伝道者4:9-12「愛され、祈られて育つ命」
2025年11月23日(日) 礼拝メッセージ
聖書 伝道者の書4:9-12、Ⅰサムエル1:27-28
説教 「愛され、祈られて育つ命」
メッセージ 堀部 里子 牧師

9ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。10すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。11またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。12人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。
伝道者の書4:9-12
27「この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。28それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです」。
Ⅰサムエル記1:27-28
そして彼らはそこで主を礼拝した。
おはようございます。今日は2家族の献児式があり、礼拝には3家族が参加してくださっています。遠くからようこそいらっしゃいました。心から歓迎いたします!お子さまが与えられて、二人から三人家族になられました。
共に生きる
今朝開かれた聖書では「共に生きる」ことがテーマになっています。家族が増えて行くことは祝福です。決して独身であることや、人が一人で生活をすることを否定しているのはありません。先週の金曜日に、茨城県にお住まいのS姉のお母さんのMさんが洗礼を受けられました。93歳です。洗礼式には、近くの教会の牧師夫妻も立ち会ってくださいました。その教会のシルバーお食事会に出席されていたことがあるそうです。洗礼式を終えて、奥さま先生がM姉に、「Mさん、神の家族になりましたね!」と声をかけてくださいました。するとMさんがにっこり微笑んで「ありがとうございます。これからよろしくお願いします。」とはっきりとした声で答えられました。教会の別名は「神の家族」です。共に生きることで何が祝福なのでしょうか。三つ挙げたいと思います。
1.良い報いがある
一つ目は、「良い報い」があるということです。「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。」(伝道者の書4:9)
報いという言葉は、ヘブライ語でサハルという言葉で、労働に対する正当な給与や代価を指します。一人で働いて得る代価より、二人で働いて得る代価は二人分ですから多くなります。伝道者の書に「人は労苦して何の益になろうか」という質問がありますが、その質問に対する答えにもなっています。私は牧師の夫と結婚したことで、一人でしていた仕事を分担できることがとても良いと思っています。私はコンピューターなど電子機器には疎い人間ですが、夫は得意分野です。二人で働くことで仕事の成功率が高まったと感じています。教会員のT姉にも「先生、一人でしないでみんなでしましょう」と何回か言われました。何でも一人でしていたのですが、一緒に働く報いは倍の喜びがあります。
2.失敗に打ち勝つ力
二つ目は、「失敗に勝つ力」です。「すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである」(10)。人生に挫折したり、失敗したりするとき、仲間の助けによってもう一度立ち上がることができるということです。
子どもたちのためのイベントを年に何回か開催していますが、そこで子どもたちの関係性を見ることができます。何度か顔を合わせている内に仲間意識が出てくるのだと思います。年上の子どもが年下の子どもを助けてあげる場面を何度か遭遇しました。小さな子どもが工作をして、うまく行かないことがありました。周りの子どもは上手にできているように思えたのでしょう。もうやりたくないと泣きそうになってしまいました。すると、年上の子がそっと横に来て「一緒にやってみよう」と声をかけたのです。出来上がった作品を私に二人で見せにきたとき、二人の顔はとても嬉しそうでした。自分より小さな子どものことを気に掛ける心に感動しましたし、もう失敗したから嫌だと投げ出そうとしたにも関わらず、助けを得てもう一度挑戦する子どもの柔軟性にも感動しました。子どもたちの成長をイベント毎に見ることも喜びです。
「またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか」(11)。人が触れ合う中で、お互いの温かさを感じることができます。昨日、近所の一人暮らしの方がお菓子を持って来られました。なぜだろうと思ったら、約一年前にその方がぎっくり腰になった時、町内会の組長の役割ができなくなったため助けていただきたいと電話をいただき、代わりにしたことがありました。「元気になって旅行に行けるまでになりました」とお土産を持って来られたのです。私は自分ができることをしただけで、忘れていたのですが、新たな交流に心温まりました。一人では得られない温かさではないでしょうか。

3.勝利する力
三つ目は、「勝利する力」です。「人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない」(12)。打ち負かされるとありますので、戦いなどの危機のときが想定されます。一人では戦いに負けてしまうような状況でも、仲間がいることで勇気を得て、戦えるということです。例えですが、一本の糸では耐えられない重さも、三本だと持ちこたえることができるのです。
私の弟は独身の時は、自由気ままに自分のために生きていましたが、結婚して子どもが与えられると、すっかり価値観が変化したようです。落ち着いて家族のため、子どものために一生懸命働き、奥さんと子どもたちからは「お父さんを誇りに思う」と言われるまでになりました。弟は私の目から見て、一本の糸の時は、紐のついていない凧のように、自由奔放に人生を謳歌しており、大変なことも多くあったのですが、家族という仲間を得て、とても強く逞しい父親になりました。大切な家族を守るために、犠牲をいとわずに困難にも立ち向かう男になりました。そして人と人を繋ぐことがとても上手で、昨日も母方の親族のいとこ会を主催して、それぞれの家族に声をかけてバーベキューとカラオケ大会をして、絆を深めたようです。
神様は、私たちが誰かと共に生きるように創造してくださいました。共に生きるためには平和を築かないと関係性を維持することが難しくなります。平和でない家庭に生まれてしまった人の話をしたいと思います。
君は愛されるため生まれた:イ・ミンソプ
一人の男性がいました。彼の家庭環境はあまり良くなく、幼い頃からご両親に愛された記憶がほとんどなく育ったそうです。お母さんはギャンブル中毒で、お父さんは暴力を振るう人でした。彼のお父さんの記憶は「靴下」だそうです。なぜかというと、お父さんに顔を踏みつけられていたからだとおっしゃっていました。お兄さんとお姉さんは、良くできる人で比較されたそうです。ですから、物心ついたときから、ミンソプさんはいつも死ぬことを考えていたそうです。この男性は、後で皆で歌う「君は愛されるために生まれた」の曲を作った人です。
この曲を作ったイ・ミンソプさんは、私が以前いた教会に来て、ご自分のお話をしてくださったことがありました(2005年12月29日)。「君は愛されるため生まれた」の曲は今では、クリスチャンの世界では大ヒットして26ヵ国語に翻訳されて歌われているそうです。ミンソプさんは、両親の愛情を十分に受けられなかったため、悩ましい人生を送っていました。イエス・キリストを信じたとき、イエス様が自分の困難や問題であるあらゆる壁を壊してくださったと思いました。特に、罪のゆえに神と断絶されて、人と人との引き裂かれた関係を、キリストが十字架にかかって一緒に過去を清算してくださり、回復してくださったと思いました。でも、実際にはまだ虚しさや寂しさが拭えなかったそうです。頭で聖書の話は分かっていたけど、胸に降りてくるまで10年かかったとおっしゃいました。
クリスチャンになって「君は愛されるため生まれた」という曲を作った後も、「自分は何もできない惨めな人間だ」と思ってしまったそうです。「曲の名前を変えなさい、『愛されるために生まれた』でなく、『愛するために生まれた』にしなさい」とも言われたそうですが、本当に愛情を受けなければ愛を与えられないと彼は分かっていました。しかしある日、地下鉄に乗っているときに神様の声が聞こえたそうです。「私がお前を愛しているのは、あなたが何かが上手にできるとか、素晴らしいからではない。私があなたを創ったからなんだよ。私はあなたを愛することを諦めることはできない」と。そこからミンソプさんの心が満たされて来ました。ミンソプさんは「愛は先ず受けるもので、また表現されるべき」とおっしゃった言葉が心に残っています。
神にゆだねる
私たちは自分にないものを欲しいと願います。聖書の中に出てくる、ずっと子どもが欲しいと願っていたハンナという女性は、なかなか子どもが与えられませんでした。ハンナは、泣いて神様に深く祈り、請願を立てて子どもが与えられるように祈り求めました。「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」(Ⅰサムエル1:11)神様がハンナの祈りを聞き、男の子が与えられました。男の子はサムエルと名付けられました。サムエルが与えられたとき、ハンナは言いました。
「『27この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。28それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです』。そして彼らはそこで主を礼拝した。」(Ⅰサムエル1:27-28)
ハンナの言葉の中で「主にささげる」という言葉が出てきます(新改訳2017では「ゆだねる」)。子どもが与えられるように祈り願い、与えられたときに「わたしもこの子を主(神)にささげます。この子は一生のあいだ主(神)にささげたものです」と言いました。ハンナは自分自身の弱さや足りなさを理解していた人だと思います。神の助けがなければ、今もこれからも私はこの子を育てることは難しいと思ったのだと思います。ハンナは自分と子どもの人生の中に、神様を迎えました。「三つ撚りの糸」とは、自分自身と相手と神様(聖霊)です。自分と子どもと神様、自分と夫と神様、自分と親と神様、すべての関係性の中に神様のスペースを設けるのです。なぜなら命を与えてくださった神様に見守っていただきながら、示唆を得て人生の歩みを進めることで育まれるものがあるからです。人間の愛情には限界があるのではないでしょうか。自分では、豊かな愛情だと思っていても、相手にとっては時に押し付けられる重たいものでしかないこともあると思います。神の手にゆだねることで、自分の中に余裕が生まれ、一人で責任を背負い込むことなく、柔軟性を持って人生のかじ取りをしていけると信じています。そこには祈りがあります。子どものために、家族や友人のため、誰かのために祝福を祈り、共に私たちの命を育んでいただきましょう。



