コロサイ3:12–17「キリストの平和」
聖書 コロサイ3:12–17
説教 「キリストの平和」
メッセージ 堀部 舜 牧師

12だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。13互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。14これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。15キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。16キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。17そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。
コロサイ3:12–17
【キリストの言葉を宿らせる】
昨年から、青年たちと黙想文を用いて、毎日の聖書の短い箇所を読んできました。月に1度、オンラインで学びと交わりの時を持っています。その中の証しを紹介したいと思います。
S兄弟は、新幹線の駅で働いていますが、仕事の中でも聖書の言葉を思い出すことがあると教えてくれました。夏休みの旅行客で電車が混み合う時期、通常運転でも忙しい時期に、大雨が降り、新幹線が大幅に遅延したそうです。そうなると時刻表が全く役に立たず、ひたすら入ってくる新幹線の掃除に当たって、疲労困憊していたそうです。そんな時に、聖書の言葉を思い起こしました。「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」(箴言16:3)。混乱して疲れ切っていた仕事の中で、落ち着きを取り戻し、休み休みしながらペースを取り戻して、大変な一日の奉仕を乗り越えられた、ということです。
コロサイ3:16に「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」とあります。S兄の経験は、まさにこの御言葉の経験です。

いつも感謝していなさい
同じくR兄の経験をご紹介します。その日に読んだテキストで、筆者が花の咲く木のことを書いていました。その木は背が低く、一年の大半は目立たないのですが、春になると鮮やかな色の美しい花が咲いて、目を楽しませてくれます。その筆者の方は、普段はその木に気付かないように、私たちはイエス様の恵みをどれだけ気付かずに過ごしているだろうか、と書いていました。▼これを読んだRさんは、自分自身のことに当てはめて思ったそうです。Rさんは小さい頃から教会に通って、よく朝に夜に祈っていたそうです。ところが、大人になると、イエスさまと一緒に歩むことを忘れがちになってしまい、何か困ったことがあると一生懸命祈るけれど、また普段の生活に戻ると、その恵みを忘れてしまう。今、忙しい中にあるけれど、神様の恵みを忘れずに歩んでいきたいとおっしゃっていました。▼今日の聖書箇所には「あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者である」。「いつも感謝していなさい」とあります。
これが、私たちクリスチャンの実際の歩みです。今日はこの箇所をもう少し深く読んでいきたいと思います。
1.神に選ばれた者、聖なる、愛されている者
キリスト教は、「神が私たちに何をして下さるか/して下さったか」を教えています。今日の短い箇所では、12節の「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから…」という言葉に表れています。これは、クリスチャンの「身分」を表しています。
「身分」の変化の例:家族になる
最近こんなエピソードを読みました。ある若い女性が、婚約者の親族の集まりに参加して、記念写真を撮りました。その時、彼女は婚約者の隣に立っていたのですが、シャッターを切る直前に、彼女は自分が正式な家族でないことに気付いて、急いで脇に寄りました。その写真では、全員がカメラの方向を見ている中で、婚約者の男性だけが、脇に寄った彼女を優しく見守っていたそうです。▽このカップルは結婚して、53年経ってこの写真を見返して、ご主人は今も愛情をこめて目を向けてくれることを感謝しておられました。[①]
ここに描かれているのは、「家族となる」という身分の変化に接している女性の姿です。▽これと同じことが、神との関係においても起こります。かつては神の家族ではなかった者が、イエス・キリストを信じる時に、「神の子ども」「神の家族」とされて、その身分が変わるのです。初めは戸惑いがあるかもしれません。しっくりこないかもしれません。しかし、神様の愛のまなざしは、しっかりと私たちに注がれているのです。
「選ばれた者、聖なる、愛されている者」
12節に、3つの表現がありました。「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから…」。これらの言葉は、旧約聖書の歴史で神の民イスラエルだけに使われてきて、神との特別な関係=神の民の身分を表す言葉でした。
- 「選ばれた者」とは、神様がほかの民族ではなくイスラエルを選んだこと。彼らが優れていたからではなく、ただ神様が愛して選ばれた、神の主権による関係性を意味します。
- 「聖なる」とは、イスラエル民族が他の民族から区別されて、いろいろな悪から離れて、神に仕えるために、この世から取り出された関係性を意味します。
- 「愛されている者」とは、イスラエルがどんなに神に背き、神を悲しませても、神は決してイスラエルを見捨てなかった、神の変わらない愛に基づく関係性を表しています。
それは、単なる「気持ち」や「感情」の問題ではなく、むしろ法律上の「契約」関係や、国と国の間の条約のような、公式の関係性です。3つの言葉が表しているのは、クリスチャンの身分は、①神様が無条件に選んで下さったのであり、②ご自分のために取り分けられたのであり、③何があっても見捨てない神の愛に守られているのだ、ということです。
クリスチャンのアイデンティティ:映画「赦しの力」から
最近、クリスチャンの映画を見ました。ケンドリック監督による「赦しの力」という映画です。母子家庭に育った主人公の女子生徒ハンナが、盗みを繰り返し、ぜんそくを持ち、暗くすさんだ生活をしていましたが、クロスカントリー部のコーチを通してキリストに出会い、人生が変えられていく姿が描かれています。[②]
ある牧師がこのように指摘しています。多くのクリスチャンは救われている。しかし、心の内では、「恐れ」「劣等感」「自己防衛」「承認欲求」に支配されている。それは、私たちクリスチャンが、自分のアイデンティティの認識に問題があるのだと。▽クリスチャンとは、ちょうど親のいない貧しい子どもが、偉大な王様の養子になったようなものだと言います。「親のいない子どもは、親の愛を勝ち取ろうと努力をする。しかし、王様の子どもは、すでに与えられている愛から行動する」と。[③]
映画の主人公のハンナは、聖書から自分で約束の言葉を拾い出して、ノートにまとめていきます。「私は神様の子ども」「私は祝福されている」「私は選ばれている」「私は子どもにされている」「私は神のものにされている」「私は赦されている」「私は愛されている」…▽そうして彼女は劣等感や自己防衛を離れて、新しい人生を歩み始め、そのチャレンジは多くの人を励まし、喜びを与えます。
「愛されている者」としてのアイデンティティ
大切なのは、「私たちが何をするか」ではなく、「私たちが何者であるか」です。そのアイデンティティが大切です。▼この世界は、私たちに否定的な思いを吹き込みます。「あなたは価値がない。誰も認めていない。あなたは愛されていない」。私たちがこうした声を受け入れてしまう時、「私は価値がない、私は人から認められていない、私は愛されていない」という考えに屈してしまう時に、「私はもっと○○をしなければ、○○にならなければ。」と何かを求めて、成功や称賛やお金を求めて、不安と焦りの中に、休みなく走り続けることになります。▼それは、自分の価値を否定して、自分が神から愛されていることを否定して、神の子どもとしてのアイデンティティを軽んじてしまうことが始まりです。だから、聖書を通して、語りかける聖霊の語りかけ「あなたはわたしの愛する子」「わたしはあなたを愛する」という神の声を、心の内に聞き、そこに留まることがとても大切です。「私たちが何をするか、何を持っているか、人が私を何と言うかによって、私の価値が決まるのではありません。私たちは、神に愛されている息子・娘として、すでに愛されている」のです。[④]
【適用】 私たちがこのような焦りや不安を感じる時、時間を取って聖書を開いて、私たちのための神様の約束を思い起こしましょう。私たちが何者であるかを心に刻みましょう。▼私たちが神様にとって大切な存在であることを深く感じられるでしょうか。私たちがこの言葉を深く悟ることができるように、神様に祈りましょう。▼12節の約束をくりかえし心に留めましょう。「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」です。この聖書の約束を心に留めましょう。そのように心にささやいてくださる聖霊の語りかけを聞いているでしょうか。毎日、聖書の言葉と聖霊の語りかけに、耳を傾けましょう。そして一日の間に、心に留めていましょう。
※12節の「あわれみの心…を身に着ける」という言葉は、服を「着る」というのと同じ言葉です。これは、古代の教会での洗礼の習慣を反映しています。洗礼において、私たちの身分が変わったことを思い起こさせる言葉遣いです。
2.恵みへの応答
「私たちは、何かを成し遂げることで神の子どもになるのではありません。神様の子どもにして頂いたから、神様の子どもとして生きるのです。」[⑤] 私がイエス・キリストを救い主として信じる時に、私たちは神の子どもとして頂きます。信じた時、すぐに何らかの実感が湧く人もいれば、後から実感が湧いてくる人もあります。どちらにせよ、神様に愛され、受け入れられているというアイデンティティが生まれる時に、私たちの生き方が変わります。12節後半から15節までが人との関係について、15節の最後から17節までは神様との関係です。
◇1.キリストの平和の支配――一つの体
15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。
一つのからだ
「一つのからだ」という表現は、教会の一体性を表しています。私たちがイエス・キリストに結び合わされることによって、切り離せない一体になって命をもっていることを表しています。▼ここでは、コロサイにある諸教会の枠を越えて全世界の教会が「一体」とされていて、旧約聖書の律法を越えて、ユダヤ人もギリシャ人も、キリストのうちに一つに結び合わされていることを教えます。しかしパウロは、割礼も安息日も食べ物の規定も越えて、キリストのうちに一つであることを教えました。
この教えは、現代の教会にも確実に生きています。先ほど告白した使徒信条は、プロテスタント教会でもローマカトリック教会でも、この信条を告白しています。洗礼式と聖餐式は教派を越えて基本的に共通です。私たちの教会では、プロテスタント教会やローマ・カトリック教会や正教会など、どの教派で洗礼を受けた人であっても、同じ信仰告白に立っておられるならば、共に聖餐にあずかることができます。キリストのうちにある者の一致を何ものにも奪われてはならないというのが、パウロたちの強力な教えでした。

互いの平和
15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。
「平和」こそ、キリストの十字架がもたらしたものです。これは個人主義的な「心の内の平安」ではありません。神との間の関係性の平和であり、この文脈では特に教会の互いの間の関係性の平和を指しています。キリストの十字架は、もはやどのような律法の区別も取り除き、キリストのうちにある一致を妨げるどのような律法も規則も基準も、教会に持ち込むことは許されません。
「支配する」とは、裁判官や調停者のように、「裁き、判断し、調停し、コントロールする」ことを意味するそうです。15節は、「決断を下す際、選択肢を選ぶ際、衝突を解決する際、主イエスが下さる内なる平和と共同体の平和を保つという配慮が、私たちの指針となるべき」です。「平和」が私たちの判断基準となるのです。この平和は、個人の内面の平安ではありません。教会の一致としての平和であり、キリストがもたらす平和です。[⑥]
13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
完全な人はいません。誰もが多くの足りなさを持っています。そして、自分自身のことをよく考えれば、自分を誇ることは愚かなことです。他人を非難するならば、どこかでその非難は自分に帰ってきます。
それだけでなく、教会は非常に多様です。様々なバックグラウンドを持つ人が集まっています。その違いを認めようとせず、キリストにある教会の交わりの幅広さに心を閉ざしてしまうなら、自らの命の源を変質させることになります。主が私を受け入れてくださったように、「キリストにあって」ということが条件ですが、キリストにある者はだれでも受け入れるのです。
◇2.神への感謝――キリストの言葉が豊かに住む
15-17節には、「感謝」という言葉が3回出てきます。神への応答は、感謝です。私たちは神に対して何かを捧げられると考えがちです。私たちは神様に時間を捧げ、献金を捧げ、奉仕を捧げ、人生を捧げます。しかし、私たちが持っているものは、全て神様から出ており、神様から頂いたもの・預かっているものをお返ししているのです。私たちのすべての捧げものの土台にあるのは「感謝」です。
【感謝】 神様の子どもとして、神様の選びの民・聖なる・愛する民として下さったことを感謝を捧げましょう。神の子どもとして、神様が私たちの全ての必要を備えてくださることを信頼して、今日の必要が満たされていることを感謝しましょう。私たちの人生を意味あるものとして、神を知り、神と共に歩む者として下さったことを感謝しましょう。神様が一日を災いから守られて過ごせたことを感謝しましょう。喜びの時に感謝し、悲しみの時に祈りましょう。
それは、神様が私たちと共にいて下さり、私たちを愛して下さっていることを知ることから出てきます。それが、ずっと述べてきた私たちのアイデンティティです。それは、キリストの言葉が豊かに宿ることから生まれます。
人格的内住
16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。
これは、味わい深い言葉です。
(1)「キリストの言葉」とは、基本的には聖書の教えであり、イエス・キリストの福音を指しています。
(2)それは「私たちの内に住む」という人格的な(能動的な)表現が使われています。神の霊である聖霊が私たちの内に住み、キリストの言葉が私たちの内に示されて、またキリストご自身が私たちの内に住まわれます。「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」とは、ただ聖書の言葉を頭で思い巡らすだけでなく、聖霊が人格的に内に住まれて、キリストの福音を心に示して下さることを指しています。
礼拝の中で
16節は原語では1つの文で、後半は前半を説明しています。
16bそして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
――これは、古代の教会の礼拝の姿だと考えられます。聖書の勧めがあり、詩篇などの讃美がありました。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住む」とは、そのような豊かな礼拝の営みを通してです。
キリスト教の伝統に、礼拝全体が神に捧げられる「祈り」であるという考え方があります。礼拝が、ただ御言葉を頭で理解し、行動するだけではなく、聖霊が心に住んで下さり、福音の真理が豊かに示され、実現する時として、また祈りと感謝をもってそれに答える時として、さらに豊かな時となっていくように、共に祈ってまいりましょう。
祈り
父なる神様。私たちを選び、聖なる者とし、変わらない愛をもって導いてくださっていることをありがとうございます。神の子とされたあなたの恵みに、堅く立たせてください。そして、共におられる聖霊の恵みによって、忍耐強く平和のうちを歩み、主に心からの感謝をささげることができますように。主の恵みの内に捕らえ導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
[①] アパルーム 2026年1月25日
[②] https://eiga.com/movie/91730/
[③] ビル・ジョンソン&クリス・バロトン「王家の者として生きる」、Chat GPTの要約より
[④] ヘンリ・ナーウェン「愛されている者の生活」 愛されている者
[⑤] ビル・ジョンソン&クリス・バロトン「王家の者として生きる」(Chat GPTの要約に基づく)を参考に、メッセージの文脈に沿って変更。
[⑥] Scot McKnight, The Letter to the Colossians, The New International Commentary on the New Testament, 3:15注解

