マタイ14:13-21「五千人の給食」

2023年8月6日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝メッセージ

聖書 マタイ14:13-21
説教 「主に信頼する」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

13イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。14イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。15夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。16するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。17弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。18イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。19そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。20みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。21食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。

マタイ14:13-21
ユダヤのパン
「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」ヨハネ6:35

【マザー・テレサ】マザー・テレサについて、こんなエピソードが紹介されていました。

ある日、一人のシスターが、マザー・テレサのところに来て心配そうな顔で言いました。「マザー、金曜日と土曜日の分のお米がありません。このことをみんなに伝えた方がよろしいですか」

このままでは、二万人の人が、空腹のまま二日間、何も口にすることができません。このようなとき、マザー・テレサのとる態度は決まっています。神を信頼して、祈るということです。

「二日分のお米がなければ、大勢の人々がお腹を空かせてしまいます。今、飢えて動けない人もいます。私は食べられなくてもかまいせん。どうか貧しい人々に必要な食べ物をお与えください」

金曜日の朝九時、不思議なことが起りました。予告もなしに、何千個ものパンを積んだトラックが到着したのです。その日、どういうわけか政府の意向で学校が休校になり、学校に配られるはずのパンが、すべてマザーたちのもとへ運ばれてきたのです。二日分の食料不足は、これで解決しました。

このような助けはマザー・テレサにはよく起こったといいます。[①]▼今日の聖書は、主イエスご自身がなしてくださった食卓の奇跡のお話しです。

マタイ福音書での文脈

【5000人の給食】今日の記事は5000人の給食と呼ばれる出来事で、4つの福音書すべてに記されていて[②]、主イエスが救い主としてなされた重要な奇跡だと言われています。

【背景】今日の箇所は、領主ヘロデ・アンティパスが、主イエスの力ある働きについて聞いた出来事から続いています。ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを殺した人物ですが、彼は、主イエスは洗礼者ヨハネのよみがえりだと考えました。主イエスが洗礼者ヨハネの後継者とみなされることは、ヨハネと同様に生命を狙われかねない、危険なことでした。主イエスは、ヘロデの領地を出て、ヨルダン川の東側のベツサイダの近くの「寂しいところ」に退かれました。[③]

■【1.主イエスの憐れみ】マタイ15:14

【群衆】 群衆は、そのような人のいない荒野にまで、主イエスを追って集まってきました。彼らは、舟で移動する主イエスを見て、その行先に先回りしました。そこには、病気を癒してもらいたい多くの人々もいました。群衆は弱り果てていて、「羊飼いのいない羊の群れ」のようだったといいます[④]

【主イエスの憐れみ】 主イエスは、大勢の群衆をご覧になると、「彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしに」なりました(マタイ15:14)。▼「深くあわれむ」という言葉は、「はらわた」がしめつけられるようなニュアンスを持つ強い言葉です。▽主イエスは人々の苦しみを見て、苦しまれ、彼らに寄り添い、その病を担い、癒されました。

【適用】 主イエスの「憐れみ」は、主イエスに従う弟子だけでなく、不特定多数の群衆に向けられています。神の愛を受けるのは、信仰を持っている人・洗礼を受けた人だけではありません。主イエスの憐れみは、「すべての人」に向けられています。▼自分にもこの愛が向けられているのか、わからないという方もおられると思います。神の恵みを受け取るために、私にもこの憐れみが向けられていることを知り、信頼することが大切です。主イエスを追って荒野までやって来た人たちが癒されたように、主イエスの「憐れみ」を祈り求める人に、主は恵みをくださいます。

■【2.キリストの食卓】マタイ15:19-20

5000人の給食の奇跡は、聖書の中でどのような意味を持っていたのでしょうか?いくつかのつながりがあります。

【エリシャの給食】 第一に、この出来事は、旧約聖書の偉大な預言者・エリシャが、20個のパンと1袋の穀物で100人の人に食べさせた出来事と、よく似ています。主イエスは預言者エリシャよりも少ないパンで、はるかに多くの群衆を養われました。主イエスは、預言者エリシャよりもさらに偉大な人物として描かれています。

【荒野のマナ】 また、ヨハネ福音書6章では、モーセの時代に神様が荒野でマナという食べ物でイスラエル民族を養った出来事が、この奇跡と結び付けられています。5000人の給食も、人里離れた荒野での出来事でした。▼神が荒野でマナによってイスラエル人を養われたように、主イエスも荒野でパンを与えて群衆を養われました。▼ユダヤの伝統では、来るべき救い主が食物を豊かに与える奇跡を行われると考えられていました[⑤]

【メシアの食卓】 もう一つ、5000人の給食は、やがて来る天国の食卓を予期させるものでした。▼マタイ8:11「なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」▽イザヤ25:6-8「万軍の主はこの山で、すべての民のために…祝宴を設け、…ぶどう酒をもって祝宴を設けられる。

このように5000人の給食は、聖書の様々なイメージが重なり合った、メシア的な(キリストに固有の)奇跡でした。

■【3.食卓の主人】マタイ15:16-20

【奇跡の状況】 21節に「食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった」とあります。女性や子どもを入れれば、15,000~20,000人いたのではないか、とも言われます。▽15-20人分の食事を用意するのも大変なのに、ここではその1000倍です。▼パンを買って用意すれば何百万円もかかり、しかも近隣の大きな町でも人口は2-3,000人だったと言われ、大量のパンを手に入れることもできません。[⑥]

人間の知恵や努力では、到底太刀打ちできない状況で、主イエスは普段と変わらない様子で言われます。16節「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。

【適用】 私たちが弟子たちの立場だったら、どうするでしょうか?――私たちが預言者エリシャのようにパンを増やし、モーセのように天からのパンを与えることができるでしょうか?――この時、弟子たちが学んだのは、「自分たちの信仰が何かを変える」ということではなく、「一緒におられる主イエスが何者であるか」ということでした。主イエスは天地を作られた方で、世界を支配しておられる方だということです。

【パンと魚】弟子たちの手元にあったのは、少年が持っていた大麦のパン5つと魚2匹だけでした。大麦のパンは貧しい農民の食べ物で、魚はガリラヤ湖で取れた魚を塩漬けにしたものが、よく食べられていたようです[⑦]

【メシアの食卓】 18節で主イエスは「それ(パンと魚)をここに持ってきなさい」と言われます。19節の「(草の上に)座る」という言葉は、ギリシャ・ローマ世界の正式の食事を指す「長椅子に身を横たえる」という言葉です。長椅子などない野原での質素な食事なのですが、「キリストの食卓」に人々が招かれていることを示唆しています。

主イエスは、ユダヤの家の主人が食事の前にしたように、食べ物を持ち上げ、天を見上げて、神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちに与えて、配らせました。▼ユダヤ人は、食事の前に、次のように祈るそうです:「幸いなるかな、私たちの神、主よ。宇宙の王、大地からパンを生み出される方よ」。「大地からパンを生み出される方」――この祈りの言葉のように、主イエスはご自分の力でパンを生み出し、人々に分け与えられました[⑧]

【適用】私たちの信仰生活に最も大切なのは、「私たちがどのような者であるか」「私たちがどのように生きるか」ということも大切ですが、それ以前に「主イエスが何者であるか」「主イエスは何の権威を持っているのか」を知ることが、本質的に重要です。▼私たちが何者であるかではなく、主イエスが共におられること、主イエスに天と地のすべての権威があること、そして、主イエスが優しく私たちを気遣ってくださることが、大切なことです。状況を変える力があるのは、主イエスご自身です。

【満ち足りた食卓】 20節に「みんなの者は食べて満腹した」とあります。主のもてなしは、その食卓に連なる人の心も身体も、満足させ、満ち足らせます。ここに、キリストがやがてもたらされる天の食卓の先駆けがあります。

【かご】 ユダヤ人たちは、旅行をする時に、食べ物に関する律法の規定を守るために、きよい食べ物を入れるかごを持ち歩いたそうです[⑨]。弟子たちが「パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった」とあります。12のかごは、イスラエルの12の部族を象徴し、残りのパン切れが12のかごを満たしたことは、「神様のパンの備えの豊かさ」「神の民の必要を全て満たすこと」を象徴していると思います[⑩]

【適用】 主イエスの食卓に与ったのは、そこに集まったすべての群衆でした。そこに区別はありませんでした。私たちが主イエスを求めるなら、主は惜しみなく分け与えて下さいます。まだ主を信じていない方は、どうぞ主の恵みに心を開き、祈り求めて頂きたいです。

■【4.食卓のしもべ】

5000人の給食に、弟子たちはどのように関わったでしょうか?

マルコとルカの福音書によると、この時、12弟子は宣教の働きから帰って来たばかりでした。弟子たちに休息を与えようとした荒野で、5000人の給食の奇跡を通して、主イエスは、弟子たちが再び神の力ある働きに身をもって関わるようにされました。

(1)群衆を解散させてほしいと言った弟子たちに、16節で「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われました。奇跡をなされるのは主ご自身ですが、こうして、弟子たちをこの働きに取り込んでおられます。

(2)弟子たちが持ってきた5つのパンと2匹の魚は、男性だけで5000人の大群衆を満腹させても有り余るほどの食糧とは比べ物になりませんでした。しかし、主はその少年のわずかな食べ物を取って、神をほめたたえて、多くの民を満ちたらせるご自分の大きな働きのために用いられました。▼私たちの神は、世界の神ですが、私たちと無関係に世界を治めているのではありません。私たちのもとにあるわずかなものをも用いて、比べ物にならない大きな御業をなされます。▼主が「それをここに持ってきなさい」と言われる時、拒むことがありませんように。「そんなものが何になるか」と、自分の考えでやめてしまうことがないように。主の言葉に従っていく時、主がご自分の計画をなされるのを見ましょう。

(3)パンを配った弟子たちは、主イエスこそ、地からパンを生み出し、私たちに命を与える源である方であることを知りました。主に召された働きに携わり、主の民に仕えることを通して、神が生きて働いておられることを、目の当たりに見て、経験しました。▼弟子たちは、自分たちが神の業を経験するだけでなく、自分たちを通して、人々のために神の御業が流れていくことを経験しました。

■【5.命のパン】

最後に、5000人に与えられたパンが指し示すものについて、お話しします。

【命のパン】 ヨハネ福音書の並行記事で、5000人の給食を経験した人々に主イエスが言われた言葉です。主イエスが与えた「食べ物のパン」を食べても、すぐにまたお腹がすき、すぐになくなってしまいます。パンが増える奇跡は、「まことのパンであるイエス・キリスト」を指し示し、私たちが主イエスを救い主と信じるためであると教えています。

35わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」「51わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。」パンとは命の源で、これなしには人は生きることができない命の糧です。同じように、キリストこそ、人間に霊の命を与え、永遠の命を与える源であることを教えておられます。

また、パンはキリストの肉体の象徴です。食卓でパンが裂かれるように、キリストの肉体も、鞭で引き裂かれ、十字架につけられ、刺し通されなければなりませんでした。パンのように引き裂かれ、砕かれてこそ、主イエスは命を与える者となられました。

私たちは、目に見える奇跡に心を奪われるだけではなく、奇跡の源であるキリストご自身と結ばれ、キリストに養われ、キリストの命を頂かなければなりません。

【聖餐】 5000人の給食の記事を読んだ読者は、昔から聖餐式を連想してきました。パンとぶどう液ではなく、パンと魚ですが、主イエスの所作は、最後の晩餐と共通で、ヨハネ福音書6章の並行記事は、聖餐式と結びつけられています。[⑪]

▼私たちも、聖餐式の食べ物のパンを通して、身体をもって地上に来られた主イエスの恵みに、今も与らせて頂きましょう。▼日曜日には、全世界のキリスト教会で聖餐式が持たれますが、やがて来る天国の宴会に思いを馳せながら、この地上で与えられた交わりを大切に与ってまいりましょう。▼主は今も働いておられます。それは、主ご自身が主体となって働く働きですが、主は弟子たちと同じように、取るに足りない私たちもが、御業に共に関わることを求められます。主に信頼し、御声に従い、主の命の御業に共にあずかる者とさせていただきましょう。


[①] https://note.com/cukai/n/n2b8078039fef

[②] マタイ14:13、マルコ6:30–33、ルカ9:10–17、ヨハネ6:1–15

[③] ルカ9:10。ベツサイダの場所には議論がある。

  https://www.holylandsite.com/tabgha-israel、Wikipedia「ベツサイダ」

[④] マルコ6:34

[⑤] Blomberg, C. L., Matthew, The New American commentary. 14:19-21

[⑥] Osborne, G. R., Matthew, Zondervan Exegetical Commentary On The New Testament. 14:15, Carson, D. A., Matthew, The Expositor's Bible Commentary. 14:18-21

[⑦] ヨハネ6:9。Osborne, 前掲書 14:17

[⑧] Osborne, 前掲書 14:19ほか

[⑨] ウィリアム・バークレー「ヨハネ福音書上」6:1-13「パンと魚」

[⑩] France, R. T., The Gospel of Matthew , The New International Commentary On The New Testament. 14:20

[⑪] Osborne, G. R., 前掲書, 14:19.  France, R. T., 前掲書, 14:13-21