マタイ10:24-39「自分の十字架を負う」
2023年6月25日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝メッセージ
聖書 マタイの福音書10章24-39節
説教 「自分の十字架を負う」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」
マタイ10 :38-39
昨日、FさんとTさんの結婚式の司式をしました。二週続けて結婚式の司式をしたのは初めてですが、多くの祝福をいただきました!挙式の後は、家族席に共に座らせていただき、素晴らしいお食事を堪能しました。皆が笑顔で、天国の前味のような一日でした。さて今朝も共に御言葉に聞いて参りましょう。
【大使の役割】
今年四月に新しくロシアに着任した各国大使たちの前で、プーチン大統領がスピーチをしました。「2014年のウクライナのクーデターをアメリカが支援したから、現在のウクライナ危機が起こったのです。…皆様の成功をお祈りします。ご清聴ありがとうございました。」と新大使たちの前で堂々と演説をしましたが、誰も拍手をしませんでした。通常なら大統領演説が終わると拍手が送られるのですが、プーチン大統領の前に一列に並んだ大使たちは無反応だったのです。まるで無言の抵抗でした。新大使たちがなぜ拍手をしなかったのか、それはプーチン大統領のウクライナ侵攻の決断に、反対の立場を暗に表明しているからではないでしょうか。大使とは国のトップに代わり、自国の代表として派遣されるので、常に責任と覚悟が伴います。
【弟子を派遣する主イエス】
イエス様は、十二弟子をご自分の代理として派遣する前に、派遣した先で何を語り、何をすべきか、しないべきか、持つべき責任や覚悟をはっきり語りました。使徒パウロは「わたしたちはキリストの使者なのである。」(Ⅱコリント5:20)と言っています。英語だとambassadors for Christです。マタイ10章はイエス様が弟子たちに語った内容が細かく記されています。今日の24節以降はイエス様のお話の後半部分で、「山上の説教」に続く「第二の説教」とも呼ばれます。
【弟子をなぜ派遣するのか】
イエス様は町や村を巡って教えを説き、福音を伝えながら、人々の病気を癒していました。そもそもイエス様はなぜ弟子たちを派遣するのでしょうか。それは、群衆=人々が、弱り果てて倒れているのをご覧になり、更に大きな働きのためでした。
「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。」(9:36)
イエス様は弟子たちの行く先には、迫害や困難があることを予測されていました。今まではイエス様の後ろからついて来ていた弟子たちが、イエス様抜きで働きをするのです。
【恐れてはいけない】
イエス様は福音の故に迫害をしたり、危害を加えるような人たちを「恐れるな」(26,31)と二度も励ましています。
「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。」(24-25)
ある人々はイエス様のことを「ベルゼブル(悪霊のかしら)」と呼びました。何と失礼な呼び名でしょうか。しかしイエス様は、弟子は師であるイエス様以上の苦しみに遭うことはないのだ、だからそのような人々を恐れるなと言ったのです。
「だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 …また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(26、28)
おおわれているように見える福音の真理は、必ず明らかに現わされ、人々に知られる時が来るので恐れずに屋根の上で言いひろめよ。(27)、語りなさい、とのイエス様の大いなる励ましです。そして恐れるべきことは何なのか。「むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(28)ゲヘナとは、神の裁きで罪人が送られる苦しみの場所のことです。神はそのゲヘナでたましいもからだも滅ぼすことができる方であるので、迫害する人たちは弟子たちの体を殺すことはできたとしても、たましいまで殺すことはできないのですよ、と。イエス様は例えを用いています。
「二羽のすずめは一アサリオン(最小単位の銅貨)で売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(29-31)
イエス様は、弟子たちが迫害者を恐れず、また葛藤や対立を恐れず、ただ神を恐れて福音を語り伝えるように丁寧に配慮を持って語っておられます。
【自分の言葉で語る】
私たちはどうでしょうか。「福音を語る」ということは、大それたような感じを受けますが、「クリスチャンとしての適切な振る舞いをし続けること、説明を求められたら自分の言葉で答えられること、また折に触れて短く証しができること」は自分なりのスタイルを築いてアップデートしていったら良いと思います。
10月のファミリーコンサート前後に私の両親が上京することが決まりました。私の父は洗礼を受けてはいませんが、折に触れて娘夫婦が東京で牧師をしていることを言いふらしてくれているようです。西日暮里に父の大切な友人が住んでいて、その方が大病を患ったようです。父は私に電話をしてきて、「友人にコイノニアの教会の住所、電話番号、礼拝時間を教えていいか」と聞きました。「どうしたの」と聞くと「あなたたちは牧師だから、もし友人の〇〇さんが訪ねてきたら、お祈りをしてあげて欲しい、何ならイエス様の話をしてもいいぞ。お父さんも伝道のために役に立つだろう?」と電話の向こうで嬉しそうにしていました。私たち夫婦が牧師である特権を大いに利用してくれて嬉しい限りです。
何も牧師だからというだけでなく、皆さんが〇〇さんはクリスチャンだからお祈りして欲しいと周りの方々から頼まれることがあることを想定して、聖霊に依り頼みつつ、日頃から練習していてもいいかもしれません。ノンクリスチャンの方々には、長くだらだらと話したりお祈りしたりするのでなく、短く端的に分かりやすい言葉を用いるのがポイントです。信頼関係があるなら、必ず何らかの反応があり、徐々に受け入れてもらえます。
【信仰を明らかにする】
イエス様は、続けてこう弟子たちに勧めます。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。」(32-33)
イエス様の言葉から、私たちは自分が信じている信仰を隠さずに、はっきりと告白することが必要なことが分かります。自分の信仰の成長に繋がりますし、曖昧にしないことで自信をつけることができます。信仰を告白しないでいるなら、「わたしもあなたのことを知らない」とイエス様に言われても文句の言いようがありません。自分も同じことをしているのですから。パウロは、「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」(ローマ8:31)と私たちが神の側につくつかないということの前に、神が私たちの味方であると誰も敵対できないという確信を述べています。私たちもパウロと同じこの確信を持って主への信仰告白を新たにさせていただきたいと思います。
【主イエスに従う覚悟】
34節以降では、イエス様は「わたしに従って来なさい」と強い言葉で促しています。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(34-37)
一見するとイエス様は何と酷な物言いをするのかと思われるかもしれません。もし家族があなたの信仰を妨げるなら、家族を捨ててでも従うことをしないといけないのか、厳しい言葉だなと感じるかもしれません。でもこの箇所でのイエス様の真意は、「わたしに従うということはそのくらいの覚悟が必要だよ」とはっきりさせているのです。弟子たちの本気の覚悟と責任と自覚を促すために、イエス様はショック療法のようなチャレンジをされたのだと思います。ユダヤ人の家族制度は厳しかったので、弟子たちはびっくりしたと思います。しかし、イエス様は「弟子としての道は、甘くないぞ、神を第一とし、犠牲にするべきものが生じる覚悟はあるのか」という十字架の道をつきつけたのです。師として弟子に語る言葉をあえて厳しく語り、そしてイエス様ご自身が家族を離れ、実際に十字架の苦難の道を歩んで行かれました。ですからイエス様の厳しい言葉に「師の弟子に対する愛」を私たちは読み取りたいと思います。
【私自身のこと】
私自身、沖縄で神学校に入るための準備をしていた時、母教会の牧師から「一旦献身したら、家族の死に目に会えないこともあるかもしれない」と言われました。でも祖母が亡くなる直前、神学校と当時仕えていた教会から一週間の休みをいただいて祖母の看病と最後のお別れができました。当時の神学院長が「あなたの家族は、ノンクリスチャンですね。家族のためにもあなたを一週間派遣します。主に在って良い時を過ごしてきてください」と快く送り出してくださいました。イエス様の言葉は、神を第一とするために、家族をないがしろにしてもいいという意味では決してありません。神を第一とし、キリストに従いながら、家族を置き去りにするのでなく、家族をもキリストに導く道を主が許してくださることを私は自分が進んで初めて実感しました。つまり、家族のことも神様に委ねなさい、そして精一杯を尽くすのだということです。イエス様に従うことと、家族を愛することは共存可能なのです。
「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(38-39)
「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者」とは、自分が負わされたキリストのための苦難を拒む人のことです。迫害がある時、「自分のいのち」が惜しくなって、信仰を否定してし、妥協して自分のいのちを救おうとするなら、終わりの裁きの時に神によって、永遠の滅びの宣告を受けることになるという意味です。その反対に信仰をしっかりと表明・告白していのちを失ったなら、終わりの時に神様から永遠のいのちを受けることが出来ますよと。この世の命と、永遠の命をどちらを選択することが賢明でしょうか。明らかなことは、人生はこの世だけでは終わらないということです。
【とりかえた十字架】
「一人の女性が自分の負っている十字架が重くて、他の十字架を選びたいと考えました。すると彼女は、夢の中でたくさんの十字架が置かれている場所に導かれました。見ると様々な形、大きさの十字架がありました。ふと見ると綺麗で小さな十字架があり、宝石と金がちりばめられていました。「ああ、これなら喜んで負える」と彼女は言いました。でも負ってみるとあまりにも重くてよろめいてしまったので諦めました。次に彼女は周囲に彫刻があり、綺麗な花の模様がある十字架を見つけました。その十字架を取り上げてみると花の下にはとげがあり、彼女の体を傷つけてしまいました。最後に彼女は一本の粗末な十字架のところに来ました。宝石も、彫刻もなく、短い御言葉が記されていました。その十字架を取り上げてみると軽くて背負いやすい十字架でした。しかしよく見るとその十字架は自分が捨てた古い十字架でした。彼女は「自分の十字架を再発見」したのでした。それが最善であり、一番軽かったのです。」(「荒野の泉」271頁参照)
【主イエスの愛の招き】
イエス様の派遣メッセージは厳しい言葉が並べられていますが、その根底には温かく弟子たちを愛するが故の厳しさであることが分かりました。
あなたは今、どんな十字架を背負っていますか。誰に対する信仰の重荷があるでしょうか。自分の十字架が重いと思って周りを見回して、あれがいいなとか思ったことはないでしょうか。イエス様は「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(ルカ9:23)と招いておられます。
イエス様の弟子として福音を伝えてきた諸先輩方の存在の故に、遠く日本にまで福音が伝わりました。語り続ける主の器がそれぞれの時代に必要なのです。そして、「福音は必ず勝利する」ことを心に刻みたいと思います。
イエス様の時代、十字架刑の判決を受けた者は、処刑場まで自分の十字架を背負いました。イエス様もそうでした。私たちも自分が背負っている十字架という苦難を背負い、イエス様に最後まで追従する責任を全うさせていただきましょう。共に背負う方がいます!
最後に、6月22日のデボーションの黙想エッセイに記されていた文章を紹介いたします。
「トム・ドイル牧師が書いた『夢と幻(Dreams and Visions)』という本の中で紹介された話です。エジプトのカイロで危険にさらされつつ、二年間、福音を伝えていたハサンという伝道者が、ある日、覆面をつけて銃を持った人に拉致されました。路地に引きずり込まれ、彼が連れて行かれた場所は、使われていない古びた倉庫でした。10人ほどの体格のいい男たちが彼を囲んで立つと、その中のリーダーだと思われる人物が「このようにあなたを驚かせ、ここに連れて来たことを謝罪する」と言いました。自分たちはカイロのアル=アズハル大学でコーランを学び、イスラム教の聖職者養成課程に在籍中なのだが、みなそれぞれ夢の中で復活されたイエスに出会い、密かにイエスの弟子になったのだというのです。彼らが週に三度集まって祈っていた中でハサンの存在を知り、聖書を学ぶために彼をここに連れて来たというのです。」(リビングライフ6月号129頁)
いかがでしょうか。神様の用いられる方法は私たちの常識を超えています。そしてキリストの福音を聞くべき人たちがいるということです。「この人は信じるのは難しいだろう」という私たちの考えや先入観を超えて働かれる神の力を信じたいと思います。神様は私たちをも用い、様々な方法を通して一人ひとりに出会ってくださり、キリストの証人として招いてくださいます。