ローマ5:1-11「栄光の希望を誇る生活」
聖書 ローマ5:1-11
説教 「栄光の希望を誇る生活」
メッセージ 堀部 舜 牧師

1このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。2わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。3それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。5そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。6わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。8しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。9わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。10もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。11そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
ローマ5:1-11
私は、4月の転任・結婚を機に、朝の聖書の時間を見直しました。時間と場所を整えて、新しいやり方で聖書の時間を持ち始めて、大きな恵みを頂いています。 ▽かつては、朝に聖書を開いて、襟を正して30分、1時間と祈り続けて、ようやく喜びと確信が湧く時が多くありました。弱さや罪を感じ、霊的な活気を感じない時は、恵まれるために一生懸命聖書を読んだり、必死で祈ったりして、恵みの内を歩もうと苦労していました。 ▽しかし、数年前から、罪深さや弱さや苦い思いなどを感じるそのままの姿で、イエス様の恵みに信頼して御前に出る時に、直ちに恵みを頂くことができることを知りました。それ以来、(今でもいろいろな感情や雑事に心を散らすことはありますが、)毎朝の聖書の時間に、より短い時間で、神様の平安と喜びを感じ始めるようになりました。楽しく祈りを続け、恵みを感じながら、喜んで一日を歩めることがとても多くなりました。
今日の聖書箇所は、罪を赦されたクリスチャンに、今与えられている恵みを述べています。「神の国は…、義と、平和と、聖霊における喜びとである」[1]という恵みが、コンパクトにまとめられています。
神の平和
1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
「神に対して平和」は、罪を赦された私たちに与えられる祝福です。「平和」とは、ヘブライ語の挨拶に使われるシャロームに対応する言葉です。ただ争いがないだけではなく、人と人が幸福に共存する、完全な、満ち足りた幸福の状態を表わします。 ▼旧約聖書は、完全な平和が、終わりの日に救い主によって実現されると、繰り返し預言しました。たとえば、来るべき救い主は「平和の君」(イザヤ9・6)と呼ばれ、有名なキリスト預言で、「彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え」と言われています(イザヤ53・5)。 ▼新約聖書では、「キリストはわたしたちの平和であって」と言われます(エペソ2・14)。また、イエス様は、十字架の危機を目前にした弟子たちに「わたしにあって平安を得るため」と言われ(ヨハネ16・33)、復活後にもユダヤ人を恐れていた弟子たちに「安かれ」と言われました(ヨハネ20・19~21)。主イエスの平和は、厳しい試練の中でも決して揺らぐことのない平和です。
2a わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、…
「導き入れられた」という言葉は、「近づくことができる」とも訳されます[2]。ある学者によれば、「王様や、神のような高い地位にある人の前に近づいたり、紹介される特権」を意味します。私たちは、いつでも御前に立ち、臨在と恵みにあずかることができる特権を頂いています。
栄光の希望
2b そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
「喜ぶ」は「誇る」とも訳されます[3]。「誇る者は主を誇れ」[4]と同じ言葉です。神の恵みを、一番の宝として愛し、「私はこんなに素晴らしい恵みを頂いているんだ」と誇らしく喜ぶことです。
「望み」は、将来起こることへの「希望」です。▼私たちは、はかなく小さな存在で、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている、やがて死ぬべき存在です。 しかし、神様は、そんな私たちを「ご自身の栄光と徳とによって」くださり(2ペテロ1・3新改訳2017欄外注)、「神のご性質にあずかる者」(同1・4)としてくださると約束しておられます。 ▼再臨の時、私たちが「(キリストの)まことの御姿を見る」ときに、「(キリスト)に似るものとなる」になるのです(1ヨハネ3・2)。神の像、栄光あるキリストの似姿に変えられることこそ、私たちの希望です。
この希望を確かにする、目に見えるしるしが、洗礼と聖餐です。私たちは、洗礼によってキリストに結ばれ、聖餐によってキリストの内にとどまり、希望を堅くされます[5]。聖霊が私たちの内におられることは、約束を保証するしるしです[6]。

苦難を越えた希望
しかし、現実を見る時、私たちは、日々の事柄に追われ、様々な課題に苦しみ悩む現実があります。しかしパウロは3節で言っています。
3a それだけではなく、患難をも喜んでいる。
苦難をも喜ぶことは、将来の希望に基づきます。
▼私は信じて間もない頃、環境の大きな変化に圧倒されて、先が見えない苦しみを感じていた時期がありました。当時は、今を生きることに精一杯で、天国は信じていましたが、やがて来る天国が、今の私にどんな意味があるのかを知りませんでした。しかし、ある時、聖書に出てくる天国[7]の様子を思い浮かべさせられた時に、何とも言えない生きる力が湧いてきたのを覚えています。 ▽天国の希望は、苦難の中で、今を生きる力を与えてくれます。
「(苦難さえも)喜ぶ/誇る」という言葉の語源は、「(神様から来る確信に立って)頭をまっすぐに上げる」という意味だそうです。苦難のただ中でも、全てを支配しておられる神の確信に立って、栄光の希望を見上げて、まっすぐに見上げるかのようです。 ▽苦難は、クリスチャンが必ず経験することです。私たちは、「苦難を通して」神の栄光へと召されています[8]。私たちがキリストと共に苦しみを受けるのは、キリストと共に栄光を受けるようになるためです[9]。 ▽パウロはこの3節で、私たちは、苦難のただ中で誇るだけではなく、苦難そのものを誇ることができるのだ、と言っています。その理由が続けて記されています。
3b なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
宗教改革者ルターは、神は、人の信仰を強めようとする時、彼を多くの悩みに投げ込んで、弱り疲れ果て、絶望の淵に追い込まれるようにされる、と言います。その中で神様は彼に、静かに耐える力をお与えになります。その静けさこそ忍耐であり、忍耐は練られた品性を生みます。やがて嵐が去ると、彼は主の御守りに気づき、神をほめたたえます。その人は、次に別の苦難が来ると、主に信頼してすぐにみもとに駆け寄り、助けを求めます。この飢え渇きが希望であり、その希望は失望に終わることはない、とルターは言っています。
19世紀の説教者スポルジョンは、このような忍耐は、私たちの自然の性質から出るものではない、と言います。苦難は、私たちの自然な反応では、忍耐よりもむしろ、いらだちや不信仰、反抗心を引き起こします。苦難の中で忍耐を生むのは、私たちの内で働く聖霊の御業です。スポルジョンはこう言っています。「泳ぐことは、実際に泳ぐことによって身に着くように、忍耐は、忍耐することによってのみ身に着けられる。神のあらゆる御心に従順に従うという、魂のあの美しい落ち着きを自分のものにするためなら、苦難には耐える価値がある」[10]。「どうか主よ。私の悩みを取り除いてください。しかし、何よりも私の短気を取り除き、あなたの忍耐を私の心に植え付けてください」と。
5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
通常は苦々しさや憤りを生むだけの苦難が益となるのは、「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」からです。この愛が、私たちの心を溶かし、御心に柔和に従う品性を生み出します。
苦難の中で、忍耐が押し潰されそうな時に、押し潰されないのは、この神の愛の働きです。愛は「すべてを耐える」からです[11]。苦難の中で、神の愛が私たちを守ってくれる、とパウロは言います。
「失望に終ることはない」は、パウロが繰り返し引用するイザヤ書のキリスト預言の言葉です。 ▽パウロ自身、数えきれない命の危険の中で、この御言葉に信頼して、何度も救い出されたのではないでしょうか。私たちも、ただ主に希望を置き、主を誇る者としていただきましょう。「信ずる者はあわてることはない」(イザヤ28・16)[12]。

罪人として御前に立つ
6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7… 8しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
18世紀の英国・国教会では、罪の赦しについて、私たちとは異なる考え方が一般的だったようです。神様が、恵みにより、イエス様の身代わりによって罪を赦してくださるのは、「罪を憎み、与えられている恵みを用いて勤勉に努力し、誠実な心で歩む人」だと考えられていました。「誠実さ」や「悔い改め」が、義とされる条件と考えられていたようです。 ▽メソジスト運動の指導者ジョン・ウェスレーは、このように信じ、誠実に歩んでいましたが、やがて、自分の最善の誠実さの内にも罪が潜んでいることを知り、さばきを恐れ、絶望に追いやられました。 ▽その時に、ウェスレーが学んだのは、罪を赦されるのは罪人であり、不敬虔な者だということでした。私たちは、「罪のほかは何も差し出すもののない、…全くの罪人」として神の御前に出ます。その時初めて、私の罪の救い主として主イエスを見上げることができ、その信仰によって罪を赦され、義と認められるのだと、ウェスレーは教えました。私たちは、罪のただ中で、罪に満ちたありのままの姿で、打ち砕かれた心を持って御前に出ます。罪のただ中こそ、私たちがキリストによって神の前に出る場なのです。
罪の赦しは瞬時のみわざ
ウェスレーは、罪の赦しは一瞬の御業だと教えました。多くの人が、罪の赦しを徐々に経験するのは事実です。また、生活の実質的な変化(「聖化」)が徐々に起こることも、間違いありません。しかし、「罪の赦し」に関しては、本質的に神の行為である以上、人間の条件が満たされさえすれば、即座になしてくださる、とウェスレーは理解しました。 ▽私たちの生活や理解、感情は、時間をかけて変化します。しかし、「罪の赦し」に関しては、私たちの側の条件は、ただ信仰のみです。内面の誠実さや悔い改めの状態にはよりません。神の側では備えはできているのだから、私たちが信仰を持った瞬間に、罪を赦すことがおできになるし、そうされるのだ、とウェスレーは教えました。 ▽罪を赦される前に、もっと祈らなければ、罪を離れなければ、もっと聖書を読んで、悔い改めなければ、と言うべきではありません。それは、罪の赦しに、信仰以外の条件を加えること、行いによって赦しを求めること、キリストだけに信頼しないことだと、ウェスレーは言います。
▽神は、「ありのままの罪人」に、恵みをくださいます。そうであるならば、私たちがイエス様により頼むならば、今にも、その恵みをくださるのだ、というのです。 ▽なぜ御業は即座になされるのでしょうか? それは、罪の赦しが「恵みのみ」だからです。「行いによらず、信仰のみによる」のだから、「罪あるありのままの姿で」御前に出ます。「ありのまま」なら、「今」、求めることもできるのだ、とウェスレーは教えました。
救いの証しは十人十色ですが、クリスチャンは皆、罪のただ中から、ただ恵みにより、信仰のみで救われました。これが、私たちがかつて救われた場所でした。
義認の恵みは、将来の希望を確かにする
9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。10もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
パウロは、「既に」受けた恵みに基づいて、「将来」の希望の確かさを強調します。
私たちは、かつては神に背く者でしたが、今は神を信じる者になりました。
かつては敵でしたが、今は神の子とされ、神の友とされました。
かつて、イエス様は不敬虔な者のためにさえ死んでくださったのだから、さばきの日には、神を信じる私たちを守ってくださいます。
かつて、敵のためにさえ死んでくださったのだから、再臨の時には、友とされた私たちを、主イエスの栄光の似姿に造り変えてくださいます。
義認の恵みは、今を生きる力を与える
その喜びは、将来だけのものではありません。
11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
既に受けている恵みと、将来の希望の確かさによって、私たちは今、神ご自身を喜び、誇ります。
かつて、私たちが神に背き、罪に甘んじ、罪を喜んでいた時に、主は私たちの罪を赦し、罪に打ち勝つ力を与えてくださったのですから、
今、私たちが罪を憎み、罪と戦っているのなら、主ご自身が私たちの喜びとなり、誘惑の時の避けどころとなってくださいます。
かつて、私たちが神から離れて、恐れと不安の中にいた時に、主は喜びと平安と勇気と愛を与えてくださったのですから、
今、私たちが主にあって生きているのなら、主は苦難の中でも変わらない勇気と平安、希望と喜びを与えてくださいます。
かつて、私たちが敵であった時に、主は全ての苦難から救い出して下さったのですから、
今、私たちを友としてくださったのなら、試練の中でも、人知を越えた平安と希望と喜びをくださり、聖霊による愛と忍耐を与えてくださいます。
義認の恵みにとどまる方法
かつて、恵みのみで受けたのなら、
今も、恵みのみで受けます。
かつて、ありのままの罪の中で御前に出たなら、
今も、弱さと汚れ、沈滞のただ中で御前に出ます。
かつて、主イエスへの信仰のみで恵みを受け取ったのなら、
今も、信仰のみで受け取ります。
かつて頂いた赦しの恵みが、即座に受けることができるなら、
今も、聖霊による平安と喜び、忍耐と愛を、即座に与えることがおできになります。
イエス・キリストだけに信頼して、求めるなら、そうしていただくことができるのです。
11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
[1] ローマ14・17
[2] エペソ2・18、3・12
[3] 協会共同訳:「(神の栄光にあずかる希望を)誇りにしています。」
[4] 1コリント1・29~31
[5] 洗礼:ローマ6・3~4、聖餐:ヨハネ6・53~58
[6] エペソ1・13~14、2コリント1・21~22
[7] 新しいエルサレム:黙示録21・10~27
[8] 1ペテロ5・10
[9] ローマ8・17
[10] 参照:ヘブル12・11、ヤコブ1・3~5、12
[11] 1コリント13・7


