1サムエル15:17-28「人が選ぶ王、神が退ける王」
聖書 1サムエル10:17-27、15:17-28
説教 「人が選ぶ王、神が退ける王」
メッセージ 堀部 里子 牧師

19しかしあなたがたは、きょう、あなたがたをその悩みと苦しみの中から救われるあなたがたの神を捨て、その上、『いいえ、われわれの上に王を立てよ』と言う。それゆえ今、あなたがたは、部族にしたがい、また氏族にしたがって、主の前に出なさい」。…
24サムエルはすべての民に言った、「主が選ばれた人をごらんなさい。民のうちに彼のような人はないではありませんか」。民はみな「王万歳」と叫んだ。25その時サムエルは王国のならわしを民に語り、それを書にしるして、主の前におさめた。こうしてサムエルはすべての民をそれぞれ家に帰らせた。
Ⅰサムエル10:19,24-25
17サムエルは言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。…
22 サムエルは言った、
Ⅰサムエル15:17,22-23
「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、
燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。
見よ、従うことは犠牲にまさり、
聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
23 そむくことは占いの罪に等しく、
強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。
あなたが主のことばを捨てたので、
主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。
おはようございます。去る一週間はサッカーワールドカップ、バレーボールネイションズリーグがあり、日本列島が湧きました。一方で台風が駆け抜け、地震も頻繁に起きた一週間でした。主の守りがありますように。
先週、夫の知り合いのクリスチャン親子に会いに行ってきました。お母さまの家系はクリスチャンで、疎開先は岩手県一関市でした。ある日、おばあちゃんがお祈りをしていると、神様から「向こうに逃げなさい」というメッセージが心に迫ってきたそうです。近所の人たちにも逃げるように伝えたそうです。おばあちゃんの言うことを信じて逃げた人は、北上川の水害を免れて命が助かったそうです。
今日の大きなテーマは「神様の声に聞き従う」です。私たちはどのように神様の声に聞き従えばよいのでしょうか。

後継者問題
現代社会では企業でも政治でも教会でも 「誰を次のリーダーにするのか」は大きな課題です。後継者を選ぶ基準は何でしょうか。能力がある、人気がある、人望がある、見た目が立派で実績がある。。。いろいろな基準があると思います。しかし歴史を見ると、人が最高だと思って選んだ人が、必ずしも最後まで良いリーダーとは限りません。ヒットラーは、「この人なら国のために変革をしてくれるだろう」というドイツ国民の期待を受けて、選ばれたのですが、権力を持つと次第に独裁政権となり、結末は歴史に不名誉な汚点を残すこととなってしまいました。
さて先週、イスラエルの民が「私たちも王が欲しい」「周囲の国のようになりたい」とサムエルに訴えた場面からメッセージを聞きました。それまでイスラエルの国は、他の国々とは違い、神が王として国を導き、神が預言者やさばきつかさをリーダーとして立てていました。預言者サムエルが年老いて、息子たちがさばきつかさとして任命されたのですが、「その子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた」(8:3)と聖書は記しています。ですから、イスラエルの長老たちはサムエルに言いました。「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」(8:5)
そこで神はサウルを王として立てました。しかし彼は、最終的に神から退けられる王となってしまいました。今朝はサウロがなぜ選ばれたのか、そしてなぜ失脚してしまったのかという点から、9章~15章全体で大切な箇所をピックアップしながら学んでいきたいと思います。先ず、サウルはどんな人で、どのように王に選ばれていったのかを9章から見て参ります。
人は外側を見るが、神は心をご覧になる
Ⅰサムエル9:2を見ると、サウルの描写があります。「若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高かった。」
サウルの外見は一番立派で、まさに王様らしい人物でした。神様はサムエルに前もって告げます。「あすの今ごろ、あなたの所に、ベニヤミンの地から、ひとりの人をつかわすであろう。あなたはその人に油を注いで、わたしの民イスラエルの君としなさい。彼はわたしの民をペリシテびとの手から救い出すであろう。わたしの民の叫びがわたしに届き、わたしがその悩みを顧みるからである」。(9:16)
神様はサウルに目を留められ、王として選び、サムエルに最初に告げました。しかし、大々的に「サウルが王となりました!」と宣言されるわけではありません。サウルは、いなくなった父親の雌ろばを捜している旅の途中でサムエルに出会い、サムエルから直接油を注がれ、王となることを告げられました。そのときを誰も見ていません。
油注がれた後、主の霊がサウルの上に激しく下り、サウルは新しい心を与えられました。しかし、サウルは家に帰っても王位のことについては誰にも話していません。どのように王となることが周りに知らされていくのでしょうか。10:17以下を読むと、サウルはくじによって選ばれます。しかし興味深いことに、そのときサウルは荷物の陰に隠れていました(10:22)。くじを引いたとき、サウルが選ばれるのを多くの民が見ていました。最初はサムエルしか知らなかった神様のご計画は、段階的に人々に明らかになっていくのです。
サウルは、外見は王にふさわしい人に見えたかもしれません。しかし彼の内面には 恐れがあり、人の目を気にする心でいっぱいで、自信がありませんでした。聖書が示すことは何でしょうか。
神はサウルを外見だけで選ばれませんでした。神は王として未熟なサウルに御霊を与え、新しい心を与え、預言をさせ、王として十分に歩めるよう段階的に備えてくださいました。
サムエルはすべての民に言った、「主が選ばれた人をごらんなさい。民のうちに彼のような人はないではありませんか」。民はみな「王万歳」と叫んだ。(10:24)
その後、民はギルガルでいえにえを献げ、主の前にサウルを正式に王としました。イスラエルの最初の王となったサウルの歩みはこのようにスタートしました。サウルは神の助けによって、周辺諸国との戦いに勝利していきます。

サムエルの警告
サムエルは12章で告別の辞を述べたとき、警告をしました。「あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。…しかし、あなたがたが、なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされるであろう」。(12:24-25)
しかしサムエルの警告も空しく、時間と共にサウルは徐々に神の御心から外れていくのです。確かに神に選ばれた王でした。しかし、つまり問題は能力不足ではありません。神の恵みを受けながら、それを保ち続けなかったことでした。
サウルはなぜ退けられたのか
サウルの最初の大きな失敗は13章にあります。ペリシテ人との戦いの後、サムエルが来るまで待つように命じられていましたが、兵士たちが散り始めたため、「このままではまずい」と思い、本来なら祭司であるサムエルが成すべき献げものを自分勝手に献げてしまったのです。
そして決定的な失敗は15章です。アマレク人との戦いがありました。神は「そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな」(15:3)と命じられました。しかしサウルは、値打のないものだけを聖絶し、最も良い羊や子羊、牛を惜しんで神の命令に従わず、残しました。そして王アガグを生け捕りにし生かしました。
そして帰って来ると、言い訳として「主にささげるため」でした、「わたしは主の言葉を実行しました」と言います。ところがサムエルは「この羊の鳴き声…は、いったい、なんですか」と問いかけます。問題は羊ではありません。神の言葉を、自分の判断で修正したことでした。サウルの本当の問題は何だったでしょうか。
「わたしは主の命令とあなたの言葉にそむいて罪を犯しました。民を恐れて、その声に聞き従ったからです。」(15:24)
ここが問題の本質ではないでしょうか。神を恐れるより兵たちを恐れたこと、神の評価より人の評価を選んでしまったことでした。さらに15:30ではサウロは、「どうぞ、民の長老たち、およびイスラエルの前で、わたしを尊び、わたしと一緒に帰って、あなたの神、主を拝ませてください」と頼みます。最後までサウルが気にしていたのは神ではなく人であり、世間体でした。
神が求める王とは
サムエルは言いました。「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。」(15:22)
神が求めておられるのは宗教行為ではなく、従順でした。王とは自分が思い通りに支配する人ではなく、神の支配の下に立つ人であるべきでした。神に従えない王は、どんなに有能でも、神の国では失格なのです。
私たちも同じ誘惑があります。人からどう思われるか、どう評価されるか、成果が出るか、人気があるか、それらが、神への従順より優先されるなら、私たちもサウルと同じ道を歩むでしょう。教会でも、家庭でも、職場でも、神は成功より従順をご覧になります。
その後、神様はダビデを選ばれますが、ダビデも大きな失敗や罪をいくつも犯しました。バテシバとの罪、ウリヤを死に追いやったりもしました。しかし、サウルは自分を正当化して人のせいにすることが多かったのに対し、ダビデは罪を示されたとき、心から悔い改めました。神様は完全な人を求めたのでなく、神の前でへりくだり、悔い改める心を重んじられたのです。
「ホーリネス弾圧」のこと
「昭和のホーリネス弾圧」と呼ばれる出来事が1942年(昭和17年)に起こりました。4月頃からホーリネスの牧師たちへの監視が強まりました。そして、1942年6月26日に一斉検挙が始まりました。100名以上の牧師や伝道者が拘束されました。その時代、日本の教会は大きな試練を経験しました。表向きの容疑は「治安維持法違反」でした。実際には、「神の国」を宣べ伝えることが国家体制に反すると疑われ、当時の国家は天皇を神として礼拝することを求めました。ホーリネス教会の多くの牧師・信徒は、天皇を敬うことと、天皇を神として礼拝することは違う、という聖書的立場を守りました。その結果、逮捕され、投獄され、拷問を受け、教会は解散へと追い込まれました。
彼らはサウルとは逆の選択をしました。サウルは神より人を恐れました。ホーリネスの信仰者たちは人より神を怖れました。私は、これは反国家的だったのではなく、むしろ聖書が教えるように、為政者を敬い、祈る姿勢を持ちながらも、「礼拝は神のみにささげる」という十戒の第一戒を守り抜いたのだと思います(出エジプト記20章、使徒の働き5:29)。これはまさに、「従うことはいけにえにまさる」を命がけで生きた証しでした。
サウルの失敗を見ると、私たち自身も「人の目を恐れる弱さ」を持っていないでしょうか。どんなに良いスタートを切っても、最後まで良い状態を保つことが大切です。しかし、一度失敗したら終わりではありません。サウルの場合は、神の言葉よりも、自分の判断を繰り返し優先し、指摘されてもその責任を人々や周りの状況に向ける傾向が続いたことが王としての使命を失うことのつながったと思います。「心変わり」という言葉がありますが、サウルは心の向きが神様から別のものへ変わっていき、恐れが神への信頼に優ってしまったのでしょう。サウルもそのことを認めています。
サウルの生涯の最期は、可哀そうなくらいです。私たちはサウロの失敗から、「神様との関係を最後まで歩み続けることの大切さ」を教えられます。神はサウルの後に、「神の心にかなう人」であるダビデを立てられました。そしてダビデの子孫として、完全な王である主イエス・キリストを遣わされました。イエス様だけが、十字架に至るまで、完全に父なる神に従われた王です。私たちはその王に従う民として召されています。
私たちは今日、誰の評価を最も恐れて生きているでしょうか。人でしょうか。世間でしょうか。それとも神でしょうか。サウルは、人の評価を選んで王位を失いました。ホーリネスの諸先輩方は、神への従順を選び、自由や地位を失っても信仰を守りました。
そしてイエス様は、天の父への完全な従順によって十字架に進み、私たちに永遠の救いをもたらしてくださいました。ですから私たちも、外見や成功ではなく、神の御声に従う者として歩んでいきたいと願います。



