マタイ3:13-17「主イエスの洗礼」

2023年1月8日(日) 公現後第一主日礼拝 メッセージ

聖書 マタイ3:13-17
説教 「主イエスの洗礼」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

 そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。

 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

マタイ3:13-17

Carl Bloch, The Baptism of Christ, artvee.com

■【公現日・主イエスの洗礼】

先週1/6(木)は、公現日というキリスト教の祝祭でした。12/25-1/6を降誕節と呼び、主イエスの誕生を祝う期間です。私たちが使っている聖書日課では、12/25に主イエスの誕生を、1/6には東方の博士たちの来訪を、直後の日曜日は主イエスの洗礼を記念する伝統があります[①]。 ▽クリスマスの飾りつけも、伝統的に公現日で終わりになります。私たちも今日の午後、クリスマスの飾りを片付けます。

ちなみに、ウクライナで「クリスマス停戦」という話題がありました。私たちはラテン語圏で発展した西方教会の伝統ですが、ウクライナやロシアは東方教会が有力です。ウクライナなどの東方正教会では、伝統的には古代の暦で12/25と1/6を計算するため、全体が2週間ほど遅れてこの時期にクリスマスが来るそうです。[②]

教派・地域によって多様ですが、大雑把には、次のようにまとめてもよいかもしれません。

◇12/25 降誕祭(クリスマス)(正教会では旧暦12/25で現代の1/7)
 ⇒ 「主イエスの誕生」

◇1/6   公現祭(エピファニー)( 正教会では旧暦1/6で現代の1/19)
 ⇒ 「東方の博士(諸民族)への顕現」

◇翌日曜日(2023年は1/8)
 ⇒ 「主の洗礼」

【主イエスの洗礼の意味】

今日は、聖書日課に従って、主イエスの洗礼の記事を読みます。 ▼主イエスは公の働きの前に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。こうして主イエスは、悔い改めた罪人と同じ立場に立ち、すべての人の罪を担う救い主として働きを始められました。▽この記事に父・子・聖霊の三位一体の神が登場し、主イエスが神の子であることを証しします。ここから始まる主イエスの公の働きは、聖霊の力によってなされました。

■【1.洗礼者ヨハネの働き】マタイ3:13

13 そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。

主イエスがおられたナザレから洗礼者ヨハネがいたベタニアまで約130km、東京から富士山以上の距離です[③]。主イエスは強い意志をもって、ヨハネの洗礼を受けに行かれました。

当時、洗礼者ヨハネの働きは、非常に大きく広がっていました。1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスの記述では、洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスに殺されたのは、ヨハネの弟子が非常に増えて、ヘロデが脅威に感じたからだと記しています[④]。新約聖書の「使徒の働き」でも、ヨハネの弟子がユダヤ地域だけでなく、地中海世界の都市にまでいたことが分かります。洗礼者ヨハネの働きは、それほど大きな運動でした。

洗礼者ヨハネは、罪を告白して悔い改めた人々に洗礼を授けていました[⑤]。来るべき救い主の到来に備えて、民を神に立ち帰らせるのがヨハネの使命でした。 ▽ヨハネは、宗教指導者たちが聖書の教えを形式的に守っていても、内実が伴わないことを咎めました。また、貧しい人々に施し、不正や暴力をやめるように教えました[⑥]

私たちも、してはいけないと知りながらしていることや、してこなかったこと。家族や職場での冷たい態度や言葉、不正などはないでしょうか。外向きの姿は整えても、内側では誰かを傷つけたり、他人を差し置いて自分の利益を求めたり、言葉と行いが一致しないことがあるかもしれません。ヨハネは、真実な悔い改めが、具体的な実を結ぶことを求めました。

■【2.洗礼者ヨハネのためらい】マタイ3:14

洗礼者ヨハネは人を恐れずに悔い改めを求めましたが、主イエスに洗礼を授けることには尻込みします。

14 ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。

ヨハネの洗礼は、罪の悔い改めの洗礼です。本来、罪のない主イエスは、受ける必要はありませんでした。 ▽ヨハネは、まもなく来る救い主は「聖霊と火でバプテスマを授け」、自分よりも「力があり」、自分はその方のしもべとして「履き物を脱がせて差し上げる資格も」ない、と言います[⑦]。▼ヨハネは偉大な預言者でしたが、自分も主イエスから罪の赦しの洗礼を受けなければならない罪人の一人にすぎないと知っていました。これが、キリストを知り、自分を知っていた偉大な人物の姿です。

【適用:謙遜】 私たちはどうでしょうか。聖書で主イエスの教えを読む時、どのように応答するでしょうか。主イエスの教えが自分の考えと異なる時、その権威を認め、理解できるまでしっかりと聞こうとするでしょうか。 ▼聖霊が私たちの心に語りかける御声を聞く時、その促しに従うでしょうか。自分の計画や願いよりも、聖霊の導きとご計画に従っているでしょうか。

クリスチャンは、神の前に何も誇れない自分の罪深さ・無価値さを知っています。だからこそ、主に信頼し、自分を誇らず、神を誇る者として歩んでまいりましょう。

■【3.「主のしもべ」・イエス】マタイ3:15

主イエスは、洗礼を授けることを尻込みする洗礼者ヨハネに答えます。

15しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。

「すべての正しいことを成就する」とは、聖書で約束された神様の救いの御業が成就される、という意味だと思います[⑧]。▽主イエスは、罪がないのに悔い改めの洗礼を受けて、罪を悔い改めたすべての民と同じ立場に立たれました。イザヤ書53章に預言された「主のしもべ」のように、主イエスは洗礼を通して、神の民の罪を負う使命を歩み始められました。すなわち、神の民と同じ立場に身を置き、人々の罪の罰をご自分が引き受けられ、死に至るまで神様に従う「主のしもべ」でした。

■【4.聖霊の証し】マタイ3:16

主イエスの洗礼は、主イエスが何者であるかを明らかにします。16節では聖霊が、17節では父なる神が、主イエスを証しします。

16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。

天が開かれ…」とは人間の目に見える形で、天の世界のことが現わされることを指す表現で[⑨]、神が働いておられることを示しています(神の受動態)。

主イエスは誕生の時から聖霊によって身ごもり、聖霊に満たされていましたが、洗礼の時には、人々の目に見える形で聖霊が降りました。洗礼者ヨハネは、このしるしを見て、主イエスこそ来るべき救い主であると確信して、「主イエスこそ神の子である」と証言しました[⑩]

【鳩のように】

聖霊は、ペンテコステの時には、「激しい風」と「炎のような舌」の形で現れましたが、主の洗礼の時には、「鳩」の姿で降りました。聖霊が現れる様々な姿を通して、聖霊のご性質をバランスよく理解を深めたいと思います。聖書で「鳩」は素直さ、従順さを象徴します[⑪]。▽主イエスは自らを低くして洗礼を受けて、罪の赦しを求める神の民と同じ立場に身を置かれました。そして迫害と十字架の苦難の中で自らに打ち勝ち、十字架で死に至るまで神に従い通されました。ここに、鳩に象徴される主イエスの素直さ・従順さが現れています。

【適用:素直さ・従順さ】 私たち自らを振り返りたいと思いますが、私たちの罪深さは、神の前で罪や過ちを認めたがりません。人の前でへりくだり、間違いを認めるのが難しいものです。怒りやすく、人を赦すのが難しい。神に従うために、自分の意志を曲げることに強い抵抗を感じます。これが自己中心で傲慢な人間の姿です。 ▽聖霊が鳩のように、私たちの内に住まわれ、心を柔らかくしてくださるのでなければ、神の御心に従い通すことはできません。 ▼しかし、神の前に「素直で従順」であることは、人の言いなりになり、周囲に流されることではありません。主イエスは誘惑にも迫害にも人情にも流されることなく、正義とあわれみと誠実をもって、父なる神に従い通されました。素直さ・柔和さは、強さと勇気と神への信頼に裏打ちされていなければ、全うできません。この素直さと従順さを与えてくださるように、聖霊に熱心に求めて、主を信頼して歩んでまいりましょう。

■【6.父なる神の証し】マタイ3:17

17節では神の声が、主イエスを証しします。 ▼旧約聖書の預言者マラキ以降、預言者に神が語られることがなくなっていましたが、ここで神ご自身の御声が聞こえます。

17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

この言葉は主イエスがどのような方であるかを的確に言い表しています。 その言葉遣いは、主イエスに対してではなく、その場にいた洗礼者ヨハネや他の人々に向けられているようです。それは同時に、福音書を読む私たちに対して向けられています。▽この言葉を少し丁寧に読んで、主イエスが何者であるか心に留めたいと思います。

【神の子・主のしもべ】

17節の天の声は、旧約聖書の2つの箇所と関連が深いとされます。詩篇2:7と、先ほど朗読されたイザヤ42:1です[⑫]

詩篇2:7「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。」

おまえはわたしの子」という言葉が17節の言葉とつながります。この詩篇は、ダビデ王の子孫としてやがて来る救い主を「神の子」として宣言し、ユダヤだけでなく全世界の支配者・さばき主としています。17節の天からの声は、主イエスを真の救い主であり・神の子・世界の王として宣言します。

King David, Church window icon of David, Wikimedia Commons

イザヤ42:1「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。」

わたしの喜ぶ」という言葉が17節と似ています。この箇所は「主のしもべの歌」と呼ばれる有名な個所で、来るべき救い主が神の霊によって救いの働きをなすことを預言しています。▼一連の「主のしもべの歌」のクライマックスが、有名なイザヤ53章で「苦難のしもべ」と呼ばれています。「これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。[⑬]。主イエスはこの預言の通りに、十字架で私たち全ての罪のために死なれました。▽今日の聖書箇所でも、罪を告白する神の民と同じ立場に身を置いて、私たちの罪を担うしもべとしての救い主の働きを始められました。

Diego Velázquez: Christ Crucified, Wikimedia Commons

■【まとめ】

もう一度、主イエスの洗礼を思い起こしたいと思います。

  • 罪のない方が、へりくだって、一人の人間から罪の悔い改めの洗礼を受けられました。
  • こうして、罪を告白する私たち全てと同じ立場になられ、私たちの罪を負う「主のしもべ」としての働きを始められました。
  • 人々へのしるしとして鳩の姿をとって、聖霊が降り、主イエスは聖霊の力に満たされて、神の国が近づいたと教えました。主イエスの数々の御業は、聖霊が共におられ、神の支配が到来したことを証ししています。
  • 天から聞こえた神の御声は、主イエスこそ来るべき救い主であることを教えました。その短い言葉の内に、主イエスがどんな方であるか――①主イエスが世界を治める神の子であり、②全ての人の罪を担う主のしもべであること――が示されました。ここから始まる主イエスの公の働きの中で、そのことが具体的に明らかにされていきます。
  • 主イエスの洗礼に立ち会った洗礼者ヨハネと周囲の人々は、鳩の形をした聖霊が降るのを見て、天からの御声を聞きました。同じように、私たちも、父なる神と聖霊の証しを聞いて、主イエスが誰であるか、どのような使命を果たされたのか、理解するように招かれています。

【適用】

【認罪】 神の偉大な預言者であった洗礼者ヨハネは、主イエスの前でへりくだって自分の罪深さを認めました。「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに」と(14節)。ヨハネの元に来た宗教指導者のように、形は美しくても、心の内側は利己的で、人を蹴落とし、人を見下し、神を認めないことがあります。むしろ、聖書によれば、人間は誰でもそのような内なる罪から自由ではないし、内なる罪は必ず外に出て来るものだといいます。自分の過ち・罪深さを知り、それを認めることは、真の悔い改めのしるしです。

【謙遜・服従】 また、ヨハネは、主イエスが真の神の子・世界の王・さばき主であることを知って、自分の小ささ・無価値さを率直に認めました。「わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない」(11節)。私には、主イエスのしもべになる価値もありません、と。 ▽私たちは、この主イエスの教えに聞き従うことに、抵抗があるでしょうか。主の導きに従って、自分の計画や願いを後回しにするのをためらうでしょうか。主イエスが世界を治めるまことの神の子であることを覚えたいと思います。

【信仰】 キリスト教の信仰は、罪を認めて悔い改めることで終わりません。むしろその先に、主イエスを信じ頼って、固く結びつくことが大切です。ヨハネは主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました[⑭]。私たちの罪を負って、死の代価を払い、復活された救い主・「主のしもべ」として信じ、固くより頼むことです。その時、私の罪が赦され、いまだに心の汚れは残っているとしても、私も神の子とされて、信仰が希望が愛が湧いてくること、聖霊が交わりを頂いていることを知ることができます。

【悔い改めの実】 しかし、信仰を妨げるものがあります。それが罪です。罪の中に留まりながら神を信じることは不可能です。罪は信仰を殺します。洗礼者ヨハネは、悔い改めの実を結ぶように――つまり、悔い改めを具体的な行動で表わすように教えました。真実な悔い改めは、具体的な変化を生みます。私たちの内で聖霊の働きを妨げている罪は何でしょうか。神様が喜ばない行い、不正はないでしょうか。生きて働く信仰は、具体的な実を結びます。

これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。天の声が証しした救い主、「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス・キリストを信じることこそ、私たちがなすべき神の業です。 ▼すでに主イエスを信じているクリスチャンがなすべきことも、より深く神を知り、信頼することです。【御父】世界を治める神の力と支配を現実に知ること。【御子】十字架の死をもいとわずに私たちを愛し導く主イエスの愛と、死に打ち勝つ復活の力を知ること。 【聖霊】私たちといつも共にいて励まして下さる聖霊の慰めを知り、聖霊の導きに信頼して従い、素直に柔和に、勇気をもって堂々と生きる力を日々頂くこと。こうして日々、主と共に歩むように、私たちは召されています。

また天から声があって言った、
「これはわたしの愛する子、
わたしの心にかなう者である」。

マタイ3:17

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

ヨハネ1:29

[①] 教派によって、降誕節の期間や、記念する出来事が異なる場合があります。

[②] https://ja.wikipedia.org/wiki/公現祭

[③] ヨハネ1:28

[④] 原口尚彰「新約聖書神学概説」p14-16

[⑤] マタイ3:6,11

[⑥] マタイ3:7-12、ルカ3:10-14

[⑦] マタイ3:11

[⑧] Donald A. Hagner, Matthew 1-13, Word Biblical Commentary, Volume 33A, p56 (マタイ3:15注解)

[⑨] エゼキエル2:1、イザヤ64:1(70人訳)、使徒7:56

[⑩] ヨハネ1:31-33

[⑪] マタイ10:16、創世記8:1-12

[⑫] 創世記22:2のギリシャ語七十人訳にも似ています。

[⑬] イザヤ53:12

[⑭] ヨハネ1:29