出エジプト16:1-15「一日一日、主により頼む」

2025年10月5日(日) 礼拝メッセージ

聖書 出エジプト16:1-15
説教 「一日一日、主により頼む」
メッセージ 堀部 舜 牧師

1イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、2その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。3イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。

4そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。5六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。

6モーセとアロンは、イスラエルのすべての人々に言った、「夕暮には、あなたがたは、エジプトの地からあなたがたを導き出されたのが、主であることを知るであろう。7また、朝には、あなたがたは主の栄光を見るであろう。主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである。あなたがたは、いったいわれわれを何者として、われわれにむかってつぶやくのか」。8モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。

9モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。10それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。11主はモーセに言われた、12「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。 13夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。14その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。15イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。」

出エジプト16:1-15

日々の糧を備えて下さる神

今日の聖書は、出エジプトで荒野を旅した民が、荒野で日々神様から食料を頂いた「マナ」のエピソードです。神様が日々生きる糧を与えて下さるということが、現実に起こるということに、私自身、大変励まされてきました。

【カニンガム】 私がクリスチャンになって2-3年の頃、「絶壁に立つ勇気」という本を紹介されて読みました。アメリカ出身でアフリカへの宣教師であり、Youth with a Mission YWAMという全世界的な宣教団体を設立したローレン・カニンガムが書いた本でした。私は彼の素晴らしい証しを読んで、神様が必要を満たして下さること、神様がすべてを支配しておられて、実際にそのようなことが起こるのだということを知りました。

【マザー・テレサ】 マザーテレサにも、こんな証しがあります。

2万人の人々に食事を提供していたマザー・テレサに、報告がありました。「マザー、金曜日と土曜日の分のお米がありません。」そんな時、マザーはいつも神を信頼して祈りました。「二日分のお米がなければ、大勢の人々がお腹を空かせてしまいます。今、飢えて動けない人もいます。…どうか貧しい人々に必要な食べ物をお与えください」

金曜日の朝九時、何千個ものパンを積んだトラックが予告もなしにやってきました。その日、政府の意向で学校が休校になり、学校に配られるはずのパンが、すべてマザーたちのもとへ運ばれてきたのでした。

【ジョージ・ミュラー】19世紀の英国で、1万人の孤児を育てたジョージ・ミュラーは、信仰によって孤児院を運営しましたが、食事を欠くことは一度もありませんでした。

ある朝、300人の子どもたちに食べさせる食事がありませんでした。しかし、ミュラーは子供たちを食卓に着かせて祈りました。「愛する父よ、あなたが私たちに食べ物を与えてくださることに感謝します。」すると、ドアを叩く音がして、パン屋がパンを届けてくれました。パン屋は、孤児たちのためにパンを焼くことを神が望んでいると確信して、眠れなかったのでした。すぐに、別のノックが聞こえ、牛乳配達の人でした。孤児院の外で牛乳配達の車が故障したので、孤児のために牛乳を差し入れたのでした。

いずれの逸話も、神が今も私たちの日々の必要を満たして下さることを教えています。

聖書の背景

先々週の礼拝から出エジプト記に入り、先週は過越の出来事でした。主はエジプトに10の災いをくだして、イスラエルの民をエジプトから導き出されます。激しい災害に苦しんだエジプトは、イスラエルの民を出て行かせます。しかし、膨大な奴隷を失ったエジプトは、災害からひと息つくと、思い直して軍勢を率いてイスラエルを追跡します。イスラエルは、主の命令によって海を背にして宿営していたところを、エジプトの軍勢に追われ、逃げ場のない絶対絶命の危機に陥ります。その時、主の命令でモーセが杖を指し伸ばすと、海が二つに分かれて渇いた地面が現れ、イスラエルの民はそこを渡っていきます。神の使いがイスラエルの後ろを守り、真っ暗な雲がイスラエルとエジプトの間を隔てました。そして、エジプトが海の道に入ると、主が彼らを混乱させ、海の水を元に戻して、エジプトの軍勢を滅ぼされました。▼エジプトの10の災いでも、海を分ける奇跡でも、主はあえてイスラエルを危機の中に置いて、ご自分に信頼することを民に教えて、力ある奇跡によって、ご自分が生きて働く神であることを示されました。

この後イスラエルは荒野を進んでいきます。モーセが主に出会ったシナイ山に向かい、そこから約束の地・アブラハム・イサク・ヤコブが住んだカナンに向かいます。▼荒野の旅で、神様が備えて下さった食べ物がマナでした。

Pita bread, photo by Satdeep Gill, from wikimedia commons, CC BY-SA 4.0

1.毎日、その日の分を

4 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。

【マナ】 マナについて、少し補足をしておきたいと思います。学者たちによれば、アブラムシの仲間が、この地域に多いギョリュウ科の植物の実から汁を吸って、薄黄色で甘い薄片か球状の分泌物を出すそうです。日中には溶け、寒い時には固まり、人々は今でもそれを集めてパンのように焼いて食べるそうです。そしてこのパンは、聖書にあるように、すぐに腐って蟻が寄ってくるといいます。また、アフリカや地中海からこの地域にわたってくる渡り鳥は、疲れ果てていて、しばしば手でつかめることがあるそうです。[1]▼非常によく似た現象ですので、主がこうした自然の営みを用いられたのではないかと思います。膨大なイスラエル人が荒野で40年間支えられたの、奇跡によることでした。▼マナの味が「蜜を入れた薄焼きパンのようであった」と言われているのは、砂糖がなく蜜が高価だった時代に、最高の味であったことを意味しています。

【主の試み】 民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。」16章の後半では、このマナを集める時のことが記されています。▽マナは、日が昇って暑くなると溶けてしまい、その日に集めた分は、その日に食べなければ腐ってしまいました。マナの供給は、次の日に持ち越すことはできず、一日一日、その日の食べ物を神様により頼むことを学びました。▽安息日には、食べ物を集めに行くことが許されなかったので、前の日に2日分を集めて保存するよう命じられました。安息日には保存しても腐らず、また、安息日に集めに出てもマナはありませんでした。こうして人々は、自分勝手な時に働くのではなく、神様の命令に従って、働き、あるいは安息するという規則とリズムを身に着けていきました。

マナの供給は、イスラエル人が荒野を旅した間、最終的に約40年間続きました。40年後、イスラエルが約束の地カナンを前にして、モーセはこの教えを繰り返しました。

申命記8:2-5「2あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。3それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。4この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。5あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。」

【適用】 私は、クリスチャンになって1年から3年くらいの頃、仕事でも教会でも、いろいろ頑張るけれども、なかなか実が結ばない、神様の祝福を祈るけれども、それがなかなか成果として現れて来ないことにじりじりする思いがありました。神様が必要を満たして下さる祈りの結果を経験したのですが、あまりにも遅い。「なんでなんだろう」ともどかしく神様に訴え続けた時がありました。それは、目に見えるモノや人に頼らないことを学ぶ、神様からの訓練であることが、次第にわかってきました。▼その中で、経済的な事柄は、私たちの実際の生活を支えているもので、お金のことで神様に信頼していくことは、私たちの信仰が現実の生活に根を下ろしていく上で、非常に重要であることが分かりました。逆に言えば、その面で何度も試みられたということでもあります。▼経済的な面で神様の供給に頼る時、神様の方法は、その時その時、必要な分を満たして下さることによって、私たちが主に信頼するように訓練されるのだと学びました。一日一日を神様に信頼して、捧げて仕えていく時に、有り余る富で「余裕ができた」と安心して富に信頼を置くことを、神様は願われません。富によって自分を誇ることを喜ばれません。むしろ、一日一日、神様に信頼することを学ばせて頂きました。そのために、まずむしろ多くのものを手放していく必要がありました。それが、神様だけに信頼する者となるために、必要なプロセスでした。

箴言30:8-9「8…貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。9飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。」

神様に頼らなければ物質的な補償がないという状況は、初めは不安を感じましたが、しかし次第に、何かがあっても神様からの支えがあることを経験していきました。日々の必要に迫られて、神様により頼んで祈る時に、神様とのより親しい交わりを経験しました。そして、必要な時には神様が必ず満たして下さることを繰り返し経験するうちに、今与えられているもので満足し、安息することを学ばせて頂くようになりました。

【新約】私たちは、主の祈りで「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ります。それは、「今日を生きる糧を、今日与えて下さい」という、荒野のマナの供給に由来する祈りではないかと思います。▼現代の日本では、多くの人は日ごとではなく月ごとの収入があり、日ごとの食べ物に事欠くことはないと思いますが、その心は、一日一日、神様の供給に信頼して、感謝して生きるのです。

2.民の不平

神様が訓練しようとされた神の民の性質は、どんなものだったでしょうか。

エジプトを出て1ヶ月が過ぎた時、食糧が底を尽き、「全会衆」がモーセの前に集まりました。▼彼らは、歴史に刻まれる主の力強い御業を、過去数カ月にわたって、繰り返し見ていました。▽主は、彼らを苦しめるエジプトを10の災いによって打たれ、/彼らはエジプトでの強制労働から解放され、/荒野では主の臨在が昼は雲の柱、夜は火の柱として導かれ、/エジプト軍に追われたイスラエルの前で海を分け、エジプト軍を海に沈め、/水のない荒野で飲み水を与えて下さいました。▽奇跡に次ぐ奇跡を見てきた神の民が、荒野で食料がなくなった時、全会衆が集まって主に祈り求めたら、どんなに良かったでしょうか。しかし、人びとの口から出たのは不平の言葉でした。

3イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。

イスラエルの民は、荒野を旅した間中、絶えず主に不平不満を言いました。その不平と不従順によって、彼らは自ら約束の地カナンに入ることを許されず、その子どもたちが入ることになります。主を怒らせた不平不満は、どのような心から出ていたのでしょうか?彼らは確かに食料のない命がけの危機にありましたが、苦しみだけに心を奪われています。

①【忘恩】第一に、彼らは、主が彼らのためにして下さった御業を忘れています。▼彼らは、エジプトの地で、肉鍋のそばに座って、パンに満ち足りていたのでしょうか?食料はあったでしょうが、エジプトの苦役に苦しみ、うめいていた彼らの叫びを聞いて、主がそこから救い出して下さったのです。彼らはエジプトでの苦しみを忘れ、エジプトを美化しています。▼彼らの目は苦しみばかりに目がいき、まるで主が彼らを苦しめるためにエジプトを連れ出したと言わんばかりです。苦しんでいた彼らのために主がして下さったことを、忘れてしまっているのです。確かに出エジプトには多くの戦いがありました。▽モーセがファラオと交渉すると、ファラオはイスラエル人の労働を過酷にして苦しめました。しかし、主はエジプトから解放されたことを、彼らは忘れていました。▽ファラオが追撃してきたとき、主が海を分けて救われた主の力も、イスラエル人は忘れてしまっています。▽荒野で飲み水がなかった時、主の教えに従って木を投げ込むと、飲める水に変わった奇跡も彼らは忘れてしまいました。▼主は彼らを絶えず御心に留めて、様々な危機から救い出してくださったのですが、苦しみにあうたびに彼らはそのことを思い返さず、苦しみばかりを思い起こしました。救い出して下さった主の前で、「エジプトで主に殺されていた方が良かった」などとは、言ってはならない言葉でした。

【適用】私たちも、苦しみに遭う時、目の前の苦しみばかりがクローズアップされ、これまでの救いや神の慈しみを忘れてしまうことがあります。▽神の恵みを絶えず思い起こすことは、神の民の務めです。そのようにして、絶えず神に支えられ救い出されて生きるのです。

②【不信仰】第二に、彼らの不平はまるで主がいないかのようで、主への信頼は全くありません。▼力をもってエジプトのファラオから救い、海を分け、飲み水を与えた全能の神への信頼がありません。▼新約聖書で立派な信仰と言われた百人隊長は、「ただ、お言葉を下さい」と言って自分の願いを告げ、主イエスが語られるならば、その通りになると信頼しました[2]。それとは対照的に、今日の箇所のイスラエル人の不平には、食物を与えることのできる神様への信頼はかけらもありません。▼「海を分けた力によって、食物をお与えください。」「水を飲めるようにされたように、食物を備えて下さい。」「10の災いをもたらしたように、自然を治める力によって食物を与えて下さい」と祈りませんでした。これほどの力ある業を見てきたにもかかわらず、神が荒野で食物を備えられると信じず、祈り求めませんでした。ここに、彼らの不信仰があります。

彼らはなぜ、このような不信仰に陥ったのでしょうか?

①【貪欲】一つは、彼らの貪欲があります。彼らは単に食料がないことを嘆いたのではありません。確かに食料はなくなりつつありましたが、それだけではなく、彼らは生きるのに必要な食物では満足していません。彼らは、豪華な肉鍋のもとで安逸をむさぼることを願いました。それは、後の彼らの姿で明らかです。彼らは後に、「激しい欲望にかられ」、「大声で泣いて」言いました。

民数記11:4-6「4…ああ、肉が食べたい。5われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。6しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。

主は彼らの欲望のゆえに、非常に激しい疫病で彼らを打たれました[3]

ヤコブ1:15「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」

与えられているもので満足しない欲望が、感謝を失わせ、神への信頼を失わせ、人への不満、神への不満を生みました。その根は、満ち足りることを知らない心にあります。

②【神に聞かない】 彼らが不信仰に陥ったもう一つの理由は、自分で神の御言葉に聞こうとしないことにありました。出エジプト16:3でイスラエル人はモーセに「あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して…」と言います。彼らにとって、荒野に導き出したのは、主ではなく人間でした。彼らは主の言葉を聞いて従ったのではなく、人間の言葉を聞いて従って来たにすぎませんでした。モーセから聞いた言葉を、神の言葉として聞いて、神に心を結び、神に焦点を合わせてはいませんでした。だから、困ったときにはモーセを責めました。自分で神の言葉を聞いて判断しないので、自分で責任を負うことはなく、ただ人を責めるだけでした。▼彼らは、自ら神の御声を聞いて判断したのではなく、神に祈りもしなかったのです。

【適用】イスラエル人の不信仰の姿は、現代のクリスチャンにとっても警告となっています。(1)私たちの内に、「神がして下さった」という感謝があるでしょうか。自分がなしたという自負や、「あの人が、この人が」という思いは、神への感謝に包み込まれなければなりません。そのためには、祈りと御言葉によって進まなければなりません。▼どんな人間も、――ファラオのような暴君さえも、神への感謝と讃美を止めることはできません。▼「何でこうならないのか」「こんなことで大丈夫なのか」といった怒りや不安によって、神への感謝が薄れてしまうなら、私たちが主の臨在の道から、足を踏み外し始めているサインです。

(2)私たちは、不安に駆られて、必死で行動する前に、神様に信頼しているでしょうか?神様の存在は、私たちにとって、問題よりも大きいでしょうか?「神様に頼って、今まで何とかなったのだから、今回も何とかなる」という神様への信頼があるでしょうか?そうであれば、不平不満はむしろ祈りに代わっていきます。

16:12  「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。

【適用】主は、民の不平に耳を傾け、それに答えて下さり、満ち足りるまでマナと肉を与えて下さり、ご自分が「」、すなわち、共におられる神であることを示されました。主は、彼らが教えに従うかどうかを試し、日々主に信頼するように訓練されました。▼彼らが苦しみを通されたように、私たちも、苦しみを通して、日々主に信頼する者へと造り変えられます。主にコミットして、主に信頼を置くことこそ、日々続く苦しみの中で、主の安息を見出す秘訣であり、それこそ神が私たちに願っておられることです。

3.天からのパン

16:4に「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。」とあります。新約聖書で、主イエスはヨハネ6章で、この言葉をご自分に当てはめられました。

ヨハネ6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」

ヨハネ6:48-51 「48わたしは命のパンである。49あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。50しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。51わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

主イエスこそ、命のパンです。主イエスは、①自ら生きておられるから、「生きたパン」であられます。そして、②パンが裂かれて食べられるように、十字架でご自分の命を与えられました。そして、それによって③主は命を与える方=「命のパン」であります。▼ヨハネ福音書6章は聖餐式を暗示していますが、聖餐式のパンは、十字架で裂かれた主イエスの肉体を表し、その恵みに与かることです。私たちがそのパンを食べる時、主が私たちと共におられるのです。私たちは、毎週聖餐を受けるのではなく、毎日が礼拝式に参列するのではありませんが、礼拝を守り、日々御言葉を読み、祈り、毎日を主のみ前に過ごし、主と共に、主のみ前に歩ませて頂き、主の命に与からせて頂きましょう。

主は、ご自分の命をも私たちに下さいました。そうであるならば、私たちに必要なすべてのものを惜しみなく与えて下さいます。そして、最も大切なもの、主イエスご自身が、私たちの内に住んでくださいます。命のパンである主イエスを内に頂いて歩んでまいりましょう。

 


[1] T.E. フレットハイム, 出エジプト記, 現代聖書注解.p270-271、Douglas K. Stuart, Exodus, New American Commentary. 16:14–15a、https://www.newworldencyclopedia.org/entry/Manna、https://www.holyobserver.com/detail.php?isu=v01i05&art=manna

[2] マタイ8:5-13

[3] 民数記11章