的な交わりの中に生きていたことが表れています。

しかし、イサクの結婚から双子の誕生まで、20年かかっています。ここに、彼らの信仰の姿があります。▽「イサクに生れる者が、〔アブラハム〕の子孫と唱えられる」という約束があっても[①]、その実現には時間がかかりました。19年間子どもが生まれず、イサクは59歳になりました。▼しかし、イサクは他の何に頼るのでもなく――アブラハムとサラのように女奴隷に頼ったのでもなく、ラケルが恋なすびの薬草に頼ったようにでもなく――神様ご自身に頼り、神様に向かい、神様に祈りました。そして、主がその祈りに答えられました。

【適用】 私たちは、自分の計画や願いが思うように進まない時、どのようにして求めるでしょうか。誰に頼るでしょうか。なすべきわざに忠実に励みつつ、ただ主だけに実現を頼っているでしょうか。▼以前教会でお世話になった方に、大きな病院で看護師長をされていた方がおられました。健康上のことで、相談をしたこともあるのですが、医学的なことを的確に教えてくださった後に、いつも笑顔で「天のお父様にお任せしましょう。天の神様が、一番のお医者様ですから」と言われたのが印象的でした。私の健康状態が深刻なものではなかったこともありますが、多くの患者さんを診てこられた姉妹が、心から神様ご自身に信頼していることを感じて心を打たれ、現実の健康問題に関して主に信頼することを教わりました。

▼祈りに関して、私はE.M.バウンズという人の本を定期的に読み返しています。4月頃から妻と二人で聖書と祈りの時を持つようになり、個人的にも、最近も祈りと説教者に関する本を読み返しています。日々の働きの中で、あれをしなければ、これをしなければということに気持ちが追われるのですが、一番大切なことは、祈ることだということを改めて強く感じています。▽忙しさに追われて祈りが減る時に、一生懸命働いてもなかなか進まず、祈りに打ち込む時に、思いがけない形で物事が進んでいきます。何か自分のうちで神様との間に妨げが起こると、働きが滞ります。神様とスムーズにつながっている時に、祈りに打ち込む時に、豊かな実りを経験することができます。▼私たちは、イサクのように、自分の課題を神ご自身のところに持っていくでしょうか。神こそが課題を解決できると信頼しているでしょうか。主により頼んで、祈りに打ち込んでまいりましょう。

21 イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。

2.神が知っておられる――双子への預言

祈り深い歩みをしたのは、イサクだけではありませんでした。妻のリベカもそうでした。

22 ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」。彼女は行って主に尋ねた。

19年の祈りを経て、ついにリベカは子どもを宿します。しかし、待望の子どもを得たと思ったのも束の間、双子の子どもを妊娠して、しかも彼らが互いにぶつかり合うようになりました。彼女が妊娠の苦しみの中で、主に求めました。つまり、リベカは祈ったのでした。

ついに約束の子どもが与えられると思ったら、一体どうなっていくのか。主を尋ね求めたリベカは、主からの答えを頂きます。

子どもの将来の予言

23主は彼女に言われた、
「二つの国民があなたの胎内にあり、
 二つの民があなたの腹から別れて出る。
 一つの民は他の民よりも強く、
 兄は弟に仕えるであろう」。

双子の運命を何百年も見通した預言でした。リベカの胎内に双子がいるというだけでなく、双子がそれぞれ族長となり、大きな国民となることでした。兄エサウはエドム人の祖先となり、弟ヤコブはイスラエル人の祖先となりました。ダビデの時代以降は、イスラエルがエドムを支配します[②]

子どもの将来を暗示する名前

月が満ちて出産の時となると、預言のとおり双子であったことが分かりました。25-26節は、ヤコブとエサウの名前の由来を示すとともに、彼らの人生をも暗示しています。

25 さきに出たのは赤くて全身毛ごろものようであった。それで名をエサウと名づけた。

エサウ」という名前は、「ごわごわした」というような意味で、全身毛衣のようなエサウの肌からついた名前ではないかと思います。「赤い」(アドモーニー)という言葉は、エドムという民族の名前の由来になっています。ちなみに、イスラエルの南のエドムの地域の土が赤いこととも関係していると思われます。[③]

26 その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。…

ヤコブは、生まれた時に兄の「かかと」(アーケーブ)をつかんでいたことから、ヤコブ(かかとをつかむ者=取って代わる者/出し抜く者)という名をつけられます。必ずしもネガティブな意味合いではないようですが、長男が特別な立場を持っていた社会で、兄エサウの祝福された特別な地位に取って代わるヤコブの生涯を暗示しているようです。

生まれる前から

新約聖書で、パウロがローマ書9章で、ヤコブとエサウの誕生のエピソードを引用して言います。

ローマ9:11-13「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。」

パウロがローマ書で述べた「神の選び」については、後で改めてお話しすることにして、ここでは「神に知られていること」に心を留めたいと思います。▼パウロは、ヤコブとエサウが生まれる前に、その生涯とその子孫の事柄を予告されました。神は、そこまで深く知っておられる方です。▽そして、二人が名付けられた名前は、その生涯に深く関係する名前でした。ここに、神の深いご計画の一端があります。▼リベカは、お腹の子に対する預言を聞いた時、それは彼女の想像をはるかに超えて、理解を越えていたはずです。そしてその予言は、その後の彼らの生涯を通して、一歩一歩成就していきました。ここに、人知を超えた神の知恵と力があります。

【適用】 私たち以上に私たちを知り、私たちの将来を知り、愛を持って選び、全能の知恵を持って導いて下さる神に知られているということは、私たちにどんなに深い安心感を与えてくれるでしょうか。▼私は大学生の時にイエス様を信じて、いろいろな神様の助けを経験しましたが、青年時代の不安定さもあったと思いますし、信仰初期には必死で祈って神様にすがって助けて頂いて、神様に安息することがなかなかできませんでした。信仰の年数も重ね、神学生・伝道師・牧師となり、これまで以上に絶えず神様に頼らなければできない環境の中で、変わらない神様の助けを経験し、神様に信頼し・安息するということが、身に着いてきました。▼私が自分を知っている以上に、神が私を知っておられ、愛を持って守り導いて下さっている。それを信頼する時にこそ、安心して神様に従い、愛をもってお答えしていくことができます。

3.預言の実現――長子の権利を軽んじる

エサウとヤコブを巡って語られた神の言葉は、時計の針がコチッコチッと時を刻んでいくように、ゆっくりと、しかし着実に実現していきます。

私たちはしばしば、神の祝福を軽んじたエサウの俗悪さと、神を求めたヤコブの信仰によって、神の祝福が与えられたかのように読んでしまいがちです。しかし、それはあくまで結果にすぎません。パウロによれば、エサウとヤコブが生まれる前、良い行いも悪い行いもする前に、「兄が弟に仕える」という預言が与えられています。それによって、ヤコブとエサウのストーリーは、善人が繁栄し悪人が衰える因果応報・勧善懲悪の原理ではなく、劣った者・年下の者が優れた者となり、後の者が先になる恵みと憐れみによる選びの原理が働いています。ヤコブは、エサウのように俗悪ではなかったにしても、ヤコブがよくやったから祝福を得たのではなく、全てに先立つ神の恵みの選びに導かれていることを心に留めたいと思います。

27節以下で、エサウとヤコブは成長して対照的な性格になります。エサウは優れた狩人として、野山を駆け回る活動的な人でした。一方のヤコブは天幕の内に留まることを好む穏やかな人でした[④]。(ヤコブの性格について、あまり深読みは避けたいと思います。)

28節で、対照的な性格の息子たちに対して、両親の愛情も分かれました。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。▼双子の誕生前に与えられた預言では「兄は弟に仕えるであろう」と言われて、神がヤコブを選ばれたことが明らかにされていました。しかし、イサクの愛情は、神の言葉と異なる方向に向かいます。イサクがエサウを愛したのは、「しかの肉が好きだった」からでした。イサクは、主が語られた御心を尊ぶよりも、食べ物の好みが先に立ちました。

そんな中で、「兄は弟に仕えるであろう」という預言が実現へと進む一つの転機が訪れます。29節で、ヤコブが食事を作っていたところに、兄エサウが疲れ切った身体で狩りから帰ります。

30 エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。

エサウはヤコブが作っていたスープを「その赤いもの」とぶっきらぼうに呼びます。「食べさせてくれ」という言葉は、「飲み込む」「流し込む」という言葉で、がつがつした粗暴な性格を表しています。

ヤコブはこの時を待っていたかのように言います。

31 …「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」

この言葉の背景には、ヤコブが優れた祝福の地位を狙ったというだけでなく、エサウが日頃から長子の権利を軽んじてきた事情があったはずです。▼長子の権利には、財産の相続の特権だけでなく、神の祝福が含まれていました。当時のヤコブが、神の祝福の価値をどの程度 理解していたかは分かりません。双子という全く同じ環境でスタートしながら、兄のエサウは常に長子の特権を持ち、父親の愛情を受けていることに、絶えずうらやましく思っていたでしょう。その長子の権利をエサウが顧みないのを見て、ヤコブはそれを売るように求めたのでした。

事実、エサウが一杯のスープと引き換えに長子の権利を売ったことに、彼が長子の権利を軽んじていたことがはっきりと表れています。

32エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。

エサウは、「死にそうだ」と言って自分の空腹を誇張して、一杯の食べ物と引き換えに渡してしまいます。目先の快楽しか見えていないエサウにとって、長子の権利はその程度のものでした。▽しかし、双子の兄の長子の権利を見てきたヤコブは、その重要性を知っていて、急いで取り引きを完了します。

レンズ豆の煮物 Photo by J Doll, from wikimedia commons, CC-BY-3.0

33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。34そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。

エサウは、父の家を相続する日を考えることもなく、神の祝福の大きさに心を向けることもありませんでした。ヤコブがレンズ豆の煮物とパンを与えると、エサウは飲み食いして立ち去ります。空腹を満たすことしか関心がなく、失ったものの大きさにも気づきません。「34bこのようにしてエサウは長子の特権を軽んじた」という言葉は、非常に重い響きがあります。

【適用】 私たち自身は、神の祝福をどのように受け止めているでしょうか。私たちは、クリスチャンとして、神の子とされた特権を頂いています。私たちはこの特権を大切に用いているでしょうか。毎日神の御声を聞き、神との交わりを味わっているでしょうか。父親が子どもの願いを聞いてくれるように、神様が私たちの願いを何でも聞いて下さることを信頼して、何事でもまず神様に祈り求めているでしょうか。目先の楽しみや安楽に心を奪われて、礼拝や祈りや御言葉の機会を放棄してしまってはなりません。▼エサウが長子の権利を売ったのは、狩りから帰って空腹で死にそうだと感じた時でした。私自身が神に仕えるという選択が厳しく問われるのは、仕事で疲れ切り、対人関係で悩む時、少しの休息と気分転換が欲しい時に、神に祈って新しい気持を頂けるかどうか、です。人間だれしも仕事を離れて身体と心を休める時は必要です。しかし、祈りと御言葉が必要な時に、それをおろそかにしない、御言葉と祈りによって自分に与えられた使命に臨んでいく、それが神の子の特権を用いることであり、神の子としての使命に生きる生き方だと思います。

◆【選び――クリスチャンの特権】

今日の聖書の箇所は、新約聖書のローマ人への手紙で引用される、「神の選び」のモデルとなるエピソードです。▼イサクから約束の子孫が生まれることが約束されていましたが[⑤]、エサウではなく、ヤコブだけが約束の子孫とされました。ここに神の選びがあります。

エサウとヤコブは全く対等な双子の兄弟です。そして、母リベカに「兄は弟に仕えるであろう」と預言されたのは、双子が生まれる前であり、子どもたちが良い行いも悪い行いもする前でした。神の知恵と主権によって、ただ一方的な恵みによって、神はヤコブを選ばれました。▽エサウは結果的に長子の特権を軽んじて自分がそれにふさわしくないことを自ら示したのですが、しかしそれ以前から、神ご自身がヤコブを選び、エサウを退けておられました。

ここに、クリスチャンの選びの「比喩」/モデルがあります。▼パウロのローマ書によれば、「神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われる」のです。それは、イエス・キリストを信じる信仰による選びであって、規則を守る行為によるのではありません。キリストを信じる者を神の子として下さるというキリストにある選びです。[⑥]

私たちは、信仰によってキリストにあって選ばれているなら、喜びを持って神を愛するのです。自由な愛をもって、神に従い、人を愛するのです。そして、行いによらず、恵みによって選ばれたのですから、誇ることなく神に感謝するのです。

エペソ1:3-5「3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、4みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、5わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」

神は私たちが生まれる前から、キリストにあって値なしに選ばれました。何の行いもなしに、あらゆる祝福を備えておられます。

この恵みの召しに感謝して、これを大切に育み、キリストの恵みを受け継ぐ者として、祈り深く主に求めつつ、天にあるものを求めて、主にある歩みを全うさせて頂きましょう。

 


[①] 創世記21:12

[②] サムエル下 8:14、歴代誌上 18:13、列王下8:20-22、歴代誌下21:8-10

[③] 毛衣(セーアール)というヘブライ語は、セイルの地名と関連する言葉遊びである。

[④] 「穏やかな人」は、直訳すると「全き人」である。多くの議論がされるが、ここでは新改訳2017の解釈を尊重する。

[⑤] 創世記21:12

[⑥] 「選び」の理解は、カルヴァン主義とアルミニウス主義ではっきりと異なります。ここではアルミニウス主義の選びの立場をとりました。

https://learntheology.com/james-arminius-romans-9.html

https://johnrhudson.me.uk/Brief_Baptist_History/Arminius/Analysis_of_Romans_9.pdf

「ヤコブの選びとエサウの遺棄」は、あくまで比喩的・予型論的に、「キリストにある選び」に対応します。パウロはローマ書で、アブラハム・イサクの子孫が皆救われるのではなく、律法の行いをする者ではなく、召して下さる方によって信仰によって救われることを教えています。新約聖書における「選び」は「キリストにある選び」であり、信仰によるものとして定められています。ヤコブとエサウの例は、この選びが無償の選びであることを明らかにします。