1コリント1:20-30「神の知恵・力・義であるキリスト」

聖書 1コリント1:20-30
説教 「神の知恵・力・義であるキリスト」
メッセージ 堀部 舜 牧師

20知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。21この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。22ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。23しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、24召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

…30あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。

1コリント 1:20-25,30

1.神の知恵

イエス・キリストは、私たちに救いをもたらす神の知恵です。

証し:キリストとの出会い

私は、大学生1年の時に、初めて教会に行きました。最初は留学生の先輩に誘われた食事会がきっかけでした。温かい交わりが好きで、クリスマスなど何度か参加した後、時間が取れた時に、初めて普通の礼拝に参加しました。 ▼ちょうどその日は、その教会から短期の海外宣教チームが出発する日で、宣教チームのためのお祈りを勧めていました。 ▼その週のある夜、私は彼らのために、自分の部屋で初めて一人でイエス様の名前で祈りました。すると次の朝、夢を見ました。「恐れるな」という文字がはっきりと見えて、目が覚めました。初めての体験で、「神様だ」と思って、飛び起きて、ドキドキしながら感謝の祈りをしました。その時から、毎週教会に通い、聖書を買って読み始めました。 ▽神様を信じるようになったのですが、当時不思議に思ったのは、この時から聖書が心に響くようになったことでした。 

聖書は、「神は、この世の知恵を愚かなものにされた」と言います。人間の知恵は、どんなに優れていても、神のことを悟ることはできません。神が目を開いてくださる時に、神のことを理解することができるようになります。

ある方が洗礼を受けた時に、おっしゃっていました。「私は10年以上も聖書を読んで教会に通い続けていたけれど、突然、聖書が分かるようになった、心に入って来るようになった」と。

別の方は、聖書を読んでいる時に、御言葉が自分への語り掛けとして目に飛び込んでくるように感じる、とおっしゃっていました。

私が信じて間もない頃、大学2年の時でしたが、日本人でノーベル賞を受賞した有名な教授の授業を受ける機会がありました。私も高校生の時からあこがれた科学者でした。その先生が、授業の中でキリスト教を真っ向から否定しておられました。私は非常にショックを受けました。信仰と科学の関係は、極めて複雑で、深遠なテーマです。考慮するべきことはとてもたくさんあります。 ▽しかし、神のことに関しては、神ご自身が説き明かして下さらなければ、どんなに優れた人間にも、これを理解することは決してできない。これが、今日の箇所でパウロが言っていることです。

十字架につけられたキリストを私たちに示すのは、神ご自身だけです。 ▼キリストの十字架は弱さのように見えます。 ▽イエスという一人の人間に、どうして人を救うことができるのでしょうか?――それは、主イエスが人であると同時に神であるからです。 ▽なぜ救い主が十字架につけられなければならなかったのでしょうか?――それは、私たちの罪のために、誰かが命の代価を支払わなければならなかったからです。 ▽2000年前に死んだ人物が、どうして今の私を救うことができるのでしょうか?――主イエスは復活して天に昇り、今も生きておられるからです。 ▼これらすべてのことを悟るのは自分の力ではなく、聖霊によります。 聖霊が私たちの信仰の目を開いてくださる時に、私たちはキリストのことを理解します。 

2.神の力

第二に、イエス・キリストは、救いをもたらす神の力です。

私の友人が躁うつ病を持っているのですが、夜眠れない日が長く続き、非常に厳しい中で、命の危険が差し迫った時がありました。私と他の友人たち数人で連絡を取り合って、共に祈ったことがありました。しかし、状況が悪化するばかりでした。居ても立ってもいられない中で、私は仕事をしていたのですが、一日、食事を絶って(断食をして)、心を合わせて祈りました。その方は、絵を描く方なのですが、吹きつける嵐の中を風に逆らって歩いている絵が、やがて遠くにわずかな光が見え始め、またしばらくして、嵐が過ぎ去って、あたたかな日差しの中をボロボロの姿で乗り切った絵に変わっていました。 ▽どのようにしてかは知りません。ただ、神は私たちの祈りを聞いてくださる。神は、私たちの現実の問題を解決してくださる力ある神であると、私は心から確信しています。

平安をもたらす力

キリストの十字架は、無力に見えます。しかし、私たちの罪を赦し、神との関係を回復する力のあるものです。 

私のある友人は、イエス・キリストをはじめて信じた時、何とも言えない平安が心を満たした、と言っていました。 

私も、イエスの十字架によって、無条件で、ありのままで受け入れて頂けることをはっきりと理解した時に、心に変わらない平安が湧いてきて、いつでも神様の笑顔を見ることができるように感じ、いつでも神様の愛を頂いているのを理解し、心を静めて耳を澄ませば、いつでもその愛を感じることができるようになりました。 

宗教改革者のマルティン・ルターは、「子よ。あなたの罪は赦された」という御声を聞いて、「天国の門をくぐったと感じた」と述べたそうです。

18世紀英国のメソジスト運動の指導者ジョン・ウェスレーは、その福音的回心の時に、神様の御声を聞いたそうです。「あなたの罪は赦された あなたは神に受け入れられた」「その声を聞き 天の御国が私の心に広がった」と書き残しています。

神の国は、…聖霊による義と平和と喜び」だとパウロは言います。十字架の主イエス・キリストは、救いの実、実体をもたらす、神の力です。

希望を与える力

キリストの十字架は、復活の希望をもたらしました。

私のある信仰の先輩が、信仰を持ったきっかけを教えてくれました。あるアメリカの学校で銃の乱射事件があったそうです。犯人は無神論者で、生徒に「あなたは神を信じるか」と尋ねて、神を否定すれば殺さず、神を信じると言えば射殺したそうです。キャシーという女の子が、その犯人に捕まり、「神を信じるか」と尋ねられました。命のかかった場面で、犯人以外には誰も聞いていないところで、彼女は「私は神を信じる」と答えたそうです。犯人はキャシーを殺害しました。物陰に隠れていて生き残った同級生が、後でキャシーの言葉を証言したそうです。 私の先輩は、この話を聞いて、「キリスト教には何かあるな」と思い、主イエスを信じたそうです。 キリストの復活には、この命を越えた、新しい命を与える力があるのです。

イエス・キリストは、私たち召された者にとって、神の力です。

■【3.神の義】

 主イエスは、神の知恵であり、神の力です。第三に、私たちにとっての神からの義です。

スポーツ・ジムでの人間模様

私の妻は、健康管理のために運動をしています。運動をしながら、いろいろな方に出会うそうなのですが、その人間模様が面白いと思いました。女性のコーチがついて体調管理やトレーニングのアドバイスをするのですが、とてもフレンドリーな方から、静かな方まで、いろいろだそうです。ある方は、コーチに心拍数を聞かれてもプイと無視したり、トレーニング機器の使い方を教える時も、女性コーチにも身体を触らせなかったりするそうです。人間同士の間では、よくあることが分かりやすく表れているように感じます。

私はこれを聞いて、神様と人間の関係に似ているなと思いました。神様は人を愛して、手を変え品を変え、いろいろな方法で人に語り掛けるのですが、私たちは「神のことには興味ありません」「ここから先は立ち入らないでください。」「私の時間を邪魔しないで…」と。 

しかし、罪の根本は、神を神と認めないことです。 神にふさわしく敬わないこと。 神に従うのではなく、自分勝手な道を行くこと。 罪とは、命の源である神から、自分自身を切り離すことです。

【神の義】 神から離れて自分勝手に歩んでいた私たちのために、御声をかけ、目を開いて信仰に導いて下さったこと。この神の誠実さこそ、「神の義」です。 神から離れていた私たちのために、神が人となって救い主になって下さった。これが、神様の誠実さ、「神の義」です。 イエス・キリストが聖なる生涯を送り、十字架の死に至るまで忠実であられて、私たちの罪の代価を身代わりに負ってくださった。これが、「神の義」です。 ▼神に背いた私たちには決してできなかったことを、イエス様が成し遂げてくださいました。神との関係が切り離されて、神に対して死んでいた者が、神との関係で回復して、人格的な生きた関係を持つようになりました。

神と私の関係は?

クリスチャンの皆様は、神との関係に満足しておられるでしょうか? 神との交わりの喜びに、平安に歩んでおられるでしょうか? パウロのように、「神を喜び」「神を誇って」おられるでしょうか? ▽もしそうでないのなら、何が妨げているでしょうか? 病気の苦しみでしょうか。日々の不安や恐れでしょうか。人間関係や様々な環境からくる葛藤でしょうか。

主イエスやパウロのようではない、喜びよりも悩みや恐れ、思い煩いに苦しんでいるそのままの姿で、神の前に出て良いのです。ありのままの姿で御前に出ましょう。自分の思いをそのままに打ち明ければ良いのです。その時に、神が、私たちに平安を与え、御声を語り掛け、聖書を理解させてくださいます。神が答えて下さった、神に受け入れられた、神の子とされたことを理解させて下さり、平安と喜びが湧いてくるでしょう。その平安と喜びを奪う者はありません。なぜなら、キリストが、私たちの「義と聖と贖いになられ」たからです。

まとめ

①キリストは、人間の理解を越えた救いの土台です。救いのために神が与えてくださった、神からの知恵です。

②キリストは、私たちに救いの保証を与えて、やがては復活を下さる神の力です。

③キリストだけが、私の救いの根拠です。私が何をしているかではなく、キリストこそが、神がくださる私たちの義です。

キリストを見上げ、キリストを喜び、キリストを味わって、歩んで参りましょう。