マタイ10:1-8「いなくなった羊を探して」

2023年6月18日(日)聖霊降臨後第4礼拝 メッセージ

聖書 マタイの福音書10章1-8節
説教 「いなくなった羊を探して」
メッセージ 堀部 舜 牧師

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。

【今週の聖書箇所】

「1そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。

 2十二使徒の名は、次のとおりである。まずペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、それからゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。このユダはイエスを裏切った者である。

 5イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。7行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。8病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」

マタイ10:1-8

【結婚式】昨日は、教会関係の2組の結婚式がありました。▼結婚の誓約文に「健やかな時も、病む時も、互いに愛し、敬い、慰め、助け、生涯、夫婦としての責任を全うすることを約束します」とあります。この約束を通して、共に歩む歩みを始めます。

「夫婦は一体となる」とありますが、聖書によると、これは神(キリスト)と私たち(教会)の関係を反映しています。▽キリストは私たちを愛して、ご自分の命を与えられました。私たちはその愛に答え、キリストに従います。▽結婚関係は、間に誰かを入れることができない排他的な関係ですが、神との関係も、異なる神を間に入れることはできません。献身的な愛の関係であるからです。▽契約には、果たすべき責任が伴いますが、そのコミットメントと関係性の中でなければ、味わうことのできない喜び・一致・愛の交わりがあります。神との関係も同じです。▽夫婦は、喜びの日も悲しみの日も、苦難の日も栄光の日も、変わらず愛をもって共に歩みますが、同じように神は、どんな日も、苦難の日も喜びの日も、私たちと共にいて、私たちを愛し導いてくださいます。▼新しく夫婦になられたご夫妻と共に、私たちも、神との変わることのない愛の交わりを、一日一日、経験して参りましょう。

【文脈】今日の聖書の箇所を読んでまいります。▼主イエスはそれまでご自身で村々を回りましたが、今日の箇所では、弟子を派遣して、彼らが人々を教えるようになります。▼今日はこの箇所から、第一に「教会の土台としての主イエスの権威」、第二に「教会の柱としての召された人々」、第三に「教会の使命としての宣教の原則」について、見ていきます。

■【1.教会の土台――主イエスの権威】マタイ10:1

マタイ10:1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。

弟子たちが、「神の国」の使者として遣わされた鍵は、「権威」でした。▽教会は、人々が集まる共同体ですが、単なる人間の集まりではなく、神の権威に根差し・権威を委ねられた共同体です。それは悪霊を追い出し、あらゆる病気を癒す力を与える「権威」でした。

【例話:ブルームハルト牧師】 現代の日本では、悪霊の追い出しと言われても、不思議な感じがするかもしれません。1年前にもお話ししたエピソードですが、20世紀最大の神学者カール・バルトなど、多くのキリスト教指導者に深い影響を与えたブルームハルトという牧師がいました。理性と客観性を重視した19世紀のドイツの人です。

ブルームハルトが牧会する村の小さな教会の近くに、ある少女が引っ越して来ました。彼女のまわりには異常な現象が起き、突然発作で倒れたり、奇妙な音が聞こえたり、椅子がとびあがったり、窓が震えたりしたそうです。しかも、居合わせた人々が一様に経験したため、ブルームハルトはこれが単なる心理現象ではないことを認めざるを得なくなったと言います。

 ある時、彼が少女の家を訪ねると、彼女は恐ろしく身体をよじって痙攣させ、口から泡が流れていました。明らかに悪霊が働いていると思われる恐ろしい状況でしたが、ブルームハルトには何もできませんでした。ある種の怒りを覚えたブルームハルトは、少女の手を無理やり組ませて、意識を失っている彼女に大声で叫びました。「手を合わせて、主イエスよ、助けてくださいと、祈りなさい。私たちはずい分長い間、悪魔の仕業を見て来た。今度は、イエスがなさることを見よう」。すると、まもなく彼女は目を覚まし、彼が言った祈りの言葉を繰り返し、痙攣は全く収まったといいます。

この出来事は、ブルームハルトにとって転機となり、彼は悪霊と戦う方法を学びました。その後も、しばしば悪霊的な働きは強まり、異常な出来事が起こりましたが、主イエスの力が確実に少女に働き、彼が祈ると、彼女の状態が改善することが次々と起きていきます。そしてついに、最後の戦いがやってきます。

少女を襲っていた悪霊の力は、彼女の兄や姉にもおよび、その日は、それまでに経験したことがないほど激しく、「勝利か、死か」という状況でした。真夜中頃、少女の姉の喉から、15分間ほど続いたか、悪霊によると思われる絶望の叫びが発せられました。それは、家が壊れると思われるほどの、強く恐ろしい声でした。しかし、やがてついに、「最も感動的な瞬間」が来ました。朝の2時に、少女の姉は身体をのけぞらせていましたが、少女を支配していた悪霊が、人間の喉から出るとは思えない声で、「イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ」と、吠えるように叫んだと言います。――やがて、悪霊の力は、一瞬ごとに奪われていき、次第に静かになり、動きが鈍くなり、ついにはまったく認めることが出来ないほどに消えていきます。それは、死に向かう人の命の光が消えていくのと似ていました。すでに朝の8時頃になっていました。この後、少女たちの異常な現象は消えていき、再び起こることはありませんでした。少女はブルームハルトと共に働く協力者となります。▼しばらく後、ブルームハルトのもとに多くの人が押し寄せて来るようになり、信仰覚醒運動が起き、その中で多くの癒しが起きたといいます。

少女の口から出た「イエスは勝利者だ」という悪霊の叫びを聞いて、ブルームハルトは、「主イエスの勝利」とは、人間がどのような状況にあろうとも、揺るぐことのない客観的な現実であることを確信しました。彼は、この「神の国」の力ある現実に基づいて、全てのことを見て、理解することを学びました 。ブルームハルトは、キリストの権威は、力ある客観的な現実であることを教えています。[①]

【適用:病気・死・罪】 私たちの身の回りでは、少女のような悪霊の働きは少ないかもしれません。しかし、私たち全てが経験することに、病気と死があります。▽人は誰しも病に苦しみます。しかし、主イエスはあらゆる病気に対する権威を持っておられました。▽また、私たちは誰しも「死」を免れることはできません。しかし、主イエスはご自分の死によって、死を滅ぼして、ご自分の復活の命にあずからせてくださいます。

そして、もう一つ、人間を束縛する死の背後には、神に背き・神から離れようとする「罪」があると聖書は教えます。最初の人間が罪を犯したので、人間は死ぬべき存在となり、「死」に定められた人間は、「罪」の束縛の下にあるだと、聖書は教えます。▼この、罪と死の束縛から、私たちを解き放つ「権威」を持つ方が、イエス・キリストです。

聖書は「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」と言います(エペソ6:12)。私たちの不信仰――神のことを理解できず、神を信頼できなくしている、霊の目を覆う覆い――は、悪魔の働きです。私たちを罪の中に縛り、意志を束縛して神に背かせるものがあるなら、そこに悪魔の力があります。 ▼主イエスには、それを打ち砕く力があり、教会はその権威を委ねられているのです。神を信じるということは、この神の「権威」により頼むことです。その時に、キリストの「現実の力」が働くのです。

■【2.教会を支える召された人々】マタイ10:2-4

2-4節に、12使徒のリストがあります。「使徒」とは、主イエスから派遣された者という意味です。12人という数字は、イスラエル部族の数に当たる象徴的な数字で、12弟子が柱になって、教会が始まります。

【正統性の基準】 古代信条のニカイア・コンスタンチノポリス信条で告白される、有名な教会の4つの特徴があります。その一つは「使徒的な」教会です。教会は、使徒たちが教えた聖書の教えに基づき、使徒たちの権威の上に建てられ、使徒たちに委ねられた宣教の使命を受け継ぎます。

古代の教会で、いろいろな教えが出て来て、何が正しい教えかが議論になりました。どの書簡が新約聖書に含まれるべきかという議論の中で、使徒自身や、使徒の身近な弟子によって書かれた書簡であることが、重要な条件となりました。主イエスから直接の教えを受けた使徒に遡るということが、教会の権威ある教えの根拠とされました。 ▼現代でも、例えばモルモン教のように、聖書のほかに異なる経典を持つ宗教があります。正統的なキリスト教との根本的な違いは、キリストの使徒たちが伝えたのとは異なる教えを土台にしていることにあります。「使徒」の権威に従うか、別の権威に従うかが、古代から続くキリスト教会の「正統性」の基準です。

【12使徒のリスト】[②]

【マタイ】3節のマタイは、マタイ福音書をかいた人ですが、自分のことを「徴税人」と呼んでいます。徴税人とは、ローマ帝国の支配下にあったユダヤで、ローマ人に対して、ローマへの税金を集めた役人ですが、ほとんどが金額を上乗せして私腹を肥やしたため、貪欲な売国奴として憎まれていました。マタイは、自分を徴税人と呼んで、自分がどのような人物であったか、神はどのような所から自分を招いて下さったかを表しています。

【適用】 この弟子たちのリストを見る時に、神が招いて下さるということがどういうことが、ということを思います。▼①神は、ありのままの私たちの生活のただ中に来てくださいます。ペテロもヨハネもヤコブも、目立たない田舎の無学な漁師たちでした。宗教的・道徳的に立派な生活をしていたわけではなく、主イエスに出会った時、自分の罪深さに気づいてひれ伏したような者でした。マタイは徴税人として、民衆からも見下されるような、利益を求めて神も祖国も裏切るような、生活をしていました。▽しかし、主イエスはそのような彼らの所に、ご自身でやって来られ、彼らをご自分について来て、一緒に生活し、働くように招かれました。これが、神の恵みです。キリストと共に生きるように招かれる、これが神の恵みです。宗教的でも何でもない、ありのままの生活のただ中に来られました。 

そして、②神は、ありのままの生活の場から私たちを取り出して、神の役に立つ者にして下さいます。シモン・ペテロは無学な漁師でしたが、「岩」ペテロとして、教会の柱・礎とされました。12弟子は、もとは無名の人々でしたが、教会の柱として、永遠に続く教会の土台として下さいました。▽私たちに神の力が働くのも、私たちのありのままの普段の生活のただ中から始まります。キリストが人となって、彼らの間に来てくださったように(受肉)、神の権威は、私たちの日常の生活のただ中に入り込んできて、力を持って働きます。これが、「信仰の受肉」です。神の権威は、人の生活の全体を覆うのです。マタイの全人格を捕らえて、生活を変革し、かつての同僚の徴税人たちを感化したように、ペテロのまっすぐな性格が、キリストに捕らえられて、信仰の大胆さになり、大説教者となったように、私たちのありのままの姿の中に神の力が働く時に、私の個性と人生経験を生かして、そこで神様の優しさと配慮が現れるようになります。

だから、ありのままで神に信頼し、神を喜び、神と語り合い、神に感謝し、祈り求めて参りましょう。私たちの生活の現場で、神の権威が働き、神の現実が明らかになるように、祈り求めて参りましょう。

■【3.教会の働き――宣教の原則】マタイ10:5-8

5 イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「…6…イスラエルの家の失われた羊のところに行け。7行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。8病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

【原罪】 「イスラエルの家の失われた羊」とは、特別に不道徳な生活を送っていた人のことではありません。旧約聖書の伝統では、むしろ、神の民・イスラエル民族全体が罪の中にあり、神のもとからさ迷い出て、裁きを受けている状態を指します(エゼ34章、イザ53:6、エレ50:6参照)。▽具体的には、当時イスラエル民族が外国のローマ帝国の支配下で苦しみ、究極的には、罪と死という逃れられない束縛の下に生きていることを指しました。

全ての人が死の束縛の下にあることは、まぎれもない事実です。それだけでなく、私たちは神のことを知らず、神を求めず、私たちは神の厳かさと愛の深さを理解することができません。良く生きようと思っても思うようには生きられず、人を思うよりは自分を守り・自分を高め、人を愛そうと思っても、愛することができません。神の掟よりも、自分の考えを優先する。そのように、私たちは罪の束縛の下にあることを、多くの人々が経験します。

人類全体が罪の束縛の下に置かれた結果として、①私たちは神のことを理解できない霊的な「無知」の状態に置かれ、②自分の意志の力で神に従い通すことができない「無力」な者となっています。▽私たちが神の事柄・霊的な事柄に関する無感覚から目覚めさせられ、①神に対する「無知」と、②愛することの「無力」に気づかされる、私たちは神に飢え渇き、必死で神様を求めるようになります。聖書は、全ての人に、主イエスの十字架の死と復活による、罪の赦しと刷新が必要なのだと教えます。

「6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」

【神の国の到来】 罪と死の束縛の下におり、弱さと病の中にある私たちに、神の御子主イエス・キリストが権威をもって来てくださった。これが福音=良い知らせです。「私たちが何かをしなければならない」ということではなく、「神が私たちの所にも来てくださった」ことが、良い知らせなのです。

天国が近づいた」――「罪と死」の支配ではなく、「神の霊といのち」の支配が、私たち一人一人の所に来ているのです。ブルームハルトの少女が悪霊に支配されていた時のように、神の支配が目には見えない時でも、キリストの勝利は変わりません。キリストが権威を持っておられる「神の国」は客観的な現実です。▼だから「天国が近づいた」と、私たち自身に宣言しましょう。▽主イエスへの信仰をまだ告白しておられない方は、罪を告白して、主イエスを信じましょう。これまで信じて来なかった不信仰や、具体的に犯した罪に気づいているなら、それを告白しましょう。「9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(1ヨハネ1:9)。▽主イエスを信じている私たちも、「天国が近づいた」と自分自身に宣言しましょう[③]。私たちが生きる現実のこの世界・生活のただ中で、神が生きておられることを経験できるように、祈りに打ち込んでまいりましょう。キリストの権威が力ある現実として現れることを期待して信頼して求めましょう。

【ただで受ける】 私たちは、どのようにこれを受けることができるのでしょうか。「8…ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」とあります。神の国は、私たちの良い行いによって勝ち取る何かではありません。罪と死の束縛の中で、無知と無力の中にいる私たちに、神の方からやって来て、与えてくださるものです。ありのままで罪を告白し、信頼をもって主の恵みに応えるのです。主が下さる平安に、喜びをもって応答するのです。そこにとどまり、主の導きに従い、主に祈り、従って行く時に、ブルームハルトに現れたように、神の国の現実はすでに私たちと共にあるのです。

旧約聖書の雅歌の言葉が心に留まりました。夫婦の愛を歌った歌ですが、同時に神が私たちを愛する愛をも表しています。雅歌8:7「もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう」。――私たちを愛して、ご自分の愛の主権のもとに置こうとする神の愛を、代価を支払って買い取ることはできません。愛する人の愛を受け取るように、喜びをもって大切に受け取り、愛をもって答えるのみです。

「6わたしをあなたの心に置いて印のようにし、
 あなたの腕に置いて印のようにしてください。
 愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。
 そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
7愛は大水も消すことができない、
 洪水もおぼれさせることができない。
 もし人がその家の財産をことごとく与えて、
 愛に換えようとするならば、
 いたくいやしめられるでしょう。」

雅歌8:6-7

神は最も良いものを(聖霊を)惜しみなく与えて下さる良い方です。愛は、代価なしに受けるものです。自分でハードルを設けてはなりません。独り子の命をも惜しみなくお与えくださった神の愛を、感謝して受け取り、愛をもって――心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして捧げる愛をもって、主にお答えしましょう。


[①] 齋藤真行「イエスは勝利者だ:ブルームハルト影響小史」参照

[②] 12使徒のリストの比較

マタイ10:2-4マルコ3:16-19ルカ6:13-16使徒1:13
シモン・ペテロシモン・ペテロシモン・ペテロペテロ
ペテロの兄弟アンデレゼベダイの子ヤコブペテロの兄弟アンデレヨハネ
ゼベダイの子ヤコブヤコブの兄弟ヨハネヤコブヤコブ
ヨハネアンデレヨハネアンデレ
ピリポピリポピリポピリポ
バルトロマイバルトロマイバルトロマイトマス
トマスマタイマタイバルトロマイ
取税人マタイトマストマスマタイ
アルパヨの子ヤコブアルパヨの子ヤコブアルパヨの子ヤコブアルパヨの子ヤコブ
タダイタダイ熱心党員…シモン熱心党員シモン
熱心党のシモン熱心党のシモンヤコブの子ユダヤコブの子ユダ
イスカリオテのユダイスカリオテのユダイスカリオテのユダ 

■ 4つのリストの比較から分かること:

(1)ペテロは常に最初で、イスカリオテのユダは常に最後。

(2)最初の4人は、最初に呼び出された2組の兄弟(マタイ4:18-22)

(3)順序を比較すると、4人のグループが3つあるように見える。各グループの最初の人物は、4つのリストで共通。12弟子が、小さなグループに分かれて、それぞれにリーダーがいた可能性が指摘される。

(4)マタイ10:2-4のリストは、二人組になっている。これは、主イエスが弟子を二人組で派遣したことを反映すると思われる(マルコ6:7)。

(5)「タダイ」は、「ヤコブの子ユダ」と同じ人物と思われる。

※バルトロマイは、ヨハネ福音書に出て来るナタナエルと同じ人物の可能性がある。ナタナエルは、ピリポや他の12弟子と一緒に登場するため(ヨハネ21:2、1:43-51)。

参考:Carson, D. A., Matthew (The Expositor's Bible Commentary)

[③] あるいは「神の国はすでに…きた」(マタイ12:28)とも言えます。