2コリント3:16–18「栄光から栄光へ、主と同じ姿に」
聖書 2コリント3:3–6, 16–18
説教 「栄光から栄光へ、主と同じ姿に」
メッセージ 堀部 舜 牧師

3そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。4こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。5もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。6神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
16しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。17主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。18わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
2コリント3:3–6, 16–18
【先週の創立記念礼拝から】 先週は、濱和弘先生ご夫妻をお招きして創立記念礼拝を持ちました。私はその枝先生の証しも心に残りました。濱先生の心臓手術後に、その枝先生が3つの教会の礼拝と祈祷会の奉仕を休みなしに担われました。その枝先生は、教会にいるといろいろな心配や心が張り詰めてしまい、別の教会での奉仕に移動する時間が、祈りや心を休める時間になったというお証しが心に響きました。「汝ら静まりて我の神たるを知れ」(詩篇46:10)。「わが恵み、汝に足れり」(2コリ12:9)。子どもの頃にお母さんからいつも聞いていた御言葉。その後もいつも心に響いていたこの御言葉が、今回も支えてくれたという証しでした。

今日は母の日の礼拝ですが、母親は、本当に多くの仕事をこなしていかれるのだなと思います。家族のために、何年も続く、愛の奉仕を通して、お母さんたちの人格が練られ、形成されているのだろうと思います。
家族の中での父親の役割を教える本の中で、アメリカのブッシュ(子)元大統領の言葉がありました。政治家としては賛否両論あるかと思いますが、彼は父親としては素晴らしい父親であるそうです。彼はこう言ったそうです。「夫となり、それから父親となったことは、私の人生の中で最もよかったことの一つだよ。そのおかげで、昔の自分よりももっとよい人間にならざるをえなかったからね。」家族を担い、父親としての役割を果たすことによって、私たちは男性としてさらに成長していくのだ、と著者は述べています。
ちょっと考えてみましょう。妊娠中の妻が欲しがっているピクルスサンドを作るために、誰が午前2時に起きたいと思いますか。ママが少しでも休めるようにと、…赤ちゃんをベビーカーに載せて10回以上も散歩に連れて行きたいと思いますか。病気だった子どもの部屋を掃除したり、お泊まり会の後でくしゃくしゃになったシーツを取り替えたり、どうしてもしつけを必要としている十代の子どもを指導することはできますか。結論から言えば、父親として優勝したいと願っている人以外には、誰にもできないのです。[1]
こんなに完璧な父親・母親であることはできなくても、これが、お父さんたち・お母さんたちの肩に乗っている愛のニーズであると思います。

1.文字と霊 3:6
私たちは、このような「愛に生きたい」という願いを、いつの間にか「こうあるべき」という重荷に変えてしまうことがあります。「良い父親は、こうあるべき。」「良い母親は、こうあるべき。」「良い信仰者は、こうでなければならない。」… 倫理や目標は大切ですが、「こうあるべき」という基準が外側から自分を縛るものになると、心が苦しくなり、他人を判断・評価するようになると、組織がぎすぎすしてきます。
そのような問題は、コリント教会の中にもありました。コリントのある人々は、自分たちこそ霊的であり、より優れていると思っていました。知識があり、霊的な賜物がありますが、かえって分裂や争いや高慢が生まれていました。[2] そこでパウロは、「本当に霊的とは何か」を語り直します。
3:3…あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
私たちの教えは、命のない石の板に書き記された教えのようなものではありません。私たちの生きた心に書き記された教えです。墨によって書かれた外側のルールによって行動だけを変えさせるものではありません。神の御霊が私たちの心を造り変え、喜んで従う霊を与えて下さり、私たちは心からその教えに従うことができるようになります。
3:6c 文字は人を殺し、霊は人を生かす。
文字とは何でしょうか?石の板に書かれた十戒のような、「あれをしてはならない」「これをしなさい」という外から与えられた命令です。律法は「どう生きるべきか」を示しますが、外側からの命令だけでは、人の心は変わりません。
2.主へ向き直る 3:16–17
3:16-17 16しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。17主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
この箇所は、神様と顔と顔を合わせて語り合ったモーセの顔が光り輝いた時、イスラエル人が神の栄光を見て滅びるのを恐れたために、モーセが顔に覆いをかけた箇所を反映しています。モーセが「主の前に行った」という旧約聖書を解釈して、パウロは新約の時代では「立ち返るべき主とは、聖霊のことである」と教えます。
私たちの顔を覆う「おおい」とは、神の栄光を見るのを妨げるものであり、聖書の真理を悟る理解力を妨げる「おおい」です。[3]

3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
「主に立ち返る」ということが、この箇所の鍵であることが分かります。この箇所をもう少し読み込んでいきたいと思います。
【適用①まだ信じていない方に】 この箇所はまず、キリストを救い主としては知らない方たちを指して言われています。「イエス様が素晴らしい方だとは信じるけれども、神の子だとは思わない」あるいは、「イエス様を神の子だと信じるけれども、他の神様も信じている」という方が、結構おられます。「それが分かったら、信じる」という方がおられます。でもそれは、順序が逆なのです。「分かったら信じる」というのは、「目の覆いが取り除かれたら、立ち返る」ということです。しかし16節の教えは逆で、「主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」のです。――どうすれば良いのでしょうか?神に祈るのです。求めるのです。「目を開いてください」「あなたが神であることを分かるようにしてください」「私の救い主となってください」と願うのです。それが主に立ち返ることです。そうすれば、「おおいは取り除かれる」。――これが、主の約束なのです。
【適用②信仰者の恐れ・不安】 私たちの顔の覆いは、信仰に入る時に、決定的に取り除かれるのですが、その後の歩みにも当てはまりそうです。ある神学者は、「私たちクリスチャンの多くが、口で信仰を告白しても、実際は神様を信じない無神論者のように生活している」と言いました。
私たちクリスチャンの多くが捕らわれる「覆い」の一つに、「恐れと不安」の覆いがあります。恐れと不安の中で、共におられる神様の力と恵みが見えなくなるのです。①物質的な必要に関する不安にとらわれてしまう。②「失敗したらどうしよう」「人からの評価や批判を恐れての不安」が頭から離れない。
こんな時、どうしたらいいのでしょうか?「主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」のです。▼神の前にひれ伏して、祈り求めるのです。▼御言葉を探し求め、祈り求め、与えられた約束の御言葉を握って祈り求めるのです。そのようにして「主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」。▼「心が穏やかに落ち着いたら祈る」のではありません。「嵐のただ中で主に立ち返って、心の目が開かれることによって、神様への信頼が湧き、嵐の中で進む力が与えられる」のです。
【適用③信仰者 不満・怒り】 もう一つの「覆い」は、不満と怒りです。「私は認められていない」「なぜ私だけこうなるのか」「私は罪深すぎる」「なぜあの人はこうなのか」。自分の惨めさや他人と比較して不公平さに不満が募り、神様を見るよりも、人に目が行き、自分自身に目が行き、神の恵み深さと素晴らしさが見えなくなってしまうのです。
▼どうしたら良いでしょうか? ▽私たちは人を変えることはできません。▼私たちが直ちにできるのは、「主に向き直る」ことです。「主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」――惨めな思いや怒りに留まる必要はありません。聖霊なる主に向き直る時に、人には認められなくても、いつでも認めてくださる神の恵み深さに目が開かれます。その時に、置かれている状況への見方が変わり、周りの人への見方が変わり、置かれた状況で冷静に最善の対応をすることができます。
3.御霊の自由 3:16–17
2コリント3章は、美しく恵み深い表現に満ちています。しかし、ここに戦いがあることを見落としてはなりません。――このどこに戦いがあるのでしょうか?
「主に向く時には」です。私たちの罪深い性質は、主に立ち返ることを拒むのです。▼「私は罪深いから」「私は信仰者ではないから」と言って、主の招きを拒むのです。「これで良いのか」知的な迷いが、心理的な抵抗が、「主に立ち返る」ことを迷わせるのです。ここに戦いがあります。▼「恐れや不安」に襲われる時に、不安な状況そのものから目を離すことを恐れるのです。「怒りや不満」を抱いている時、自分自身が大きくなってしまい、自分の思いを横に置いて主に目を向けることが難しいのです。ここに、信仰の戦いがあります。
これが一般に「自己否定」と言われます。自分の思いを横に置いて、いろいろな考え、不安な状況、人への不満、混乱した思いのただ中で、神に思いを向けることは、心のエネルギーを要することです。思いが強ければ強いほど、何度も何度も心を向けなければ、すぐにまた自分の思いに飲み込まれてしまいます。
それぞれが特に試みを受ける分野は異なっていると思います。私はしばしば経済的なことやいろいろな「不安」でいっぱいになってしまうことが多くありました。別の人は、自分の「罪深さ」のために、ありのままで受け入れてくれる神の愛を信頼できないという方もいると思います。「人と対立することを恐れて」、毅然として言うべきことが言えず、なすべきことができないという人もいると思います。神や人への不平不満を抑制して神に祈るのが難しい人もいると思います。領域は人それぞれでも、その傾向を知り、神が私たちに抱いておられる願いを知り、「その恵み深い神に立ち返る」ことが大切です。

その先に、自由があるのです。
17b …主の霊のあるところには、自由がある。
それは、自分の欲望に従って生きる自由ではありません。神の喜ばれる「神を愛し、人を愛する」生き方を、喜んで生きることのできる「自由」です。不安や恐れに縛られることなく、人との比較や劣等感から自由になり、怒りや不満で消耗することなく、神の力を頂いて、愛の内を歩む自由です。それは、自分の権利を主張することよりも、むしろ愛と節制の先にある自由であり、規律と自己否定の先にある自由です。
◆習慣
18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
私たちクリスチャンは、ひとたび顔の覆いを取り除かれて、救い主イエス様を知ったなら、たびたび何か覆いをかけられたり、取り除かれたりするわけではありません。でも、絶えず「主の栄光を鏡に映すように見つつ」、「主と同じ姿に変えられていく」。それは、モーセがしたように絶えず主の方を向いて、主を見つめ続けることからきます。ちょうど、向日葵が太陽の方を向き続けるように、クリスチャンはいつも神様に向かって、その光を浴び続ける時に、その本来の姿を表すことができます。
こうした「主へ向き直る」歩みの積み重ねが、少しずつ人格を形作っていきます。
【Yさんの礼拝出席】 教会員のYさんは、若い頃に信仰を持ち、結婚して仕事が忙しくなり、教会を離れてしまいました。年を取ってから、さとごのMさんの勧めで教会に戻りました。88歳になり、体力の衰えを感じておられますが、毎週の礼拝を休むことはできないとおっしゃいます。かつて教会から離れてしまったように、もし礼拝に行かなくなれば、自分の信仰も離れてしまう可能性があると。YouTubeで礼拝を視聴することもできますが、毎週礼拝堂で礼拝を守っておられます。YouTubeなら自宅の居間でパジャマ姿で見ることもできてしまうけれど、きちんとした服装で教会に来ることで気持ちも違ってくる、と言っておられました。良い習慣に支えられた信仰の姿です。
【デボーション】 私は若手の男性たちとデボーションと学びを続けていて、毎日、決まった時に御言葉に思いを巡らす時間を持っています。それによって神様に思いを向け、神様と共に歩み、仕事や日常の試練の時にも、神様の前で歩み続ける習慣を身に着けようとしています。S兄も、仕事の中で、御言葉を思い出すことがあると、学びの時に話してくれます。
私たちがなすべきことは、自分の力で人を変え・環境をコントロールすることではありません。覆いを取り除くのも、主の栄光が私の顔に映し出されるのも、主と似た姿に変えられていくのも、主である聖霊がなされる働きです。私たちがなすのは、「主に立ち帰り」「主の方に向き直り続ける」ことです。

◆神の恵みに導かれ続ける
神の恵みの内に導かれ続けた方の証しを、日本聖書協会の聖書エッセイから紹介します。エッセイのタイトルは「私につながっていなさい」です。
私が小学四年生のとき、母が病に倒れた。父は早くに天に召され、母は女手ひとつで私たち兄妹4人を育てていた。「母子家庭だから」と後ろ指を指されたくない、そう思って無理を重ねていたのだろう。母の顔は日に日に土気色になっていく。やっと医者に診てもらった時には、一刻も早く胆のう摘出手術をしなければ命の危険さえあると言われた。身寄りの少なかった私たちはそれぞれ、親戚や篤信なクリスチャンの友人に別々に預けられることになった。
私は同じ教会に通う教会員のご家庭に預けられた。歳の近い子どもたちが住んでいたこともあり、最初の数日こそ楽しく過ごしたが、しょせんは肩身の狭い居候生活である。他人の善意に甘えていることは幼心にも理解していたので、やがて全てに遠慮がちになった。ひと月、ふた月が過ぎても母は退院する気配がない。このまま家族が離れ離れになるのではないかという漠然とした不安が、重く心を覆っていった。
そんな私を見かねてか、ある時おばさんが自分の好きな聖書の箇所を教えてくれた。「私はまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「私につながっていなさい。」「その人は実を豊かに結ぶようになる。」
現実は家族がバラバラになり、明日どうなるかもわからない境遇だった。そんな自分に「私につながっていなさい」と語りかけるその言葉。心地よい旋律のような響きは私の脳裏に刻み付けられた。しかし、それが聖書のどこに書いてあるのか、その時はおばさんに遠慮してついに聞くことが出来なかった。
それから程なくして母は退院し、幸いなことに私たち家族はまた一緒に暮らすことができるようになった。血色の戻った美しい母の頬っぺが嬉しかったのを覚えている。
わが家に帰った私は、学習机に立て掛けてあった自分の聖書を、ほとんど初めて自分の意思で開いた。あの言葉はどこに書いてあるのか。パラパラ漫画の落書きが端に描いてある聖書のページを、漫画には目もくれずにめくっていった。
学校帰りの午後、数日を要したと思う。族長アブラハムの物語が終わり、私と同じ名前の預言者エリヤの物語も過ぎた。イザヤ書の預言の言葉がなんとなく似ていて、読み落としたかともう一度読み返したがあの言葉は書いていなかった。
そしてついにイエス様の物語である「ヨハネによる福音書」の中に、その言葉を見つけた。小声で声に出してその箇所を読み、それから声を押し殺して泣いた。その言葉を言ったのは・・・十字架刑で殺される直前のイエス様だったのだ。「私につながっていなさい」。この聖なる御言葉はその時私の一部になった。
あれから時を経て、言葉の力を信じる者になった私は本屋のオヤジになった。それも聖書を売っている特別な本屋だ。私は今日もお客様を心からお迎えしている。あの時の可哀想だった自分を救ってくれた「聖書」の言葉を、今は手渡す人になっているのだから。[4]
主に立ち帰り、主を見つめ続ける者を、聖霊は少しずつキリストの姿へ変えてくださいます。
18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
【祈り】
天の父なる神様。私たちを主イエスの恵みによって捕らえ、顔の覆いを取り除き、主を知る者としてくださったことをありがとうございます。主の栄光を映す者・主と同じ形に姿を変えてくださることをありがとうございます。恐れや自己中心によって、主を見るよりもむしろ自分自身の思いに留まることの多い者です。あなたに立ち帰った者として、絶えずあなたを見つめ、あなたの豊かな恵みの内を歩み続ける者として、聖霊の恵みの豊かさの内を歩ませてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。
注
[1] グレゴリー・スレイトン「働き方改革より父親改革」p45-50
[2] 【優越感】コリントの一部のクリスチャンは、互いに自分が他の人よりも優れていると考えて、「一方にくみし、他方に反対して思い上が」っていました(4:6-7)。【ねたみ】彼らの間には「ねたみや争い」がありました(3:3)。▽【霊の賜物】彼らは霊の賜物を熱心に求めたのですが、それが謙遜と一致ではなく、優越感と混乱を生んでいました(12-14章)。また、自分こそ霊的だと思っていました(14:37)。
こうしたコリント教会の高ぶりと混乱と分裂した状況のために、パウロは謙遜な愛と一致を求めて手紙を書きました。
1コリント1:10bみな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。
1コリント8:1 知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。
有名な1コリント13章の愛の教えも、この文脈で言われています。
[3] この箇所は解釈が難しいですが、基本的に出エジプト記34章のモーセの記事を、パウロが解説しています。パウロは、この出エジプト34章の記事を、新約聖書の時代に読み替えています。出エジプト34:34aに「…モーセは主の前に行って主と語る時は、出るまで顔おおいを取り除いていた」とあります。2コリント3:17の「主は霊である」とは、出エジプト34:34の「主」を新約の背景で再解釈して、「聖霊のことだ」と述べているのだと理解できます。つまり、「人が主に立ち返るとき」=「聖霊に向き直る時」、私たちの目を曇らせる覆いが取り除かれるのだと、パウロは教えています。
[4] 第1回 聖書エッセイコンテスト アワード 準大賞 吉國 選也 「私につながっていなさい」

