マルコ10:32-45「多くの人のために来られた主イエス」

2024年10月20日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ10:32-45
説教 「多くの人のために来られた主イエス」
メッセージ 堀部 舜 牧師

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。マルコ10:45

32さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、33「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。34また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。

35さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。38イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。

41十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。42そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

マルコ10:32-45

【大谷翔平】 僕はSNSで著名人の名言を見たりするのが好きなのですが、メジャーリーグで活躍中の大谷翔平選手の言葉に心を惹かれました。大谷選手が高校時代に寮のベッドの壁に貼っていたという言葉です。「真剣だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳ばかり」。もともとは武田信玄の言葉だそうです。

今日の聖書箇所は、「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」と教えて、仕えるリーダーシップと言われることもあります。これを実践していく時に、まさにこの格言を実感します。▼自分自身がどのように物事に向き合っているか、「愚痴」が出ていないか、「言い訳」が出ていないか。自分は100%神様に信頼して仕えているか、自分の責任を負って仕えているか。徹底的に捧げていく時に、難局を乗り越える知恵が出てくると思います。▼分野を問わず当てはまる、知恵の言葉ではないかと思います。

【聖書の文脈】

マルコ福音書を読んできました。8章でペテロの信仰告白があり、8-10章で3度受難と復活を予告され、エルサレムに向かって進んでおられます。11章ではエルサレムに入城し、受難週に入ります。▼十字架の待つエルサレムに向かう道すがら、主イエスは、ご自分に従う弟子の心構えを教えます。今日の箇所は、3度目の受難予告の直後で、3回の受難予告の中で最も詳細で、深みのある教えです。マルコ10:43-45は、マルコ福音書全体の中心聖句と言われることもあります。

■【1.受難と復活の予告】

今日の聖句の直前の32節から読んでいきたいと思います。

32aさて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。

軍事的解放者の期待

当時のユダヤ人の救い主メシアのイメージは、イスラエルをローマ帝国の支配から解放する、ダビデのような軍事的指導者でした。戦争によってイスラエルを解放する方であり、その決戦の場はエルサレムのはずでした。▼しかし、主イエスは、そのエルサレムにまっすぐに向かい、先頭に立って進まれました。丸腰でエルサレムに向かうキリストの姿に弟子たちは驚き、キリストがエルサレムで戦う戦争を想像して、人々は恐れました。

32bするとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、33「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。34また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。

神の計画

イザヤ50, 53章の「主のしもべ」の預言、詩篇22篇などと重なり合いながら、受難と復活が詳細に予告されます。▼実際に事が起こる前に、3度にわたってはっきりと予告されたことを、私たちは軽く聞き流してはいけません。これは、主イエスの受難と復活が、神のご計画の中で起こったことを示しています。主イエスの受難と復活は、ただの偶然ではなく、旧約聖書の預言が指し示し、主イエスの全生涯が向かう目標でした。

イエス・キリストの受難と復活は、私たちにとってどんな意味があるでしょうか?続く箇所で、主イエスはご自分に従う弟子たちに教えておられます。

■【2.弟子の姿】

35さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。

「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」

ヤコブとヨハネ

「主イエスが、(おそらくローマ軍を打ち破って)エルサレムで王となられる時、私たち兄弟に右大臣と左大臣として、あなたに次ぐ地位をお与えください。そのためにはどんな代価も払います」と言っています。彼らは、自分の出世と地位を求めました。▼主イエスは、死に至るまで神に従い、奴隷のように十字架の上で人々に命まで与えようと、エルサレムに向かっていました。その主イエスの前で、彼らは自分の栄誉と出世を求めました。▽彼らは自分の動機が恐ろしく自己中心で、主イエスとは正反対であることに気付きません。自分のことだけ考えていて、神様のためを考えてはいません。

他の弟子たち

彼ら二人の態度を見ていた周囲はどうだったでしょうか?

41十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。

主イエスの反応を見れば、弟子たちの怒りは正しい怒りではありませんでした。ヤコブとヨハネの利己心に憤っただけなく、自分たちが出し抜かれたことに腹を立てました。▼二人と同じように行動はしませんでしたが、他の10人も同じように、自分の栄光を求めて主イエスに従っていたことが透けて見えます。

彼らは少し前にも、「誰が一番偉いか」と論じ合っていました(9:34)。主イエスは「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」と言われましたが、弟子たちの心は変わりませんでした(9:35)。

地位や名声を求めることは、現代も変わりません。しかし、自分の栄光を求める人は、神の栄光を求めることはできません。

このようなことは、主イエスを信じて告白していれば許される、という問題ではありません。▼ヤコブもヨハネも、主イエスを救い主キリストとして信じていました。主イエスがエルサレムで王となることを期待していたからこそ、その右と左に、自分たちのための座を求めたのです。▼しかし彼らは、自分たちのために、キリストの権威を利用して、自分たちの栄光を追い求めました。キリストに従っていながら、キリストに似てはいませんでした。

■【3.神の国の価値観】

主イエスの価値観はどうだったでしょうか?自分たちのために栄光の座を求めたヤコブとヨハネに、主イエスは何と言われたでしょうか。

38イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。

主イエスが受ける苦しみ

主イエスの問いは、「受けることはできない」という答えを想定しています。▼「杯」は運命を表し、「バプテスマ(洗礼)」は苦しみや死を表すとも言えます。▼主イエスは、「このわたしが飲む杯」「このわたしが受けるバプテスマ」と強調しています。「この杯は、このわたしが受けるために備えられたもの」で、「このバプテスマは、このわたしが受けるために備えられたもの」である。それは、「さばきのために備えられた神の怒りの杯」を救い主が罪人に代わって飲み干す杯であり、「苦難と死を表すバプテスマ」を救い主が罪人に代わって通るバプテスマです。▽それは、救い主に固有の働きであって、誰かがこれを代わることはできません。罪のない者だけが身代わりとなることができるからです。

弟子が受ける苦しみ

ヤコブとヨハネは、主イエスがなそうとしておられる働きが何なのか、自分たちがどのような立場にあるのか、分かりませんでした。彼らの罪のためにこそ、主は死なれるのです。

39彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。

主イエスはある程度、彼らの言葉を認めます。38節と39節では、「」「バプテスマ」の意味が異なります。▽彼らは、救い主の固有の働きを果たすことはできませんが、主が成し遂げた働きに共に与かるようになります。聖餐の「」が表すキリストの血にあずかり、「洗礼」が表すキリストの死にあずかり、キリストの苦難に共に与かる者となります。▽(実際、使徒ヤコブは「使徒の働き」の中で、12弟子の中で最初の殉教者となり、使徒ヨハネは12弟子の中で最後まで生き残り、伝承によればヨハネ黙示録の著者として、厳しい迫害下の教会を教え励ましたとされます。)

▽しかしそのことは、主イエスの右と左の栄誉ある地位を得る根拠にはなりません。▼主イエスは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われました。私たちは、自分の十字架を負って主イエスに従うのですが、それは誇る理由にはなりません。▽命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言うべきです[1]。▼そうでないなら、イエス・キリストとは似ていませんし、キリストだけを求める謙遜な信仰から外れ、キリストを求め続けなくなり、キリストの恵みから外れてしまいます。

【適用】これは非常に重要なことです。▽キリストのうちに生きる時、私たちは良い実を結びます。その時に、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言わず、自分になにがしかの功績があると感じているなら、あるいは、徹底的にキリストの救いの必要性に打たれていないのなら、救われた時の信仰から離れてしまっているのです。罪人をありのままでお救い下さる圧倒的な恵みに留まり続けてはいないのです。

原罪

キリスト教の根幹に「原罪」という教えがあります。正統的なキリスト教とそうでないものを分ける「試金石」となるのが、「原罪」の教えだと言われます。▼人間は創造のはじめには「非常に良い」ものとして創造されたのですが、アダムが罪を犯し、その罪の影響は全人類に及んで、神を知る知恵は暗くなり、神に頼らず・神から離れ・神に逆らう思いが人間の性質を汚しました。▼牧師で作家のユージン・ピーターソンが、このことについて述べています。「わたしたちが経験する罪とは、つまるところ何なのだろうか。それは結局『いくつかの悪事を行ったこと』ではない。そうではなく、『悪い存在である』ということである。…間違ってやってしまった一時的過失という問題ではない。罪について祈ることは、もう二度と罪を犯さないと決意することではない。罪について祈るとは、罪人であるわたしたちと共に神が何を決意したのかを見出すことである」[2]。――「あれをした、これをした」という個別の行為の問題ではなく、良い木が良い実を結び、悪い木が悪い実を結ぶように、私たちの心が汚れ、全存在が堕落したために、悪い心から悪い行いが生じるのです。

キリストに似た姿

そのために、主イエスは、私たちに新しい命を与えて、存在全体を新しくし・きよくし・愛に満ちたご自分のかたちに造り変えて下さいます。 ▼しかし、この罪の影響力は、どれほど深いでしょうか。主イエスの弟子の中の最も優れた者が、主イエスをキリストと告白した後もなお、自分中心であり、神の栄光ではなく自分の栄光を求めていました。へりくだって神と共に、神のために歩む主イエスの姿とは対照的な姿でした。 ▼しかし、主イエスの救いとは、まさに主イエスに似た人間本来の姿に私たちを回復させることでした。▽だからこそ主イエスは、「高ぶり」を癒すために、身を低くしてすべての人に「仕える」ように招かれました。▽「自分の意志」ではなく、「神の意志」に従うために、「皆のしもべとなる」ように招かれました。この世を愛し、自分の栄光を求めるのではなく、神の栄光を求めるようになるために、権力をふるう立場ではなく、「仕える者」「皆のしもべ」となるように招かれました。▼これが、心の病をいやす神の処方箋です。キリストによって新しい心を頂いたクリスチャンが、神の国の新しい基準に従って生きる時に、キリストの愛の姿に似た神のかたちが回復され・癒され・造り出されていくのです。[3]

キリストの姿

42節以下は、マルコ福音書全体の鍵ともされる聖句です。

42そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。

43-44節は、新改訳2017や聖書協会共同訳を含む、多くの日本語訳や英語訳では命令形になっています。しかし、ギリシャ語を読んでも、また多くの注解書も、本来命令形ではなく未来形であることを指摘しています。岩波訳が未来形で翻訳していますので、これを読んでみます。

(岩波訳1995)43しかし、あなたたちの間ではそうではない。むしろ、あなたたちの間で大いなる者になりたいと思う者は、あなたたちに仕える者となるだろう。44また、あなたたちの間で筆頭でありたいと思う者は、皆の奴隷になるだろう。45なぜならば、人の子も仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ。そしてまた、自分のいのちを多くの人のための身代金として与えるために〔来たのだ〕」。

神の国で偉大な者となりたいものは、なぜ「仕える者」となるのでしょうか?なぜなら、神の国で最も偉大な方が、仕えられるためではなく、仕えるために地上を歩まれたからです。最も偉大な方に倣う者は、そのようになるのです。▽神の国で第一の者になろうとしたら、神の国の最も偉大な王のようにならなければなりません。そのためには、キリストは多くの人のためにご自分の命をお与えになったのですから、神の国の王に倣うその人も、死に至るまで人々に仕えるしもべとなると言われます。

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」マルコ10:45

多くの人のために、命を与えた主イエス

45節で、「多くの人のための贖いの代価」とあります。もちろん、イエス・キリストの十字架は、全ての人のためでした。▼この言葉は、「イエス・キリストお一人の命が、多くの人々を救う」という「対比・比較」の意味で使われています。▽そして、イザヤ書53章の預言の言葉が響いています。

イザヤ53:10-12 …彼が自分を、とがの供え物となすとき、…主のみ旨が彼の手によって栄える。…義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に 物を分かち取らせる。…これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

この言葉を背景に、ご自分の使命を述べられました。

45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

これこそ、神が私たちのためにくださったものです。主は私たちをありのまま、罪あるままで愛し、ご自分の命を与えて下さいました。ここに愛があります。これがキリストの愛であり、私たちへのプレゼントです。▼神の国の王が私たちを愛し、私たちのために命をくださったのなら、何も恐れる必要はありません。他の人々の批判を恐れる必要はありません。地上で苦しみを受けるとしても、命まで下さった主ご自身が共に歩み、共に重荷を担ってくださいます。主イエスを見上げて歩んでまいりましょう。

そうであるならば、――①イエス・キリストの十字架がなければ、私は神の前に死んだだけの者であることを理解し、②キリストの死がこの私のためでもあったことを知るなら、どうして私もキリストに倣い仕える者にならないでいられるでしょうか。

(岩波訳)43しかし、あなたたちの間ではそうではない。むしろ、あなたたちの間で大いなる者になりたいと思う者は、あなたたちに仕える者となるだろう。44また、あなたたちの間で筆頭でありたいと思う者は、皆の奴隷になるだろう。

私たちの内に神の国が到来する時、このようになるのです。この命にあずかることは、キリストのように生きることです。誰でも多かれ少なかれ、かつては人と競い・人を見下したり・マウントを取ったりしたことがあるかもしれません。しかし、今は人に仕え・人を立て・励まし勇気づける言葉をかけます。自分がやりたいことをするのではなく、神が求めておられることを行います。そこに、人間本来のあるべき姿・キリストのような愛の生き方があります。

適用:日常生活の仕える姿

ローマ教皇フランシスコが、日常生活の中での仕える姿を教えています。

それぞれが置かれている場で、日常の雑務を通して、愛をもって生き、自分に固有のあかしを示すことで聖なる者となるよう、わたしたち皆が呼ばれているのです。 既婚者ですか。キリストが教会にされたように、あなたの夫、あなたの妻を愛し大切にすることで聖なる者となりなさい。 あなたは労働者ですか。兄弟姉妹に仕える自分の仕事を誠意と能力を尽くして果たすことで、聖なる者となりなさい。 あなたは子や孫をもつ身ですか。イエスに従うことを幼い子どもに根気強く教えることで、聖なる者となりなさい。

主があなたを招いているこの聖性は、小さな行動を通して成長します。▼たとえば──ある女性が買い物中に近所の人と会い話し出して、陰口になったとします。でもその人は心の中でいいます。「いけない。人のことを悪くいわないようにしないと」。これが聖性の一歩です。▼今度は家で子どもが、空想の話を聞いてほしがると、とても疲れてはいたものの、傍らに座ってじっと優しく話を聞いてあげます。これもまた聖性をもたらすもう一つのものです。そして不安に押しつぶされそうなとき、…信頼を込めて祈ります。これもまた聖性のもう一つの道です。▼そして今度は通りに出て、貧しい人に気づくと、立ち止まって優しく話をする。これもまた別の一歩です。」[4]

(太字・下線、▼印は、筆者が追加した。)

キリストにならって生きることは、大げさなことではなく、身近な一人の人に接する一つ一つの場面でこそ実践することができます。

■まとめ

37…「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。

主イエスを信じる弟子たちの内にあった、自分中心・自分の栄光を求める心を、自分は持ったことがないと言える人がいるでしょうか。――しかし、主イエスは言われます。

43しかし、あなたがたの間では、そうで〔はない〕。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕と〔なるであろう〕。45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(口語訳に基づき、角括弧内は筆者が変更)

主イエスこそ、私たちのためにご自分の命を捨て、私たちに新しい命を得させてくださいました。私たちもキリストにならい、内におられるキリストの霊に従い、仕える者とならせて頂きましょう。

【祈り】

主イエス・キリストの父なる神様。私たちすべてのために、主イエスを惜しみなく与えて下さったことをありがとうございます。キリストに似たキリストに従う者として、私たちも隣人に仕える者とならせてください。私が安楽さを離れて隣人に愛を行う時に、喜んで仕える霊が私を支えて下さいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


[1] ルカ17:10

[2] ユージン・H・ピーターソン「聖書に生きる366日 一日一章」10月12日

[3] ウェスレー説教44「原罪」三・1,3,5

[4] 教皇フランシスコ「使徒的勧告 喜びに喜べ:現代世界における聖性」第1章14,16

【参考文献】

James R. Edwards, The Gospel according to Mark, The Pillar New Testament commentary.

R. T. France, The Gospel of Mark, A Commentary on the Greek Text.

Strauss, L. Mark, Mark, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament

N. T. Wright, “Mark for everyone.”, NT for everyone