創世記37:1-4,12-28「人のたくらみと神の計画」
2025年8月24日(日) 礼拝メッセージ
聖書 創世記37:1-4,12-28
説教 「人のたくらみと神の計画」
メッセージ 堀部 舜 牧師

1ヤコブは父の寄留の地、すなわちカナンの地に住んだ。2ヤコブの子孫は次のとおりである。
ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。3ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。4兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。
12さて兄弟たちがシケムに行って、父の羊の群れを飼っていたとき、13イスラエルはヨセフに言った、「あなたの兄弟たちはシケムで羊を飼っているではないか。さあ、あなたを彼らの所へつかわそう」。ヨセフは父に言った、「はい、行きます」。14父は彼に言った、「どうか、行って、あなたの兄弟たちは無事であるか、また群れは無事であるか見てきて、わたしに知らせてください」。父が彼をヘブロンの谷からつかわしたので、彼はシケムに行った。15ひとりの人が彼に会い、彼が野をさまよっていたので、その人は彼に尋ねて言った、「あなたは何を捜しているのですか」。16彼は言った、「兄弟たちを捜しているのです。彼らが、どこで羊を飼っているのか、どうぞわたしに知らせてください」。17その人は言った、「彼らはここを去りました。彼らが『ドタンへ行こう』と言うのをわたしは聞きました」。そこでヨセフは兄弟たちのあとを追って行って、ドタンで彼らに会った。18ヨセフが彼らに近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そうと計り、19互に言った、「あの夢見る者がやって来る。20さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。21ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取ってはならない」。22ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。23さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、24彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった。
25こうして彼らはすわってパンを食べた。時に彼らが目をあげて見ると、イシマエルびとの隊商が、らくだに香料と、乳香と、もつやくとを負わせてエジプトへ下り行こうとギレアデからやってきた。26そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。27さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。28時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。
創世記37:1-4,12-28
7月から創世記のアブラハムの家族、イサクの家族、ヤコブの家族の歴史を読んできました。37:2に「ヤコブの子孫は次のとおりである」とあり、ヤコブを家長とする一家の物語が述べられます。ヨセフが中心ではありますが、それぞれの視点が複雑に絡み合い、個人の歴史というよりも、全体として神の民イスラエル民族の歴史を伝えています。▼今日は私たちも、①ヤコブ、②ルベンと兄弟たち、そして③ヨセフの立場から、彼らの物語を見てまいります。
試練と神の導き:五十嵐健治さん
ヨセフが神の御心によって苦難に遭い、神の摂理を経験した物語を読んで、白洋舎の創業者の五十嵐健治さんの証しを思い起こしました。▼戦時中、クリスチャン実業家として活躍していた彼に、一つの知らせが届きます。当時の政府が、戦意発揚のために、日本中のキリスト教会に伊勢神宮のお札を飾らせて拝ませることを計画しているという知らせでした。その晩、黙って主の祈りを繰り返す五十嵐さんに奥さんが気付き、五十嵐さんは事情を打ち明けます。

さすがのぬいも顔色を変え、「そんなことになったら……」と言って、じっと何か考えていましたが、やがて顔を上げて私に言った。
「あなたはむろん、拝みませんよね。わたしも、世界を創り給い、すべての国を愛し給う神を信じます」
「では、捕えられてもいいのか」
私は、お札を拝まぬということがどういうことになるのか、ぬいにはわかっているのかと、ふっと不安になったのです。ぬいはにっこり笑って、「よく存じております」と言った。
ぬいの言葉を聞いて、私は涙がこぼれた。キリスト信者は…何とか、まじめに生きようと願っているのに、なぜいつの時代にも迫害されるのか、そう思うと、やっぱり涙が出ましてな。
ぬいは、涙をこぼした私を見て、「マタイ伝の五章を読みましょう」と言った。
マタイ5:10,12「10義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。…12喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
五十嵐さんは、このことのために何とかしようと祈りに祈った時、ふと、彼の家の敷地内に住んでいた武若氏のことを思い出します。武若氏は、当時この計画を進めていた平沼内務大臣の秘書官で、クリスチャンではないけれど五十嵐さんと親しい間柄でした。五十嵐さんは、時勢の難しさと事柄の重大さのために眠れぬ夜を過ごしますが、祈りに祈った末、意を決して行動を起こします。そして、当時の日本キリスト教団議長 小崎道雄牧師と、国会議員の松山常次郎氏、大臣秘書官の武若時一郎氏を家に招きます。
集まった3人のキリスト者は、武若氏に事の重大さを告げますが、武若氏はけろりとして言います。「まあ、『みしるし』ですよ。大したことではありません」。五十嵐氏は心を静めて言いました。
「武若さん、もし教会堂内にお札を掲げたならば、必ずや殉教者が続出しますぞ。もしもその殉教者に息子がいて、戦地でお国のために戦っていたとしたら、自分の親の殉教を、どんな思いで聞くでしょう。軍隊の士気にもかかわることです」
…するとですな、武若氏は、ここで初めて事の重大さに気づいた。武若氏は、私が殉教しかねないことを、私の言葉で悟ったのです。私の息子が幾人も戦地に行っていることを、彼はよくよく知っていたからです。
同席者の言葉も聞いたT氏は、深く頭をさげて自分の不明を詫びて、深い決意を顔に表して退席しました。そして、後日、武若氏からこの計画が取りやめになったその知らせがあったそうです。[①]
戦争という困難な時代に、神の摂理で備えられた武若氏を通して、信仰者の国家的難局を乗り越えた証しに、ヨセフの物語とのつながりを感じます。
1.ヤコブ:神の人の試練と約束
3節でヤコブは「イスラエル」の名で呼ばれます。これは、先週の聖書箇所のペヌエルの渡し場で、神の人と格闘して頂いた、「神と戦う」という意味の名前です。▼「出し抜く者」という意味の名であったヤコブは、自分の力で神の祝福を勝ち取ろうとして、兄エサウから長子の権利を買い、父を騙して祝福を受けました。しかし兄の怒りを避けて逃げた先で、ヤコブ自身が伯父に騙され、二人の姉妹を妻とすることになり、20年間苦役に服しました。
ヤコブが自分の知恵と力によって、神の祝福を獲得しようとした計画は、失敗しました。しかし、ラバンのもとで苦しみを耐え忍んだ20年の間、神の恵みが彼を守り導き、豊かな祝福を受けました。沈黙と服従の期間を通して、神様がヤコブを練り整え、へりくだって神を信頼する者・聖なる者とされました。そして「神と戦い、人と戦って」勝った者・神の祝福を頂いた者として、「イスラエル」の名を頂きました。
「聖なる民」として
ヤコブの生涯は、アブラハム・イサクと同様に、主の約束に導かれ、主の契約に歩み、約束の成就を待ち望む生涯でした。▽主の約束に導かれる生涯とは、悠々自適な安楽な生活とはほど遠いものです。むしろ、飢饉や、しばしば訪れる試練に苦しみ、寄留者として異国人の間を放浪し、ただ神により頼み、主との契約に全身全霊で献身する生活でした。
創世記18:18-19「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。19わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
神様の選びの目的は、「聖なる民」を起こすことであり、彼らを通して救い主が到来することであり、救い主キリストを通して全世界が祝福にあずかることでした。救い主にふさわしい「聖なる民」となることこそ、イスラエルに与えられた祝福の道でした。それは実際には、彼らの弱点や汚点が一つ一つ矯正され・癒され、試練の中で柔和にされ、へりくだらされ、そうしてキリストご自身に似た者となる、長い苦労と忍耐を必要とする歩みでした。
ヨセフの罪
今日の箇所で、ヤコブの家族のいびつな姿が露わにされます。
2 …ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。
ヨセフの人物像にはいろいろな解釈があり、私はヨセフを模範的な信仰的な人物として尊敬してきました。しかし、2節の言葉遣いは、ヨセフが兄弟たちを「中傷した」という言葉遣いです。聖書には兄弟たちの悪行も記されていますが、ヨセフは「事実を告げ口」したというだけでなく、あることないことを告げて「中傷」したようです。憎まれる原因はヨセフ自身の内にありました。

ヤコブの愛情
3 ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。
ここにはヤコブの家庭の状況が深く影響しています。ヤコブは、ラケルを愛しましたが、伯父ラバンの策略でラケルとレアの二人の姉妹と結婚することになり、さらに7年の労働を課せられました。ヤコブは、レアをラケルと同じように愛することはできず、二人の妻の間には激しい嫉妬と競争が生まれました。▽ラケルは長く子が生まれませんでしたが、ようやく生まれた子がヨセフでした。ラケルは後に末子ベニヤミンを生みますが、難産の末にラケルは亡くなります。ヨセフは、愛妻ラケルとの思い出の子どもでもありました。[②]▽そんなヨセフに向けるヤコブの特別な愛情が、目に見える形で表されたのがあや織りの長服でした。
3節冒頭でヤコブが、神と戦う信仰の勇者「イスラエル」と呼ばれていることは、ヤコブの愛情が単なる人間的な偏向だけでなく、ヨセフに対する神の選びを反映していたことを示しているように思います。
平和シャロームの破れ
しかし神の民の原型であるこの家庭には深い闇がありました。
4 兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。
息子たちは、父の愛情をめぐる母同士の死に物狂いの競争を目にして育ち、自分たちとヨセフに対する父親の扱いの違いを感じて、嫉みと嫉妬を自分のうちで膨らませました。女奴隷を母とする息子たちは、正妻の息子であるヨセフとの違いを認めやすかったかもしれません。しかし、レアの息子である兄たちは、ヨセフへの特別待遇によって、彼への憎しみを増し加えました。ヤコブは、長男ルベンの奔放な行動、次男シメオンと三男レビの暴力的な行動を非難しました。このことも、ヨセフへの嫉みを増し加えたかもしれません。▽4節の終わりの「穏やかに語ることができない」とは、「平和に話すことができない」という言葉で、互いの間の平和シャロームが失われていたことを意味しています。
ヨセフの夢
今日の朗読箇所から抜けている5-11節で、ヨセフは2つの夢を見ます。畑で束を束ねていると、ヨセフの束が立ち上がり、兄弟たちの束がヨセフの束を伏し拝みました。別の夢では、兄弟と父母を表す太陽と月と11の星がヨセフを伏し拝みました。これらの夢は、やがてヨセフがエジプトの王に次ぐ権力者となった時に実現します。それが神から出た夢であったことは、後に明らかになりましたが、この時には、どのようにそれが実現するか、誰にも想像できないことでした。
この夢は、おそらく鮮やかなリアリティのある神の知らせだったのでしょう。夢を告げるヨセフの言葉は、ヘブライ語で「見よ」「見よ」「見よ」とその様子が描写されます。その言葉は、まるで自分の見た特別な夢――自分が兄弟たちより優れた地位に着くと言う夢――を、ヨセフが誇示しているように聞こえたのではないでしょうか。ヨセフの兄弟や父母がヨセフに対して膝をかがめて伏し拝むという内容とあいまって、この夢自体によって、兄弟たちはヨセフへの憎しみを深めます。▼8節の兄たちの言葉に、彼らの思いが込められています。「あなたはほんとうにわたしたちの王になるのか。あなたは実際わたしたちを治めるのか[③]」ヨセフが自分たちに対して王のように権威をふるうようになるという夢に対する強い反感が表れています。▽父ヤコブも、兄たちばかりか父と母まで彼を拝むという夢を聞いて、彼を厳しく叱責します。
11 兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。
ここに、練達の信仰の勇士として「神と格闘する者」と呼ばれたイスラエルと、未熟な息子たちの違いが表れます。息子たちは嫉みの感情に任せて神の夢を否定しますが、父ヤコブは神の御心に心を開き、夢が神から来た可能性を心に留めました。ここに、神からのものを性急に判断しない、信仰の知恵と、主を待つ謙遜さがあります。
この後にヨセフの上に起こる出来事は、ヤコブを失意のどん底に落とします。しかし、そのうちにも、神のご計画は確かに動いており、やがてこの夢が実現していきます。▼やがてヨセフはエジプトで王に次ぐ権力者となり、大飢饉の中でヤコブの一家の命が救われ、そればかりかエジプトと周辺地域全体の人々の命が救われ、ヤコブに与えられた約束――「地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう」――が部分的に実現します。[④]▼これが実現する前に、神は試練を通して、ヨセフとヤコブの一家を練り、へりくだらせ、自分の能力や知恵に頼らず、己を誇らず、ただ神により頼み、神にのみ仕え、富を誇らず、神の言葉を恐れ、正義と公正によって人々を裁く者として、練り鍛えられました。▽悪を行った兄弟たちが試練を通して、神を恐れ、神に立ち帰り、神の聖なる民となるのにふさわしくなるように、彼らを練られました。▽ヤコブの生涯は、老年に至っても、失意と苦難と忍耐の連続でした。しかし、神の祝福を求めて「神ご自身と格闘する者=イスラエル」として、彼は絶えず降りかかる試練の中で、神により頼み、神を求め、神にしがみつき続けました。その信仰の忍耐の日々を通して、忍耐は練達を生み、練達は希望を生み、その信仰によって、やがて地域全体を支配するエジプトの王に祝福を与えるまでに練達していきました。
【適用】 「神と格闘した人」イスラエルの歩みを見る時に、私たち自身の歩みはどうでしょうか。ヤコブのように、絶えず降りかかる苦難と試練の中で、落胆し、ため息をついているかもしれません。しかし、私たちが本当に神と格闘して勝利を頂くならば、そのような苦難のただ中にあっても、私たちも「イスラエル」として、神が共にいて下さる勝利者となることができるのです。ヤコブが旅の初めにベテルで神に出会い、約束を与えて下さったように、神様が最初に私たちに出会ってくださったのは、どこだったでしょうか?神様は何と約束して下さったでしょうか。▼神様はヤコブへの約束を、想像をはるかに超えて忠実に実現され、イスラエルは神の前を歩み、神に信頼し・すがり続け、神の真実を経験しました。これが「神と格闘する」クリスチャンの生き方です。▽私たちの苦難と失意のただ中で、己の知恵と力と富にではなく、ただ神に信頼しているでしょうか?神は今、私たちと共におられるでしょうか?主は私に何と言われ、何を期待されているでしょうか?私に与えられた苦難は、私と神との関係に、どんな益をもたらすのでしょうか?「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」のです。

2.ルベンと兄弟たち:企みを砕き、悔い改めへ導く神
ある日、兄たちが遠くの村で羊の世話をしていた時に、事件が起きました。13節でもヤコブは「神と格闘する人」イスラエルの名で呼ばれます。この出来事も、神の御手の中で起こったことがうかがわれます。
14 父は彼に言った、「どうか、行って、あなたの兄弟たちは無事であるか、また群れは無事であるか見てきて、わたしに知らせてください」。父が彼をヘブロンの谷からつかわしたので、彼はシケムに行った。
「無事かどうかを見る」とは、「平安(=シャローム)を見る」という言葉です。平和の失われた家族で、平和を確認しようとする父の姿があります。
神の導き
兄弟たちは、最初にいたシェケムから豊かな牧草地が広がるドタンへと移動しました。ドタンの町は、エジプトとシリア・メソポタミアをつなぐ古代の主要な交易路「海の道(ウィア・マリス)」が通る要衝の町でした。[⑤]こうして、ヨセフがエジプトへ売られる舞台が整います。▽15節でヨセフがシェケムで兄弟たちを探して野をさまよっていると、一人の人に出会い、兄弟たちの移動先を教えられたことにも、神様の導きを感じます。
陰謀
兄弟たちの群れを見つけて近づいていくヨセフに、兄たちはまだ遠いうちに気付きます。父が与えたあの長服を見て彼を見分け、その憎しみをかきたてて、ヨセフを殺そうと企みます。
19 …「あの夢見る者がやって来る。20さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。
「あの夢見る者」とは、「夢見るご主人様」という意味の軽蔑した言葉です。▽創世記でカインとアベルの兄弟殺しが起きた時、殺された者の血は大地から叫び、殺人者は呪われて大地から追放されてさすらい人となりました 。彼らはその大きな罪を繰り返そうとしました。▽「あいつの夢がどうなるのかをみようではないか」とは、神の掟も罪の結果も考えずに、強情に神に逆らう、傲慢で目の見えなくなった罪人の姿です。[⑥]
ルベンのとりなし
しかし、長男ルベンがヨセフを救うために介入します。
21 …ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取ってはならない」。
長男ルベンの「殺すな」という権威ある一言で、兄弟たちはその場で打ち殺すことは思いとどまります。ルベンは続けて、今度は柔らかい言葉遣いで、知恵深く兄弟たちを説得します。[⑦]
22 …ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。
そして、兄弟たちの憎しみを知って、ヨセフを穴に投げ込むように提案します。▽「穴」というのは水溜めに使われた穴で、内側は固められていて中の人が自力で出ることはできません。[⑧]▽しかしそれは、憎しみに燃える兄弟たちの手からヨセフを救い、生きて父のもとに帰すためでした。
【適用】 別の箇所では、奔放さによって非難されるルベンですが、この箇所では彼の小さな配慮の言葉と、知恵ある振る舞いがヨセフを救い出しました。彼の言葉なしには、兄弟たちはヨセフを打ち殺していました。そして、ヨセフを生かしたルベンの言葉によって、神の計画は進んでいきます。▼この場面で、権威ある長男としての責任を果たしたルベンの勇気と知恵深さから学びたいと思います。▽彼は自分の恨みを晴らすためではなく、父への愛のために言葉を語り、責任を果たしました。彼の小さな配慮の一言が、ヨセフを救い、ヨセフを通して飢饉のときに多くの人の命が救われました。同じように、神は私たちの小さな愛の一言を用いられます。▽マザーテレサは、「大きなことを求めないでください。小さなことを、大きな愛をこめてするのです」と教えました。ルベンが長男としての権威を発揮して兄弟たちの暴走を抑え、知恵深い提案でヨセフを救ったように、私たちが自分に与えられた立場や力や愛をもってなすべきことはないでしょうか。勇気を出して言う小さな一言は、場の空気を変える力があるのです。
兄弟たちの暴行
ヨセフが兄のところに来ると、彼らは暴行を加えます。
23 …さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、24彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった
彼らは、あの父の愛の象徴であったあや織りの長服をヨセフから乱暴にはぎ取り[⑨]、彼を捕らえ、水のない穴に投げ込みます。野の水溜の穴に放置されれば、誰にも気づかれることなく、ただ飢えて死ぬのを待つばかりです。▽彼らは後にエジプトの宰相となったヨセフの前に出た時、「あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった」と悔いました[⑩]。ヨセフは兄たちにその過ちを詫び、泣いて憐れみを求めましたが、彼らは憐れみの心を閉ざし、非情にもヨセフに耳を貸しませんでした。▽それどころか、彼らはそのそばに座って食事をしました。彼らはヨセフの嘆願と嘆き、涙とため息を聞いていました。憎しみに燃えていた当時は無感覚でしたが、その光景は兄弟たちの心に焼き付き、繰り返し思い出されました。
【隊商】 そこに、エジプトへ向かう隊商が通りかかったのは、まさしく神の時でした。しかし、当時はヨセフを含めて誰一人、このことのうちに働く神の計画を知ることはできませんでした。私たちは神のご計画に気付けなくても、神はそれを私たちの身の回りで、着実に進めておられます。[⑪]

3.ヨセフ:神の夢と、試練で練られる神の人
今日の記事以降、創世記の主人公となっていくヨセフは、まさに波乱万丈の人生でした。彼は父の寵愛を受けながら、兄弟たちの「悪いうわさ」を伝えて中傷するという彼自身の悪行がありました。しかし、ヨセフが神に選ばれて、神の祝福をもたらす偉大な器として準備されていく過程で、彼は自分の行いの報いを十分に受け、さらに練り清められました。そして奴隷の生活に中でも主が共におられ、ヨセフが行く先々で神は彼を祝福されました。
ヨセフは神に選ばれ、その夢のために、兄弟たちに憎まれ、殺されかけ、先の見えない長い苦しみを受けることになりました。それは、神の選びが苦しみをもたらした実例です。▼しかしその苦しみの中にあって、彼は主が共におられることを経験し、主に信頼することを学び、神に従って自らを清く保つことを学びました。自分の力ではどうしようもない境遇の中で、神に信頼し、神の知恵と導きによって、奴隷の身分からエジプトの宰相にまで上り詰めました。神はヨセフを通して、当時の世界的な飢饉の中で神の民イスラエルの一族を救い、エジプトや地域全体の人々がヨセフを通して祝福を受けました。こうしてヤコブに与えられた神の約束が部分的に実現します。
ヨセフの姿は、その罪は別にして、神の選びのために迫害に遭い、殺されかけた姿に、新約聖書の救い主・イエス・キリストの姿が重なります。主イエスご自身も幼い頃にヘロデ大王の迫害を逃れてエジプトに逃れました。また、主イエスも受難の前に裏切られ、金で売られました。▽主イエスご自身も、苦難を通して信頼を学び、柔和と謙遜を身につけられました。▽この主イエスを通してこそ、「イスラエルの子孫を通して全世界が祝福を受ける」という約束は完全に成就します。
私たちもヨセフやキリストと共に、神の御手に委ねることを学んでまいりましょう。自分の計画を越えて、神がご計画をなして下さることに信頼しましょう。神の摂理は、すでに私たちの周りで働いています。私たちが祈る時に、神に信頼することができます。どんな人間の悪意も企みも、神の働きを妨げることはできません。神のご計画の成就を遅らせるのは、私たちの罪です。私たちを罪から清め、祝福の器とするために、神は苦難を与えて謙遜を学ばせ、神への柔和な従順を身につけさせます。謙遜と柔和さを身に着けるとき、キリストご自身の平和と祝福を経験します。
マタイ11:28-30 「28すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
そして主は、時にかなってすべての悪を善に代えて下さり、敵の傲慢を取り去り、悪意を覆し、敵がなしたすべての悪を善へと変えて下さいます。キリストにあって、十字架が栄光となったように、私たちにも苦難を越えて、キリスト共なる栄光へと召してくださいます。
ローマ8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

[①] 三浦綾子「夕あり朝あり」《試練》
[②] 創世記29:31-30:24、35:16-20
[③] ヘブライ語では反復して強調する表現で、字面の通り訳すと「王となり、王となるのか。支配し、支配するのか」のような文章である。
[④] 創世記28:14
[⑤] https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィア・マリス
[⑥] おそらく年長者が大きな責任を負うと考えられ、長男ルベンがヨセフの命を救ったことを考えると、次男シメオンと三男レビに、企みについての大きな責任があったと考えられる。これは、後にエジプトでヨセフがシメオンを捕らえたことに反映される。(創世記42:24参照)
[⑦] 21節の「打ち殺してはならない」は、強い絶対的な否定命令である。「救い出そうとして」は、直訳すると「救い出して」である。長男ルベンの権威ある力強い言葉が、年下の兄弟たちを思いとどまらせた。一方、22節は、絶対的否定ではなく拘束力の弱い命令形が使われており、激高する兄弟たちからヨセフの命を助けようとする配慮が表れている。参照:Gordon J. Wenham, GENESIS 16–50 Volume 2, Word Biblical Commentary. 37:22注解
[⑧] イスラエルでは水溜の穴が牢屋として用いられ、エレミヤもこのような穴に監禁された。
[⑨] 「はぎ取る」は、動物の皮をはぐ時に用いられる言葉で、兄弟たちの乱暴さを表している。
[⑩] 創世記42:21
[⑪] ユダがヨセフを奴隷として売る提案をしたのは、殺人よりはましという考えはあったにせよ、ヨセフのためではなく、利得を求める冷酷な打算であり、後代には死刑に当たる重罪であった。