箴言16:31「年を重ねることの尊さ」

2025年9月14日(日) 礼拝メッセージ

聖書 箴言16:31、テトス2:1-5
説教 「年を重ねることの尊さ」
メッセージ 堀部 里子 牧師

しらがは栄えの冠である、正しく生きることによってそれが得られる。

箴言16:31

2老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、3年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。4そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、5慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。

テトス2:2-5

若い人の栄えはその力、老人の美しさはそのしらがである。

箴言20:29

おはようございます。今日は敬老の日祝福礼拝です。人生の先輩方のご存在に心から感謝いたします。「年をとってもう多くはできないから私のことは気にしないでください」など決しておっしゃらないで、益々存在感を増してこられる円熟期を共に歩ませていただきたいです。

「FOOTPRINTS・足跡」

メッセージ前に、特別賛美「Footprints(足跡)」を捧げましたが、もう一度歌詞を見てみたいと思います。

主と私で歩いてきたこの道 足跡は二人分
でもいつの間にか一人分だけ 消えてなくなっていた
主よ あなたはどこへ 行ってしまったのですか
わたしはここにいる あなたをおぶって 歩いて来たのだ
あなたは何も恐れなくてよい わたしが共にいるから

Footprints(足跡)

この歌は、私たちの人生の歩みの中で、苦しみや困難のときにも、神様が共にいてくださり、私たちを背負ってくださったことを思い起こさせてくれます。今日に至るまで、配偶者や子どもたちや孫たち、ご友人や教会の兄弟姉妹と共に道を歩んで来られたと思います。誰かの人生を共に背負うこともあったでしょう。反対に誰かに背負ってもらうこともあったと思います。また歌の歌詞のように「主よあなたはどこに行ってしまったのですか」と叫ぶこともあったでしょう。その叫びに主はどのように答えてくださったでしょうか。特に、人生の長い道のりを歩んで来られた方々にとっては、正にその歩みが「信仰の人生の足跡」であり、神様が共におられた証拠でもあります。歩みが長ければ長いほど、自分自身が気付いていなかった時も、神様が共に歩んでくださっている時間が長いのです。今日、私たちは年配の方々の人生の歩み、信仰の足跡に感謝をいたします。その歩みを通して見えてくる神の恵みと導きに心から主を崇めます。

白髪の恵み

先週、後輩夫妻を訪問しました。卒業して会うことがほとんどなく、約20年ぶりの再会でした。近況を報告し合い、最後に一緒に聖餐式に与ったのですが、後輩の奥さんが私に「里子先生、本当に牧師になったんだねぇ」としみじみ言われました。私も後輩夫婦と共に過ごした時間を思い出しながら、また再会の恵みに感謝しました。「この20年、山あり谷ありであっただろうけど、イエス様と三人四脚で歩んで来たんだなぁ」と喜びが溢れて来ました。後輩夫婦の中心に確かにキリストがおられました。お互いに年を重ねて白髪もありますが、それぞれに主の導きの道のりがありました。

白髪は尊厳

「若い人の栄えはその力、老人の美しさはそのしらがである。」(箴言20:29)今日の聖書の箇所とは別の箴言に、「老人の美しさはそのしらが」とあります。白髪が単にキラッと光る物理的な輝きではなく、白髪が象徴するもの、つまり老年期にしかない生命の魅力が、神の定めた秩序の中で美しいものとして備えられているのだと思います。

若い時は力とエネルギーに満ちあふれています。しかし、その力も年齢と共に落ちていきます。世の中にはアンチエイジングための言葉や商品が溢れています。「若くなきゃ」という見えないプレッシャーが押し寄せてくるかもしれません。しかし聖書は、老人の白髪は若者の力強さと並んで、輝きとされているのです。他の訳では「尊厳」です。白髪は医学的には、老化現象かもしれません。しかし聖書では、それは名誉と栄光の象徴なのだと語っています。年と共に白髪が増えていくことは神の恵みですね。

白髪は冠

「しらがは栄えの冠である、正しく生きることによってそれが得られる。」(箴言16:31) 正義の道=神に従う人生を歩んだ結果。

年を重ねることは、単なる加齢のしるしでなく「神に従って歩んだ人生の冠」なのです。また、年を重ねた者への「他者が敬意をもって接するべき存在」でもあります。年を重ねてなお、神に従う人生が如何に尊いものであるか!年を重ねることは決して劣ったことではなく、神の計画と秩序の中にあり、神様が定めた齢を全うするために、神の前において尊いものです。私は白髪を見つけるとすぐに抜きたくなるのですが、聖書を読むと本当は抜かなくてよいかもしれませんね(笑)

これからも、その「白髪の冠」が私たちの教会を祝福し、若い世代に信仰のバトンをつなぐ道しるべとなるよう祈ります。

では、今日のもう一ヶ所の聖書箇所であるテトス書を紐解きたいと思います。

テトスはどんな人か

テトスはどんな人物なのでしょうか。

①若い異邦人キリスト者

テトスはギリシャ人で、ギリシャと小アジアでパウロと共に働いた同労者でした。

②パウロの弟子

割礼は受けていませんでしたが、パウロが直接信仰へ導き、深い師弟関係にあったと思われます。「信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ。」(テトス1:4)と呼ばれるほどパウロから信頼されていました。

③教会の問題解決のために派遣された

パウロはテトスを分裂と混乱のあったコリント教会に送り込み、問題解決に当たらせました。人格も優れていて、対応力もあったということでしょう。それだけでなく、パウロはテトスをクレタ島に派遣します。「あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない」(テトス1:5)と。

当時、クレタ人は嘘つきで怠け者であると言われていました(テトス1:12)。また、教会には偽教師が入り込んでおり、彼らは健全な教えに反抗的であり、人々を騙し教会を惑わしていました。また真理に背を向けている人たちのむなしい言葉に心を奪われないように、パウロはテトスに「健全な教え」によって教会を建て直すようにと命じました。

会社や企業の立て直しのためにコンサルタントが入ることがありますが、コンサルタントの役割は課題を明らかにし、解決策を提案すること、そして一緒に考えながら会社全体のパフォーマンスを最大限に引き出すことです。パウロは教会の霊的コンサルタントの親元のようにテトスをクレタ島へと派遣したのです。

教会の様々な人たち

教会の中には様々な立場と年齢の人たちがいました。今朝の礼拝には感謝なことに20代~90代の方が礼拝出席されています。教会は様々な立場の人たちが違いを超えて集まることのできる場所です。しかし、違いがあるということは国際交流や異文化交流と同じです。お互いに神が共に集められたということをしっかり認識し、「神の文化」を取り入れることが重要になります。

パウロはテトスに手紙を書き、年配の男の人、年配の女の人、若い人、若い女の人、奴隷などそれぞれの人に合わせて助言をし、教えるように勧めました。皆さん、自分より年若い人から教えられることはどうでしょうか。時にはイラっとくることもないでしょうか。若い者にとって年上の方に、自分の考えを言い辛いこともあります。でもこの人は意見が違っても、聞いてくださると思ったら、年齢は関係なく意見交換ができるときは共に世界が拡がります。

健康(健全)であること

「1しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。2老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、3年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。4そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、5慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。」(テトス2:1-5)

 さて、パウロはテトスに「しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい」と教えました。「健全な」という言葉には「健康な」という意味も含まれています。健康であることは誰でも望むことだと思います。特に年を重ねていくと「健康」が大切になります。「健康」とは、身体や心の状態が良好で病気が異常がないことを指しますが、「健全」と身体や心に限らず、社会や会社など対象が更に広く用いられる言葉です。私は健康・健全であることには、正しさとバランスが含まれると思います。歪みや不正、隔たりがなく、バランスが取れている正しい状態です。間違った教えを実践するとかえって不健康になることもあります。偽りの教えを封じ込めることも有益ですが、健全な教えを語ることの方がもっと積極的で前向きです。

「健全な」と訳された言葉には他に「完全な」という意味があります。つまり「健全な教え」とは、霊的に健康で、腐敗していなく、真理に基づいている教えを意味します。それは、単なる知識でなく、実際の信仰生活と品性に変化をもたらす教えのことです。1:13「…だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし」とありますが、信仰を健全にするためには、テトスは自分より年上の人たちに語らなければなりませんでした。しかも、必要な実際的な教えを正しく教える必要がありました。「年配の男の人」とは年齢的に年配でも信仰歴の長い人で、教会における模範的存在です。若いテトスにとっては言いにくいことであったかもしれません。

決まりやルールに対する姿勢

8月から北区の社会福祉協議会が運営する「ボランティアサービス」のサポートスタッフに登録して週に一回活動をしています。去年、三丁目の部長の役割が終わったので、更に地域との繋がりという意味で始めました。主に高齢の方の買い物代行や部屋のお掃除をしています。先日、ある方の病院への付き添いをお願いされました。私は診察室には入らず待合室で待っていました。すると診察を終えて出てこられたその方がおっしゃいました。「自分一人では聞きもらすこともあるから一緒に聞いて欲しいんだよ」と。でもサポートスタッフができないことの項目に、「診察室に入らないこと」が記載されています。決まりなので、丁寧にそれはできないことをお伝えしましたが、がっかりされた顔を見て心が痛みました。この支援をお願いする方の条件は、自分で歩行できコミュニケーションが取れることになっています。改めて年配の方に規則だからと教えることは難しいと思わされました。もちろん例外はいつでもありますが、最初が肝心で、基本の線からはズレないことが大切だと思います。

別の例ですが、ある時、クリスチャンの年配の方に「これはどうでしょうか」と意見させていただいたことがありました。するとその方はすぐに「申し訳ありません。そのつもりはなかったですが、そう見えたとしたら謝ります。」とおっしゃったのです。私の方が恐縮しました。慎み深く、謙遜で品位のある姿勢に、この方の信仰のあり方を見せられた思いがしました。よく年を重ねると赤ちゃんに戻るという言葉も聞きますが、年を取るほど、信仰と愛と忍耐において更に健全に導かれる道を進むことの大切さを教えられました。忍耐は希望に繋がります。

テトス書では、年配の男の人に、「自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように」と勧めます。

また年配の女性に対しても基本的には男性たちと同じですが、特別なことは「たち居ふるまいをうやうやしくし」と最初に語られています。ふさわしくふるまうことの第一番目は「人をそしらない」ことです。つまり「悪口を慎むこと」です。女性の方がおしゃべりで言葉数が多い傾向があります。徳を高める言葉を発することを私も年を重ねていく女性として、自戒の意味も込めてお伝えしたいと思います。他人を評価したり高ぶったりせず、若い女性の模範となることができるように良い経験を積み上げて生きたいと思います。それは「神の言がそしりを受けないようになる」ためだと。「そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、5慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。」(テトス2:4-5)

「あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。」

どうぞ、今まで受けて来られた恵みの数々、また神の言葉に従う喜びや困難の数々、証しを子どもたちや孫たち、また教会の次の世代の者たちに語り伝えていただきたいと願います。

皆私たちは年を取って行きます。今日の御言葉は、テトスが特定のクレタ島の教会の人たちにパウロの指導を受けて語るようにと伝えられた言葉ですが、どの年代の人にも心に刺さる言葉ではないでしょうか。「健全な教え」の中心は、「神の言葉」であることを心に深く留めたいと思います。ますます神様の望む姿につくり変えられて行けたら感謝です。共に「キリストの似姿」を現わして参りましょう。白髪の冠と共に、最後には義の冠を主からいただきたいと思います。

「5しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。6わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。7わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。8今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」(Ⅱテモテ4:5-8)