マルコ1:9-15「主イエスの洗礼と試み」
2024年2月18日(日)礼拝メッセージ
聖書 マルコ1:9-15
説教 「主イエスの洗礼と試み」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。…それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。
マルコ1:9、12
わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう。…すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。
創世記9:11、13
キリスト教の暦では、先週の水曜日が「灰の水曜日」で、受難節に入りました。なぜ灰なのか、それは旧約時代に預言者たちが悔い改めのしるしとして、粗布をまとって灰をかぶったからだと言われています。灰の水曜日から、イエス様が十字架にかかり復活されるまでの日曜日を抜いた40日間を受難節(レント)、または四旬節と呼びます。受難節の時期は、イエス様の十字架の苦しみを覚えて、内省したり、悔い改めるべきことがあれば悔い改め、断食を行ったり、祈り深く過ごす時として備えられています。ヨーロッパなどでは受難節に入る前に、大々的にカーニバル(謝肉祭)が行われたりします。私がドイツにいた時、受難節に入る前に担任の先生がクラスの生徒に「皆さんは今年の受難節は何をFasten(〇〇断ち)しますか?」と聞かれてびっくりしたことを思い出します。クラスメートは、テレビをみない、肉を食べない、交通機関に乗らない、甘いお菓子を食べない、などとそれぞれが決心したことを発表していました。皆さまはどのように受難節を過ごすことを導かれているでしょうか。
【洗礼を受けること】
今朝、開かれた聖書箇所はイエス様の洗礼の場面です。
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」(9)
イエス様はガリラヤ地方のナザレという小さな村で大工の息子として育ちました。そしていよいよナザレを旅立つ時が来ました。その頃、ヨハネがヨルダン川で人々に罪の悔い改めを促して、洗礼を授けていました。ヨハネは「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。 1:8わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」(7-8)と言っていました。「力あるこの方」こそイエス様のことでした。イエス様は先ずヨハネのところに行き、洗礼を受けたのです。
私は以前勤めていた教会で、教会に来られてまもない方々のための入門クラスを担当していました。最初にクラスに来られた方に自己紹介と教会に来られたきっかけを話してもらうのですが、皆さん様々なきっかけで教会の門を叩いています。ある男性は会社の社長さんでしたが、クリスチャンの奥様が病で天に召された後、夢を見たそうです。奥様が空を飛ぶ馬車のような乗り物に乗っておられ、夢でご主人に「早く乗ってください」と言われたそうです。ご主人はこの乗り物が天国行きの「救いの馬車」だとはっきり分かり、教会に来れられたとのことでした。来会された時から、「洗礼を受けて妻と同じ天国に逝きたいと」おっしゃっていました。洗礼を受けられる前も受けた後も忠実に礼拝に出席されていた姿が今でも脳裏に浮かびます。
もう一人の方の例を紹介します。受洗希望者は、洗礼を受ける前に「罪の告白文」を提出し、主任牧師と最終面談をするのですが、(罪の告白文提出は教会によって異なりますが、担当牧師一人が目を通して処分することになっていました)面談を終えた方が帰られた後、伝道師だった私は主任牧師に呼ばれました。すると先生がおっしゃるには、私が連れて来た方は洗礼をまだ受けられないと言われました。理由を聞くと、彼は洗礼を単なる儀式だと思っていて、本当の意味で自分が罪人であることとキリストの十字架による赦しのことをまだ理解しておられないためとのことでした。私はびっくりしました。洗礼を希望して学びをしたら、少々聖書の理解が足りなくても洗礼を受けることができると私は思っていたからです。また足りない理解は洗礼後に徐々に分かってくることもあると思っていました。結果として、その方は自分は正しく悔い改めることは特にないとおっしゃって教会を批判して去って行かれました。とても残念なことでしたが、祈ることしかできませんでした。洗礼を受けることは、単なる儀式でなく正に神の子となる霊的な生まれ変わりを表します。もし本当に洗礼を受けることを心から願っているのなら、「自分に罪はない、正しいのだ」と決めつけて怒って教会を去るのでなく、「自分の罪が分からない私をお赦しください」とへりくだって祈る心が大切なのだとはっきりと知りました。
2011年にイスラエル旅行でヨルダン川に行った時、たくさんの人が行列になって水の中に入り、何か順番を待っているようでした。よく見ると、一人方が並んでいる一人ひとりに洗礼を授けていました。川はお世辞にも綺麗とは言い難い水の色でしたが、水から上がった方々の顔は清々しく嬉しそうでした。イエス様が洗礼を受けられたヨルダン川で、洗礼を受けたいと願う方々は世界中にいらっしゃるのかもしれません。
【洗礼の意味】
「バプテスマ」とはギリシャ語のバプティゾーという「水に浸す」という動詞の名詞形です。過去の自分の罪を洗い流して、キリストの命を受け新しい生活に入りますというしるしです。ですから洗礼を受けるという行為の前に、イエス様を自分自身の救い主として心にはっきり受け入れているという前提があります。ヨハネは罪が赦されるために悔い改めに基づくバプテスマを説き、人々に授けていました。ですからヨハネから洗礼を受けた人たちは実際に罪から立ち返った人たちです。悔い改めた人に与えられる罪の赦しを受け取った人たちです。ヨハネは悔い改めた人に、その悔い改めに相応しい実を示すようにと言いました。イエス様は神の子で罪がなく、悔い改めることもないはずですが、イエス様が洗礼を受けたのはどういうことなのでしょうか。
【主イエスの洗礼】
イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。イエス様はヨハネのところ大勢の人々が列をなして、洗礼を受けている姿をご覧になって、御自分もその列に並ばれたことでしょう。イエス様は罪は犯しませんでしたが、罪人の一人として数えられることを良しとされ、同じ立場に身を置いてくださったのです。そして模範を示してくださったと言えます。聖霊によってバプテスマを授ける方が、先ず水でバプテスマを受けられたのです。イエス様の洗礼は、正にイエス様の究極の謙遜さの現れだと私は思います。
「そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』。」(10-11)
天が裂けることは普通では起こらない現象です。イエス様が十字架上で息を引き取った時、いきなり神殿の幕が裂けたことを思い出しました。またよみがえられた時、墓の入口を塞いでいた大きな石が開かれたことも思い出します。
イエス様は通常では開かないドアを開かれる方です。洗礼を受けたことを通して、後に聖霊が降るペンテコステを先取りするかのように聖霊が天から鳩のようにイエス様に降られました。その聖霊こそ、イエス様がこれから試練の荒野へと追いやられる時も一緒にいてくださる父なる神の守りでした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と父なる神様はイエス様の洗礼を心から喜ばれ、元々神の子であるイエス様に愛する子、と改めて愛を示されたのです。
【試練の只中に共におられる主】
私たちの前に立ちはだかり、決して開かれないように感じるドアや壁がないでしょうか。イエス様は神の子でしたが、人間と同じように地上の生活をされました。私たちが重荷と感じる壁の前に共に立ってくださり、共に苦しみを背負ってくださる方です。奇跡も起こすことがイエス様はお出来になりますが、なさらない時もあります。
先週金曜日に私の母が股関節の手術をしました。ここ数年、ひどい痛みに悩まされ杖を使って歩いていましたが、家から五分の距離にある教会へ行くのも車で送迎をしていただいていたほどです。手術前に家族一人ひとりに手紙を書いたようです。また家族LINEにはこう書いていました。「全てを主に委ねているので大丈夫ですよ。共にいて戦ってくださる神、全てを益に変えてくださる神に感謝です」と。皆で母の癒しのために祈って来ました。そして時にはすぐに状況を変えてくださることを望みもしました。しかし、神様は母の痛みと共にずっと戦ってきてくださったのだと母の言葉を読んで感謝をしました。
母は若い時に洗礼を受けたクリスチャンですが、私が献身することを反対したり、仕事も忙しく礼拝も長く休んでいた時期もありました。私には「別に熱心なクリスチャンにならなくていいよ。」と変なアドバイスをしていた時もありました。でも私が献身して東京の神学校に入ってから、母の信仰が変わっていきました。礼拝だけでなく、祈り会や交わりにも参加をするようになり、一人でデボーションをすることが確立していったようです。折に触れて聖書の言葉を手紙に添えて送ってくるときもありました。お酒が好きな父と結婚をして苦労も多かった母ですが、教会に行けない時期も含めて、神様の守りと導きの中にあったのだと思います。
また去年の10月に東京に来る直前まで、胃の調子が悪く流動食さえ喉を通らなかったこともありました。また東京に来た時も車椅子で移動して大変だったと思いますが、感謝の言葉を忘れることはありませんでした。母の信仰が成長するように多くの試練や困難を神様は与えたのかもしれません。洗礼を受け、神の子として歩む私たち一人ひとりに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と私たちの存在を喜んでくださる神様に感謝します。イエス様にとって父なる神様のこの言葉はイエス様が確かに救い主であることの宣言ですが、私たちにとっては神の子であることの宣言です。
洗礼はゴールではなく、スタートです。イエス様も洗礼を受けてすぐに試みに遭われます。「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。」(12-13)
荒野に追いやったのは聖霊です。そして荒野でイエス様はサタンから何度も誘惑・試みを受けられました。ヤコブ1:12~にこうあります。「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」(ヤコブ1:12-15)
試練が神様からくるものなのか、自分の罪が招いた結果なのか、サタンから来るものか分からないことがあります。私はそのような時は神様に祈って悔い改めの祈りをします。「神様、もし私が知らないで神様を喜ばせない罪を犯していたら赦してください。そうでなくてもこの試練を乗り越える力を与えてください」以前は、試練や誘惑を取り去ってくださいと祈っていたこともありましたが、最近はそれが神様の御心なら乗り越える力も与えてくださるに違いないと信じて祈っています。
洗礼を受けたから試練や試みに遭わないということではなく、洗礼を受けたからこそ神様に頼って、あらゆる困難や試練を乗り越えて信仰が成長する機会なのだと感謝できたら良いと思います。
イエス様は四十日の荒野での試みを経て、悪魔の誘惑にも打ち勝って、いよいよ福音を宣べ伝える働きを開始されました。
「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』。」(1:14-15)
【虹の約束】
「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。…「すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。」(創世記9:11、13)
天と地を創造された神様は、人が増え、悪と罪も蔓延して来た地上をご覧になり、ついに罪を一掃するために世界規模の洪水を起こされることを計画されました。ノアに箱舟を作らせ、その箱舟の中に入ったものたちだけが洪水を逃れ、救われました。ノアが一人で山の上で箱舟を作っている姿を周りの人々は、ノアの頭がおかしくなったと思ったでしょう。嘲った人もいたでしょう。箱舟が完成し、ノアと彼の家族と家畜が箱舟に乗り込んだ時、神ご自身が外からドアを閉められました。そして洪水を通して悪と罪に満ちた世界が洗い流されました。神様は愛に満ちた方であると同時に、聖なる義なる方でもあります。その神様の前で、罪は否応なしに裁かれる必要があったのです。悔い改める機会が与えられているのに、悔い改めることをせずにいるのなら、裁きを覚悟しなければなりません。神様は大洪水によって地を滅ぼすことはしないと約束をしてくださいました。
新約の時代になり、神様はイエス様を罪の裁きの身代わりとされました。罪を洗い流すために、イエス様がご自分の命を捧げ、血を流してくださいました。私たちの身代わりとなり、罪の裁きを受けてくださったのです。この主は罪と死に打ち勝った唯一の方です。
「4ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、5わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。6この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。7これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。」(テトス3:4-7) 人が受ける洗礼とイエス様が受けられた洗礼の大きな違いは、罪の悔い改めです。神の子であり、罪のないイエス様が洗礼を受けられたことは、正に究極の謙遜が具現化されたしるしに他なりません。私たちの洗礼は新しいスタートです。クリスチャンとなって受ける様々な困難や苦難は、キリストの十字架を覚えながら、乗り越え進ませていただきましょう。皆さまの受難節の歩みの祝福をお祈りいたします。