マタイ18:21-35「十字架が支払った私の負債」
聖書 マタイ18:21-35、イザヤ53:4-6
説教 「十字架が支払った私の負債」
メッセージ 堀部 里子 牧師

27僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
マタイ18:27-35
4 まことに彼はわれわれの病を負い、
イザヤ53:4-6
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、
神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
6 われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。」
「負債」
受難節の中を歩んでいますが、皆さんは「私の負債」と聞いて、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。「負債」とは、一般的に支払い義務や返済義務のあるものを表します。そのような意味で私は、長い間「負債」を抱えていました。大学時代に育英会から月に¥57,000を借りており、卒業後は利子も含めて返済が始まりました。ちょうどコイノニアに来る直前に返済がゼロになり、清々しい気持ちで引っ越ししてきたことを覚えています。
今日は「神の与える赦しとは」について、聖書に共に聞いていきたいと思います。弟子のペテロがイエス様に質問しました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」(21)。当時のラビは、人の罪を三度まで赦したら、それ以上は赦さなくてもよいと教えていました。ペテロはイエス様の教えがラビの教えに優ると思い、三度より多く、ユダヤ人にとって完全数である七度までと言ったのです。イエス様の答えは「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」(22)でした。三度でも七度でもなく、七回を七十倍するまでとおっしゃいました。しかし、文字通りに490回赦しなさいということでなく、何回と限界を設けずに、限りない赦しを意味するものを考えられます。兄弟に対して真の愛を持って限りなく赦しなさいと。そしてイエス様は、キリストの弟子は兄弟の罪を赦すべきであることを、天の御国のたとえで教えられました。
ある王様が1万タラント(注・1タラントは六千デナリに相当。1万タラントは6千万デナリ。1デナリは当時の一日分の労働に相当。⇒一日1万円とすると1兆円相当)の負債のあるしもべの負債を、全額免除しました。ところが、そのしもべは自分に百デナリ(約100万円)の借りがある仲間を捕まえて、首を絞め、容赦せず牢に入れました。このことを知った王様は、自分は赦されたのに、相手を赦すことを知らない高慢なそのしもべを捕らえ、叱り、獄吏たちに引き渡しました。実は、古代近東の君主が債務者を許すことはほとんどなく、借金を返済させるために、投獄された人々を任された刑務官がいたそうです。刑務官は債務者に対して思いのままにむち打ちや拷問を加えることが許されていたそうです。
このしもべの問題は何だったのでしょうか。それは自分のとてつもない大きさの負債を認識せず、相手が自分に負わせた負債がすぐに支払われないことを知り、刑罰を与えたことでした。当時のユダヤ人には、借金を返済するために自分自身も家族も売る習慣があったそうです。しかし、そのようにしたとしても1万タラントを返済することは不可能でした。返済できなければ刑罰を受けるしかありませんでした。「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」と仲間が懇願した言葉は、自分が以前王様に言った言葉と全く同じでした。彼は、無限とも言える愛と赦しをいただいたのに、自分は仲間のしもべを赦すことができませんでした。

冒頭に私は借金をやっと返済したと言いましたが、実は私は地元の町からも奨学金を大学進学のために借りていました。育英会よりは大きな金額ではありませんでしたが、町の方の奨学金は、払えなかった私の代わりに両親が返済してくれました。私立の大学に行き、留学もさせてくれた両親に感謝しかありません。金額では測れないほどの愛情を注いでもらっています。
天の御国は負債という罪を清算された人しか入れないところです。返済することができない人のために「負債免除コース」が提供されているのです。それが「イエス・キリストの十字架」です。たとえのしもべは、神の前にある私たちの人間の姿を表しています。人は神様から莫大な罪という借金を赦していただいたことをつい忘れて、自分に罪を犯したささいな過ちを根に持ち、赦せないことが多いものです。でも制限なく赦すことは、自分が損をして空しくなるのではないでしょうか。
赦しと悔い改め
2001年に名古屋刑務所で刑務官が受刑者に対して消防用ホースで放水をして死亡させた事件がありました。度重なる不祥事で批判を浴びてきた名古屋刑務所では、内部改革がなされていきました。受刑者に対して、懲罰でなく立ち直らせるために寄り添う姿勢を示していきました。しかし、刑務官の心は複雑でした。一言で言うと、受刑者は罪を犯したのに、反省させずそんな緩くていいのかと。その葛藤は理解できると思いました。
聖書は罪を告白し、悔い改めた人が罪の赦しを受けると教えています。イエス様も「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」と言っています。ボンヘッファーは、悔い改めを要求せずに赦しを説教することに強く反対しました。それは悔い改める罪びとの義認をなくし、罪を正当化することになる安物の恩寵だと指摘しています。「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(33)の言葉を心に留めたいと思います。
神様から私は罪を赦されたのだと頭では分かっていても、現実に人間関係の中で、相手を赦すということは難しいこともあると思います。ここに神の赦しと、人の赦しの差があります。先日、デボーションをしていたら「赦しは、弱い者の選択ではなく、神に信頼する者の決断です」という言葉に出会いました。赦しは選択でなく、決断であるということが響きました。

謝罪と赦し
謝罪と赦しの研究をした二人のクリスチャンが興味深い本を書いています。その本によると人はそれぞれに「謝罪の言語」を持っているとのことです。男女間でも差があり、文化的背景の違いによっても謝罪に関して、全く異なる認識と理解があるそうです。自分ではすでに「ごめんなさい」と謝ったと思っていても、相手にとってはそれだけでは足りない、伝わっていないとするなら、謝罪言語を変えてアプローチしてみる必要がありそうです。その言葉が語られるなら赦し、赦される関係の構築が早まるのではないでしょうか。
【五つの謝罪の言語】
- 後悔の念を伝える「ごめんなさい」
- 責任を認める「私が悪かった」
- 償いをする「何をしたらいい?」
- 真に悔い改める「二度としないように努めます」
- 赦しを請う「赦してください」
「人間は本来道徳的な生き物で、良心が与えられているが、正しいことの基準は文化間で異なるもの。善悪の知識があっても、正義を求める心がある。自分が持つ正しさの意識を犯されたとき、人は怒りの感情を体験する。不当な扱いを受けたと感じて、信頼を裏切った相手に腹を立てる。その不当行為は二人の間の壁となり、二人の関係にひびが入る。不当に扱われた側の内側に存在する何かが正義を求める。」
「赦しをもたらす五つの方法」(ゲーリー・チャップマン、ジェニファー・トーマス いのちのことば社)
著者はカウンセリングで、ある妻が「主人が謝ってくれれば・・・」と言い、彼女の夫は「もうちゃんと謝ったじゃないか」と。「いいえ、謝っていない。あなたは自分が間違ったことを認めていない」と言い返す。そして「謝る」ということがどういうことかについて口論が始まると紹介しています。この夫婦が明らかに謝罪に対して全く異なる認識・理解を持っていると。夫は1の謝罪言語で謝った。しかし妻の謝罪言語は2である。夫は2の謝罪言語「私が悪かった」と言うならコミュニケーションが潤滑になる。
皆さんの持つ謝罪言語はどれに該当するでしょうか。どの言葉を言われたら、受け取れるでしょうか。
主イエスの赦し
イエス様はどのような謝罪言語を持つ人も、その心を受け取ってくださる方です。赦し自体が過去を変えることはできませんが、これからの未来に対して可能性を大きく広げるのではないでしょうか。
4 まことに彼はわれわれの病を負い、
イザヤ53:4-6
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、
神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
6 われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。」
S姉のお父さんは、もうお召されになりましたが、まだクリスチャンでなかったとき、イザヤ書53章を読み「彼」とは一体誰のことを指しているのかと思ったそうです。そしてその「彼」がイエス・キリストを指していると分かり、私の罪のためにこんなにも苦しまれたのかとキリストの十字架が自分にリアルに迫ってきたと生前、自分の「十字架体験」を何度も語ってくださいました。60代で病に倒れたとき、痛みと苦しみの中で「先生、イエス様はもっと苦しまれたんですよね…」と吠えるように言葉を紡ぎだしていました。
私たちは誰でも赦し、赦されなければ、心に本当の平安をいただくことができません。赦しは過去と関連があります。過去の出来事や状況などに対する反応が赦しです。赦さない人は、自分が味わった侮辱や不当な待遇、また悔しさから完全に抜け出すことが難しいです。自分で選択してその中に留まっています。自分が受けた傷を思い出しては、傷つけた人を忘れることができません。それは現在を歩みながらも、過去に縛られている罪人の姿そのものです。赦しが簡単でないのは、赦しが罪人である人間の本質と異なっているからです。ですから赦しは、神のご性質であり、イエス様を信じ受け入れて、生まれ変わったクリスチャンに見出すことができる性質なのです。赦された者が、歯をくいしばっても赦しの選択をするとき、過去のネガティブな経験と記憶が繰り返されないように新しくアップデートされる神様の恵みが必ずあります。そして、赦し人であると同時に、神様の赦しを受け取ったなら、他人へ赦しを求め、与えられる赦しも感謝して受け取って参りましょう。未来への選択を共にしましょう。そしてそのために、憐みの心を主が注いでくださることを感謝いたします。十字架が支払った私の負債の大きさを心に覚え、赦しを受け取って参りましょう。
「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ3:13)


