1テサロニケ4:13-18「終わりの日もともに」

聖書 1テサロニケ4:13-18
説教 「終わりの日もともに
メッセージ 堀部 里子 牧師

13兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。14わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。15わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。16すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、17それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。18だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

Ⅰテサロニケ4:13-18

3また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、…

ヨハネの黙示録21:3

始めと終わり/出会いと別れ

教会総会を1月末に終えて、新しい気持ちで歩んでいます。物事に始まりがあり、終わりがあることは、神が定めた秩序です。一つのことが終わると、新しいことが始まります。また、神ご自身がすべての始まりと終わりです。「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(ヨハネの黙示録22:13)。また私たちは生きている限り、人との出会いがあり別れもあります。

別れの挨拶

先週、弟が出張で東京に来たので、是非会いたいと思い、最終日に羽田空港に見送りに行きました。「久しぶり!元気だった?」に始まり、「じゃ、今度は沖縄でまた会おうね」の言葉を交わすまで正味30分くらいでした。最後はハイタッチをして別れ、見えなくなるまで手を振りました。家族と再会し、また会える希望があるとは何という喜びでしょうか。皆さんは誰かと再会したとき、どんな挨拶をするでしょうか。

メメント・モリ

中世の修道院では、挨拶の言葉として交わされていた特別な言葉があります。ラテン語の言葉ですが「メメント・モリ」という言葉をどこかで耳にしたことがあるでしょうか。「死を憶えよ」という意味ですが、なぜそのような挨拶がなされていたのでしょうか。私は修道士たちが、互いに「いつか訪れる自分の死とキリストの死を忘れず意識すること」で、キリスト者としてどう人生を最後まで全うするかを問うていたのだと思います。人は自分の命が限られているのだと知るとき、自問自答を始めるのではないでしょうか。「私は誰と生きるのか、この人生の最後に何が残るのだろうか。私は独りなのだろうか」と。

聖句の背景

今日開かれたⅠテサロニケの箇所に、教会の年間聖句と同じ「ともに」の言葉が「イエスと一緒に」(14)、「主と共に」(17) と使われています。今朝は、最後のときを定められている主の御心をご一緒に聖書から学びたいと思います。

テサロニケ

大学でドイツでの交換留学の際にギリシャ人の友人がクラスメートにいたので、テサロニケまで行きました。「ここがテサロニケかー」と思い、海を見ながらテサロニケの手紙5章の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」を思い出したことです。

かつて、パウロと一行がテサロニケで伝道をしたのは、第二回伝道旅行の途中でした。テサロニケで回心者が起こされ、教会が形成されて祝福されているのを見たユダヤ人たちが、ねたみに駆られ暴動を引き起こしたのです。彼らの激しい迫害のために、パウロたちはテサロニケを去らなければなりませんでした。しかし、パウロはテサロニケのクリスチャンたちが気がかりで、何とか彼らを訪問しようとしましたがなかなかできません。パウロは自分の代わりにテモテをテサロニケに送りました。テモテの報告によると、テサロニケ教会は激しい迫害下でも固く信仰に立ち続けており、信徒たちがパウロたちとの再会を待ち望んでいるとのことでした。一方で教会の中に、キリストの再臨がすぐに起こると思い込んで、けじめのない生活を送っている信者もいて、またキリストの再臨前に召された教会の人たちのことが気がかりで、悲しんでいる信徒がいるとの知らせをパウロは受けました。

海の町 テサロニケ Photo by Vangelis Skarmoutsos,
from wikimedia commons, CC BY-SA 3.0

希望

「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」(13)

聖書で死を「眠り」と表現することがあります。眠っているなら起きるでしょう。愛する兄弟姉妹の死を前にして悲しんでいた人たちにパウロは語りました。「死を考えなくてよい」とは言っていません。私たちは別れることを寂しく悲しく思います。もう会えなくなると思ったら辛くなります。しかしパウロは、「知って欲しいことがある、希望があるのだ」と言っています。何が希望なのでしょうか。

よく生まれるときと死ぬときは独りだと言われます。確かに目に見える状況はそうかもしれません。しかし聖書が伝える希望はシンプルで、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」です(マタイ28:20)。イエス・キリストが希望の源です。死が終わりだと考えるなら、希望がないのですが、イエス様が罪と死に勝利して復活されたので、希望があるのです。

わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。」(14)

ヨハネの黙示録に「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」とあります(ヨハネの黙示録22:12-13)

聖書は、この世界に始まりがあったように、終わりがあり、キリストがもう一度来られると約束しています。旧約聖書の預言は次々と成就していきましたが、キリストの再臨の預言はこれから起こることです。

死の先にある希望

ある男性のお母さまが召される数時間前に、奥さんと2歳の娘が一緒にお祈りをしました。「イエス様がおばあちゃんを連れて行くとき、おばあちゃんのベッドも持って行くの?」「違うのよ」と奥さんが答えると娘は「天国ではイエス様のお膝に寝るから、ベッドがいらないのね」と納得したようです。その夜、男性のお母さまは召されたそうです。寝ていた娘を起こして「おばあちゃんが今どこにいるか分かるかい?」と聞くと、娘は寝ていたはずなのに「知ってるよ。天国にいるんでしょう」と。男性はおそらく神様が寝ている間に娘に知らせてくれたのだと思ったそうです。

クリスチャンにとって死は、終わりではなく「新しい始まり」です。肉体は土に帰っても、魂は神様とともに永遠の天の御国に行きます。イエス・キリストを信じて死んだ人は、一時的に「眠っている者」なのです。イエス様が再臨されるとき、眠っていた者たちは目を覚まして、肉体を持つ者として復活すると聖書は言っています。イエス様がもう一度来られたとき、召されずに生き残っている者たちは、眠っていた人たちがよみがえった後に、イエス様と再会するのだと

「…生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(15-17)

牧師の友人の信仰

先日、北区の牧師会でご一緒させていただいているS先生夫妻とお会いして、四人でランチをして交わりのときを持ちました。ちょうどお父さま先生の納骨式が無事に終わった直後とのことでした。先生は、「寂しさは消えないけど神様の御言葉に従って生も死もすべてを治めておられる主に父をお任せして、揺るがない永遠の希望をいただいています」と前を向いておられました。

天国に入ることは永遠の安息ですが、天国は明確な場所というより、自分自身と神様との関係性が永遠に続くところであると思います。そして復活のイエス様と私はつながっているという事実が、今私がいるこの地上も天の御国だと確信させるのだと思います。

「先に召された人は消えたのでなく、主とともにいるのだ、そしてまたイエス様と一緒に私たちも会えるのだ」とパウロの手紙を読んだテサロニケの信徒たちは安心したのではないでしょうか。ですから「終わりの日」は、「イエス様が最も近くなる日」です。私たちのゴールは、イエス様の再臨や携挙が私たちの最終ゴールでなく、神様の御旨・御心の完成のときなのです。再臨・携挙・終末信仰について、いろいろな神学的な立場や理解がありますが、パウロが伝えたかったことは「死が終わりでない。そして主はあなたを決して一人にしない」ということではないでしょうか。

キリストにある希望

「終わりの日の希望」は、終末のときに何が起こるのかを知ることでなく、永遠に変わらない約束をくださるキリストを知ることです。

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」(申命記29:29)

「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。…もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:5,8)

「ハイデルベルク信仰問答」に次のような問答があります。

問52「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。

答 わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出し すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。この方は、御自分とわたしの敵を ことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです。

ハイデルベルク信仰問答 吉田隆訳p.46

イエス様が再臨されるとき、それは「裁きの日」でもあります。福音を十分に聞く機会がなかった人、誤解や傷の中で信じることができずに亡くなった人はどうなるのでしょうか。すべては神の主権の中にあり、最終的には神の義と憐みに委ねられています。誰が救われるのかを決めるのは私たちではありません。人間が勝手に天国・地獄を決めることはできません。ただ私たちに委ねられているのは、生きている間に福音を伝えること、祈ること、そして神を信頼することです。

イエス様を感動させた信仰告白

先日、夫婦でデボーションをした聖書箇所を分かち合いたいと思います。マタイ8:1-13です。

  • 重い皮膚病ツァラアトに冒された人「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」⇒「そうしてあげよう、きよくなれ」
  • 百人隊長「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています。…ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。」⇒「…イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。…行け、あなたの信じたとおりになるように」すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。

二人の人がイエス様を感動させました。二人目の百人隊長は、異邦人ですが、一人のしもべの病の癒しのために、わざわざイエス様に会いに来たのです。しもべ本人ではなく、です。イエス様の元に自ら行けない人のために、私たちも百人隊長のように、信仰を持って代わりにイエス様のところに行って、癒しと回復、救いをお願いする者であり続けたいと思います。なぜなら、イエス様は私たちの信仰を見て感動したいのです。「終わりの日」まで諦めずに主とともに歩んで参りましょう。

「だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」(18)