マルコ4:26-34「神の国とは」

2024年6月16日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ4:26-34, エゼキエル17:22-24
説教 「神の国とは
メッセージ 堀部 里子 牧師

神の国を何に比べようか。…それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる

【今週の聖書箇所】

30また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。31それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、32まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

マルコ4:30-32

9時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。10そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。

エゼキエル37:9-10

【父の日を覚えて】

おはようございます。今日は父の日です。私には「お父さん」と呼ぶ人が四人います。①沖縄の(実の)父親、②ドイツのホストファーザー、③堀部家の義父、そして天の父なる神様です。私はドイツのお父さんのことを、留学が終わる直前まで「お父さん」と呼べませんでした。教会員のYさんの里子(さとご)で、フィリピン出身のMさんはYさんのことを「Otousan」と呼んでおられますが、私は当時、たかが一年の交換留学で「お父さん」と呼ぶことに恥ずかしい気持ちがしていました。しかし、ホストファミリーは忍耐して私が「お父さん」呼ぶことを待ってくださり、私がついに「お父さん」と呼んだ時にハグをして大喜びしてくれました。血の繋がりがない外国人の私を「娘」と呼んでくれているのに、そして「お父さんと呼んでいいよ」と許可を与えられているのにも関わらず、その特権に与るまで私は長い時間を要した訳です。

【アッバと呼ぶ親しい関係へ】

イエス様は弟子たちに神様のことを「父よ(アラム語でアッバ)」と呼ぶように教えられました。「アッバ」とは小さい子どもが父親に話しかける時に使う非常に親しい言葉です。あえて日本語にするなら「お父ちゃん」でしょうか。イエス様は弟子たちを「お父ちゃん」と呼べる関係性の中へ招かれたのです。

私の友人で、神様に「お父ちゃん、あのなー」と親しげに呼びかけて祈る人がいます。最初聞いた時はびっくりして、目を開けて彼女を見てしまいましたが、本人はいたって普通で、神様と彼女の関係がとても親しいんだなと感じました。「祈り」とは親しく天におられるお父ちゃんと会話をすることだと改めて感じた一件でした。

【神の国が来るように】

イエス様は弟子たちから「わたしたちにも祈ることを教えてください」(ルカ11:1)と請われた時、「祈るときには、こう言いなさい。」(ルカ11:2)と「主の祈り」を教えました。「主の祈り」の冒頭の言葉こそ、「天にまします我らの父よ」と神を父と呼んでいます。そして続く言葉に「ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ」とあります。この祈りは、正に「父なる神の御名による主権が支配しますように」という祈りです。御国とは神の国のことです。

今朝、開かれた聖書の箇所でイエス様は「神の国」のことを分かりやすく「二つの種蒔き」の例えを用いて話されました。

【神の国の種はイエス様】

「26また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。27夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。29実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。(マルコ4:26-29)

今朝、S姉より「里子先生、朝顔の種を蒔きましたか?」と聞かれました。「朝顔?そんなのあったっけ」と思ってしまいました。花が咲いたら気付くのですが、葉だけでは分かりませんでした。教会の人は誰も種を蒔いていないようです。もしかしたら近所のどなたかが、蒔いてくださったのでしょうか。誰も知らない内に朝顔の種が蒔かれ、芽を出して育っています。

種を蒔いて、必要な水分、光、養分という条件が揃っているなら、種の殻が破られて芽が出て実を結びます。そして収穫の時が来たら刈り取りをします。種を蒔いて、収穫までのプロセスを肉眼でずっと観察していても、ゆっくり過ぎて見えないと思います。でも最初の種蒔きの時と、収穫の時を比べたらはっきりと違いが分かります。

イエス様という種がこの地上(土壌)に来られて始まった「神の国」は、徐々に広がりを見せて行きました。神の国の国民が「クリスチャン」と呼ばれるようになります。イエス様が昇天された後、弟子たちが福音の種を携えて、周りの国々へと行き、種蒔きをして神の国の民(クリスチャン)が増えて行きました。この神の国は、イエス様が再び来られる再臨の時に、完成される国です。

【成長する神の国】

30また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。31それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、32まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。(マルコ4:30-32)

またイエス様は神の国が成長したらどれほど豊かで美しいかを、からし種のたとえを用いて説明してくださいました。からし種は本当に小さな小さな種ですが、成長したら大きな枝が張り、鳥が巣を作れるほどに大きな木になるというのです。

イエス様の公生涯で一番最初のメッセージは「神の国について」でした。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)。イエス様がこの最初の神の国メッセージをした時、どれだけの人が神の国が後にどれほど大きく成長していくかを創造できたでしょうか。

パリサイ人たちがイエス様に「神の国はいつ来るのか」と尋ねた時、イエス様は「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。」(ルカ17:20-21)と答えられました。神の国は、見える領土や国境を持ちません。キリストを王として心の王座に迎える人に与えられる国であり、天の国籍が与えられるのです。

【種蒔きの様々な方法】

昨日、Aさんに誘いを受けて、六人のクリスチャンアーティストの方々の展示会に行って参りました。Aさんのイラストや絵画を始め、彫刻や押し花、アクセサリーや壁掛けなどが展示されていました。その展示会を見て思ったことは、それぞれの個性が様々な物を通して作品に現されているのに、そこに一致して浮かび上がるのは「イエス・キリスト」なのだとはっきりと分かりました。作品を通して「イエス様」が見えるのです。展示場は普通の民家でした。まるで神の国・神の家にいるかのような温かな安息を感じました。

私たち夫婦は、新たに一人の彫刻家の方と出会い、話をする機会を得ました。小泉恵一さんという彫刻家の方です。クリスチャンホームに生まれて、独学で彫刻を学び、はっきりとイエス様を信じてからはクリスチャンアーティストとして一般の世界でも個展を開いている方でした。特に印象に残ったのは、イエス様の生涯をすべて彫刻で現わすために、バイブルスタディを大切にし、聖書の言葉を深く学んできたということでした。「展示会では一般の方々に『作品説明』という名目で、福音を語るチャンスが与えられて、証しすることができるんですよ」と嬉しそうに話しておられました。正に福音の種蒔きをし、神の国を拡げる働きをしておられると感心しました。Aさんは他のクリスチャンアーティストと出会い、仲間に入れたと喜んでいました。

私たちは有名なクリスチャンアーティストではないかもしれません。しかし、種の種類は一つで同じです。私たちが蒔いている種は、からし種のような小さな種かもしれません。しかし、この種の中に命があり、内側から溢れ流れる命に触れられるとき、無限に神の国が成長していきます。

【一粒の麦の死が豊かな実を結ぶ】

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24)

 神の国が成長する大きな要因の一つは、種が土に落ちて死ぬということです。この種の死は「イエス・キリストの十字架の死」を現わしています。父なる神は、独り子なるイエス様を十字架で死なせるために、地上に送りました。愛する子どもを死なせるためにわざわざ安心できる家を離れて、送り出すお父さんが他にいるでしょうか。我が子の死を、他の多くの方々のために役立てて欲しいと願う父なる神の大きな愛を受け取りたいと思います。

私たちはいろいろな状況を自分でコントロールをしたいと思いますが、コントロールするには限界があります。あらゆる壁にぶつかるその時こそ、古い自分に死に、新しくされるチャンスです。神の国の主である、神の支配のもとにすべてを置きたいと思います。

【欠けが用いられる時】

教会学校のメッセージに「二つのバケツ」というお話があります。おじいさんが毎日水を汲んで、二つのバケツに入れて道を歩いていました。でも一つのバケツには穴が開いていて、その穴から水がぽたぽたとたれて不完全な状態でした。穴の開いていないバケツは、穴の開いているバケツに言いました。「君は穴が開いて水を半分しか運べないじゃないか」

穴の開いたバケツはおじいさんに言いました。「おじいさん、僕は穴が開いて欠けがあり、ちゃんと水を運べていません。ごめんなさい。」するとおじいさんは言いました。「毎日、通ってきた道を見てごらん。道の片方は石ころだらけだ。でももう片方はこんなに綺麗にお花が咲いている。お前の穴から漏れる水が花を咲かせたんだよ」

イエス様は十字架に架けられ、釘で手足に穴が開きました。そして脇腹を槍で突き刺され、穴が開きました。しかしそこから流れ出る血潮によって私たちは癒され、罪を赦される存在と変えていただけるのです。そして、決して完璧でない者が、主の命の水を持ち運ぶ器(バケツ)と変えられるのです。

自分は足りない、欠け(穴)があると思っている部分がイエス様に触れられて、おじいさん(神様)や周りの人を喜ばせる花を、知らない内に咲かせているかもしれません。

先日、クリスチャンの友人とおしゃべりをしていた時の話です。彼女のご両親は牧師ですが、普段滅多に礼拝メッセージをされないお母様が、別の教会の聖会のメッセンジャーとしてお声がかかったそうです。お母様は「私なんかに御用が務まるだろうか」と思っていらっしゃるようですが、娘である友人は「うちの母は、ヨハネ黙示録から天国の話をするのがとても上手なんです。目の前に天国が拡がるかのように喜びを持って話すんです。80代になったからこそ語れる天国の話を聖会ではすると思います」と言っていました。

世の中では80代は既に仕事は引退をしている年齢ですが、牧師という職業は教団や教会の年齢制限がない限り、健康で働き続ける意志があれば、働くことができる仕事だと思います。しかし、「クリスチャンであること」に引退はありません。地上においても神の国を実現させ、天上においては永遠に主と共に歩む天の喜びがあります。どうぞ、神の国の祝福をどこでも味わう恵みに与りますように。