マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」

2025年11月30日(日) 礼拝メッセージ

聖書 マタイ24:36-44イザヤ2:1-5
説教 「目を覚ましていなさい」
メッセージ 堀部 舜 牧師

エルサレムのオリーブ山の空中写真 
photo by Andrew Shiva, from Wikipedia, CC BY-SA 4.0

36その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。44だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

マタイ24:36-44

1アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。2終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、3多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。4彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。5ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。

イザヤ2:1-5

【アドベント】 今日からアドベントに入ります。礼拝堂もクリスマスの飾り付けになりました。

客を迎える準備

最近、私たちはいろいろな方のお宅を訪問させて頂く機会が増えています。皆さんが家をきれいにされているのですが、特に、Kさんのお宅と、私たちの友人のお宅が、ホテルのように片付いていてモノが少なくて、驚きました。それを見て、私も日頃からコツコツ、物を減らして部屋を整理しようと、これまでより少し心がけ始めました。▼日頃からお客さんが少ないと、急に人が来るとバタバタしてしまいます。先週は、献児式でお子さんたちが来てくれましたが、最近、2階にお子さんが来ることがなかったので、直前になって「床にマットを敷いて」、「TVで礼拝堂の映像が見られないことに気付き…」とバタバタしてしまいました。

Kさんは、「うちはいつでもきれいなので、いつ来てもいいですよ」とおっしゃって、行ってみると本当にきれいでした。▼「大切なお客さんがいつ来ても良いように準備をしておく」。これが、今日のマタイ福音書のテーマ、「目をさまして、人の子の来臨に備える」姿勢です。

部屋をきれいに保つ秘訣を聞いたところ、Kさんも友人夫妻も同じ答えをされました。汚れてから掃除をするのは大変なので、汚くなる前に掃除をするのが秘訣だそうです。▼私たちの人生を考えるうえでも、含蓄に富んだ言葉だと思います。

アドベントーー待望の季節

私が以前別の教会にいた時に、礼拝メッセージをさせて頂いたことがありました。ちょうどアドベントの時期でしたが、インターネットを調べると、アドベントとは「キリストの降誕を待ち望む期間」とあります。でもメッセージを準備しているうちに、「イエス様はもう降誕されたのに、現代の私たちは何を待ち望むのだろう?」と疑問に思って、主任牧師に質問しました。すると、アドベントは「キリストの降誕を祝い、キリストの再臨を待ち望む」ことなのだと教えて頂きました。アドベントに再臨というイメージがなかったので、一つ目が開かれました。▼アドベントの語源であるラテン語のAdventusは「到来」という言葉で、主イエスが2000年前に到来されたことと、やがて再び来られる再臨の、両方を含む言葉です。マタイ24:37,39にも「人の子が現れる」という言葉があり、新しい訳では「到来」と訳されています。(原語はギリシャ語です。)

▼主人がいつ帰って来ても良いように、いつでも準備しておくこと。大切なお客さまを、いつでもお迎えできるように、私たちの心の家/人生という家を、きれいに掃除して整えていること。これが今日のテーマです。

マタイ福音書の文脈

今日のマタイ福音書24-25章は、主イエスが受難週にオリーブ山で話された、終わりの日に関する長い教えです。この箇所での「人の子の到来」とは、主イエスの再臨を指すとともに、当時の文脈では、数十年後に起こるユダヤ戦争によるエルサレム破壊の予言を含んでいます。▽現代の私たちがこの箇所を読む時には、再臨を待つこととともに、私たち自身の「人生の終わり」に向き合うこととして、読むことができます。

「死に備える」のは、「良く生きる」ためです。私たちは、この地上の人生を良く生きるために、自分の人生の終わりを考え、それに備えるのです。「善く生きる」ことが、良い最期を迎えるための最善の準備です。

人生を思い巡らす

私は(妻の留学時の)ドイツのホストマザーのことをたびたび思い出します。私たちが夫婦で訪問した時、敬虔なカトリック信徒である彼女は、牧師である私たちをドイツの墓地に案内してくれました。お墓は、人生の終わりの場所です。彼女は旅行に行くと、訪問先の土地のお墓を訪ねるそうです。また、毎年新年に、自分自身の葬儀のために準備したエンディングノートを書き直して、自分の歩みを振り返るそうです。▼キリスト教のお墓は、暗くありません。きれいな自然の中にある、落ち着いた静かな場所で、人生を思い巡らすのにふさわしい場所です。そこに眠る人々は、永遠の命の中に安息して安らかに休んでいて、やがて復活の命にあずかる希望をもって、静かに待っています。そこには希望と安らぎがあります。

ドイツの墓地

死を前にした人の後悔

ある緩和ケアの医師が、患者さんとの対話の中で、人生でやり直したいと思うことを尋ねたところ、多くの人に共通する5つの答えが浮かび上がりました。それは、人生で本当に大切なものは何かを教えています。

1. 「他人から期待される人生ではなく、自分らしく生きる勇気があればよかった。」

「自分らしく」と言っても、人に迷惑をかけてはいけません。でも、人の目や評価を気にせず、自分らしい生き方を選ぶ勇気を持つことです。

2. 「働きすぎなければよかった」

彼女が担当した全ての男性患者が言った言葉でした。彼らは妻や子供たちと時間を懐かしんでいました。

3. 「思い切って自分の気持ちを伝えればよかった」

大切な人に愛と感謝を伝え、赦すべき人に赦しの思いを伝えることです。怒りの感情をぶちまけるのではなく、押し殺すのでもなく、穏やかに自分の気持ちを伝える勇気を持つことです。

4. 友人と連絡を取り合っていればよかった。

5. もっと自分を幸せにしてあげればよかったと思う。

否定的な考えや自分の辛さを頭がいっぱいになっている状態から、自分を赦し、否定的なことを言うのをやめて、自分が幸せになるのを許すことだと言います。

患者たちは、最初は死の現実を受け入れることができず、いろいろな感情を経験するのですが、最終的には、自分ができたこともできなかったことも、ありのままの自分を受け入れて、一人残らず全員が平穏を得て、大切な人たちのとの思い出をいとおしみ、喜びをかみしめながら召されて行かれたそうです。[①]

もう一度繰り返しますが、死に備えることは、善く生きるためです。この生かされている今を大切に生きるために、私たちは死に備えるのです。ここで挙げた患者たちの後悔は、私たちがこれから・今をどのように生きるかを教えてくれます。それは、聖書の示す指針にも合っているように思えます。

人は一人で生きるものではなく、人と人とのつながりの中で生きる存在です。愛は、相手がいて初めて成り立つものです。▽聖書はそうした他者との関係性について、多くのことを教えています。愛について、赦しについて。言葉について、仕事について、お金について。家庭について、夫婦関係について、親子関係について、友情について。そして、何よりも神との関係について、聖書は多くのことを教えています。それは、「右手を挙げて、左足を出して」といった細かな指示ではなく、人生で何が大切であるかという原理原則を示しているものが多いと思います。▼人生には、こうしたらうまくいくという「正解」があるのではありません。むしろ聖書は、様々な人の人生の失敗と成功を通して、そこで働く神様の愛と導きと、どのように神様に信頼するべきかを教えています。

目を覚ましていなさい

42節に「だから、目をさましていなさい」とあります。「目をさましている」と訳されているギリシャ語は少なくとも2つあり、一つは「意識が目覚めている状態」のことです。この箇所で使われているもう一つの言葉は、「立つ」という言葉の変形で「注意深く警戒している」という意味です。▽泥棒が来ることが分かっていたら、パジャマに着替えて、布団にもぐって、目だけ覚ましているということはありません。服を着て、帯を締めて、仲間を呼んで、武器をもって、盗人がいつ来ても反撃できるように待ち構えるでしょう。そのようにして、キリストが到来することを待ち構えるのです。[②]

「再臨待望」という言葉があるのですが、キリスト教の歴史では、再臨運動が何度もあり、信仰を活性化した一方で、熱狂主義も繰り返し起こりました。再臨が近いと言って家を売り払ったり、ホーリネス運動でも極端な教えが出て、分裂が起こったりしました。▼ある牧師は、おそらくそういう懸念からでしょうが、自分は積極的に再臨を待望するというのは抵抗感があるが、「目をさまして、いつ再臨が来ても大丈夫なように備えている」信仰は持っている、とおっしゃっていました。

再臨の主イエスを待つ最大の準備は、私たちが悔い改めをもって心からへりくだり、御言葉を聞き、信仰をもって私たちの生活を整えることです。▼主イエスが2000年前に来られた時は、どうだったでしょうか?まず洗礼者ヨハネが来て、「悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えました。主イエスの到来の前に、悔い改めによって人々の心を整えたのです。▼主イエスが来られた時、主イエスは何と教えたでしょうか。「悔い改めて福音を信ぜよ」。このようにして、主イエスが最初に来られた時に、人々は悔い改めと信仰をもって、主イエスをお迎えしました。同じように、やがて再び主イエスが来られる時のために、私たちは「悔い改めと信仰」をもって備えるのです。▽クリスマスの典礼色は紫ですが、それは「悔い改めと待望」を象徴しています。私たちは、「今、主イエスが地上におられたらどうするだろうか」を絶えず心に留めながら、主に喜ばれる道を歩みとっていきましょう。

目を覚ます:罪の悔い改め、信仰の戦い

1コリント15:34「目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。…」

具体的な罪を自覚している方がおられるなら、しっかりと生活を立て直し、それを離れることです。習慣化した罪は、そう簡単には離れられません。サポートしてくれる友人たちで周りを固めて下さい。生活の基本的なところから一つずつ立て直していくのです。罪の習慣は、一つの行為の問題以上の場合があります。生活習慣や思考パターン全体を整える必要がある場合があります。腰を据え、覚悟を決めて取り組みましょう。

目を覚ましていなさい」という主イエスの教えは、受難週に集中しています。主イエスはゲツセマネの園で弟子たちに言われました。「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである[③]。目を覚ましているとは、克己と結びついています。目を覚まして、絶えず祈り、主により頼んで歩むのです。

イザヤ書の背景

今日のもう一つの聖書箇所である、イザヤ書の御言葉も、終わりの日に関する有名な御言葉です。イザヤの時代に北イスラエル王国は滅亡し、南ユダ王国が衰退期を迎えた時期です。アッシリア帝国が周囲の国々をことごとく飲み込み、ユダ王国だけがかろうじてアッシリア軍を撃退します。「ぽつんと一軒家」ではありませんが、イザヤ1:8で「きゅうり畑の番小屋」のように、ボロボロの軒の傾いたユダ王国だけが、かろうじて立っているような当時の状況でした。

現代のキリスト教界に目を転じると、教会は世界的には教勢を拡大していますが、日本のキリスト教会は教勢の衰退の傾向を示しています。99%の非キリスト教社会の中に置かれ、高齢化した社会の中で教会も高齢化しています。日本のクリスチャンは、社会のマイノリティとして、自信と主にある誇りを失ってしまうことがあります。

主の御言葉

しかし、そのような衰退期を生きた預言者イザヤは、そのような時代に裁きと共に希望のメッセージを語りました。

2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、…

ユダ王国の衰退と裁きを預言したイザヤは、王国の滅亡を越えて、終わりの日に主の栄光が明らかになることを預言します。エルサレムの山が象徴する主の栄光は、世界の山々よりも高くそびえ、全ての国の人々が主の栄光を慕い求めて集まります。この預言のように、主イエスによって、全民族が主を礼拝するようになりました。

3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。

終わりの時代に、人々は主の言葉を求めて、主のもとに集まります。主の言葉こそ、教会に与えられている宝です。▼宗教改革者たちは、教会が教会であるしるしは、聖書の言葉が正しく教えられ、礼拝が行われていることであるとしました。

人々が神を求めてやって来るのは、楽しいプログラムや食事やイベントがあるからではありません。人々は、神の言葉を求めて教会に来るのです。教会が本来持っている力を、クリスチャン自身が見失ってはなりません。▼御言葉こそ、神を見失った時代に語りかける神の言葉です。指針を失ったこの時代に、生きる指針を与えるものです。御言葉を通してこそ人は神を知ります。教会に何が無くても、神の御言葉があることを覚えましょう。

イザヤは、大国の間で右往左往し、あっちの神、こっちの神にと揺れ動いていた神の民に、呼びかけます。

5 ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。

聖書は、神のいない人生をしばしば暗闇に例えます。暗闇の中を手探りで歩くと、物につまずき、頭をぶつけ、行きたいところにはたどり着けません。ユダヤの国のように、生き延びようこっちについて、あっちについて、必死にもがいても、結局は大国の思惑に翻弄され、利用されて滅ぼされてしまいます。▼しかし、主の御言葉は「わが足のともしび、わが道の光です」と言われます。私たちは、遠く先を見通すことはできません。しかし、一歩先の歩むべき道を指し示してくれるのが神の御言葉です。自分の力でできることは少なく、自分の力でコントロールできない状況は大きいです。しかし、主の御言葉は、次に進むべき一歩を示し、何が御心にかなう道で、何が主に喜ばれる歩みであるかを示してくれます。私たちは恐れや不安の中でも、「これが神が喜ばれる道だ」と確信して、安心して進むことができます。私たちは、目を覚まして、神の光の内を=主のみ教えの光の内を歩んでまいりましょう。

聖書が示す人生の指針

聖書は「心を尽くして神を愛し、自分自身のように人を愛すること」を教えます。愛こそ、クリスチャンの人生の指針です。愛とは、孤立して生きることではなく、しっかりと自立しつつ、人と人との心の通う交わりの内に生きることです。互いを尊重し、人を傷つけず、愛し、愛されて、生きることです。▼同時に、聖書は、神が聖なる方であるように、私たちは聖なる者となりなさいと召されています。その聖さとは、人を見下したり裁いたりする聖さではなく、互いに赦し、受け入れ合うことの上に成り立ちます。「あわれみはさばきに対して勝ち誇る」とあります(ヤコブ2:13)。互いに重荷を負う愛こそ、神の聖さです。

ここに、神の「きよさ」と「愛」が一つになります。「聖い生き方」そして「人を愛する愛」の生き方。これが一致するところが、主イエスの十字架の愛です。ここに、私たちの生きる目標があります。これが私たちの人格の完成です。主イエスの十字架は、そのような聖い愛の生き方に、私たちを招きます。自分に降りかかる不利益も苦しみもいとわずに、この聖い愛という目標を心に定める時に、私たちの生き方は定まります。

ただ神の助けをより頼んで目の前に置かれた一歩を進む時、神が道なき所に道を開かれるのを経験し、「これで良い、この道を進め」「わたしはあなたを愛している」という御声を聞いて、安心して道を進むことができます。

5 ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。

 


[①]https://diamond.jp/articles/-/208661https://note.com/kuwablo/n/ncd405d495e8d

[②] この切迫した様子は、主イエスの時代に、壊滅的なユダヤ戦争が近づいていた時代背景を反映していると思います。

[③] マタイ26:41