マルコ6:30-34「主イエスの眼差し」
2024年7月21日(日)礼拝メッセージ
聖書 マルコ6:30-34, 53-56
説教 「主イエスの眼差し」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
マルコ6:34
わたしの群れの残った者を、追いやったすべての地から集め、再びこれをそのおりに帰らせよう。彼らは子を産んでその数が多くなる。わたしはこれを養う牧者をその上に立てる、彼らは再び恐れることなく、またおののくことなく、いなくなることもないと、主は言われる。
エレミヤ23:3-4
おはようございます。先週は、梅雨明け宣言がされました。いよいよ夏本番ですね。また今週はパリ五輪も開幕します。メダル獲得を目指して競技する選手たちを応援しながら、私たちも与えられた日々の「人生のレース」を熱中症やコロナに負けずに、勝利していきたいと思います。
聖書の文脈――使徒たちの報告
前回、イエス様が弟子たちを二人一組で伝道前線へと送り出した記事からメッセージをしました。今日はその働きを終えた弟子たちがイエス様のもとに戻って来て、報告がされたところから始まります。
「さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した」(マルコ6:30)
「使徒たち」とは、「派遣された者たち」の意味ですが、十二弟子を指しています。弟子たちは初めての伝道旅行で経験したことを「みな報告した」とありますので、1から10まで全てをイエス様に報告したのでしょう。どんな報告があったのでしょうか。勝手に弟子たちの報告を想像してみました。
報告1:「イエス様、私たちが行ったところは、出会う人皆が興味津々に近づいてきたので、恐る恐るあなたのことを語りましたら、喜んで受け入れてくれましたよ」
報告2:「イエス様、我々はよそ者扱いされて、野宿をしたんですが、起きたら食べ物をくれる家族と出会いました」
報告3:「イエス様、私たちは病人の多い村に辿りついて、癒やしをしましたら、奇跡だと驚かれました」
いろいろな報告があったかもしれません。まるで子どもが学校から帰って来て、今日あったことを全て親に報告しているような場面を思い浮かべます。イエス様は弟子たちの報告を聞いて「ふんふん」とうなずいておられたのでしょうか。きっと笑みを浮かべながら弟子たちに温かい眼差しを向けていたのではと思います。
今朝は「イエス様の眼差し」が、人々のどのような必要に向けられたのかを、共に三つの点から考えて行きたいと思います。
【イエス様の眼差しの先】
イエス様は弟子たちの報告を聞いた後に、特別なコメントをされることなく、次のようにおっしゃいました。
「するとイエスは彼らに言われた、『さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい』。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」(マルコ6:31)
先ずイエス様の眼差しは、疲れと空腹を覚えている弟子たちの体に向けられました。
①弟子たちの身体の疲れと空腹
弟子たちの伝道旅行はそれぞれ実りがあったと思いますが、イエス様は弟子たちが何を成し遂げたかということ以上に、弟子たちの肉体を気にかけてくださったのです。「寂しいところへ行って」とありますが、「寂しいところ」のギリシャ語は「荒野や砂漠、孤独、見捨てられた」という意味があり、新共同訳聖書では「人里離れた所」と訳されています。つまり「他の人のいない場所に行ってしばらく休みなさい」と弟子たちを舟に乗り込ませました。イエス様のところには多くの人が集まる中で、食事をする時間も取れずに、疲労蓄積している弟子たち一人ひとりを心配してくださったのです。
「そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。」(マルコ6:32)弟子たちは、イエス様のアドバイスを受けてその通りにしました。
神学生時代の夏休みを振り返って
私が神学生時代の夏休みは毎年、地方教会などに派遣されて、チラシ配布や子どもキャンプのお手伝い、礼拝メッセージをしました。とても充実した夏休みでしたが、二年生の夏の最後は、声が全く出なくなってしまうことも懐かしい思い出です。
夏の活動を終えると恒例のリトリート(修養会)が持たれるのですが、それぞれ夏の派遣報告をし、自然の中でゆっくりと過ごす時間が与えられました。そこで疲れが癒され、美味しい食事をいただき、霊肉共にリセット時間が与えられることは、新学期からの学びと働きのために必要なことでした。
私たちはロボットではないので、休みなしに動き続けることはできません。休息を取ることは決して怠惰ではなく、働きとワンセットです。私たちは神様から与えられた身体を管理し、次の働きのためにガソリン満タンにする充電期間が必須なのです。イエス様は私たち人間の限界と必要についてよくご存じで、大きな働きを終えた弟子たちにも休息を促しました。イエス様の思いやりと愛の眼差しは、私たちにも向けられています。私たちの働きと休息は、調和が取れているでしょうか。
②押し寄せる群衆の魂の飢え渇き
二つ目に、イエス様の眼差しは、人々の内面に向けられました。
「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。」(マルコ6:33-34)
イエス様と弟子たちは舟に乗って静かなところへ向かいましたが、追いかける人々が先回りしていて、結局誰も休むことができませんでした。「ご覧になった」という言葉は、群衆の状況を綿密に調べる牧者の関心を表す動詞だそうです。イエス様の眼差しは、「群衆の心の飢え渇き」に注がれていました。人々がこんなにもイエス様を追いかける理由は何なのでしょうか。ただの興味関心だけではありません。イエス様が語る教えや奇跡の中に人間の力を越えた神の姿を感じていたからでしょう。イエス様は、舟に乗っている時から多くの群衆が見えたと思いますが、彼らの内側の飢え渇きをご覧になったイエス様の心が動かされました。
あわれみの心 > 自分の予定
「深くあわれむ」とは自分の心の中心(内臓・心臓)から相手の置かれた立場の痛みや必要を理解する感情で、福音書には12回出て来る言葉です。また他人の痛みを自分のことのように感じ、行動を起こす愛の心です。このあわれみの心は、自分の疲れや空腹、また休みたいのに面倒臭いという気持ちより強い思いでした。そして、この「深いあわれみ」は予定していた計画をひっくり返すくらい強い力を持っています。
弟子たちとイエス様は、群衆から離れて静かなところを求めて舟に乗ったのに、群衆が押し寄せて来たので、休む予定がやむを得ず変更されてしまいました。それでもイエス様はよしとされたのです。
共に神の前に出る
私たちはイエス様のように多くの人の必要に応えたり、あわれみの心を注ぐことは簡単ではありません。相手の立場や状況を本当の意味で理解することは、他人だとなかなか難しいことだからです。ましてや自分自身が未経験の苦難の中にいる人たちと寄り添いたいと思っても、拒絶されることもあります。
昔、知り合いのクリスチャンの方がこんなことをおっしゃいました。「他の牧師先生に話をしたら、本気で私に向き合っていないと直感的に思ってしまって、もう話したくないと思ってしまったんです。答えは自分で祈って神様からいただくことは頭で分かっていますが、牧師先生に祈って欲しくて」と。その言葉を聞いてドキッとした覚えがあります。人が心の重荷を分かち合う時、信頼関係も同時に構築しているのだと思わされました。カウンセリングを求められた時、牧師は話を聞きますが、共に神様の前に出ています。向き合っているというより、神様の方向を一緒に向いているというイメージです。そして共に心の深いところに主をお迎えしているのです。そして神様ご自身が私たちの魂と心を取り扱ってくださるのです。
羊飼いイエス様と羊たち~牧者の心は~
「羊飼いのいない羊」という表現は、旧約聖書で用いられるイスラエルを指す隠喩表現です(Ⅰ列王22:17、エゼキエル34:5)。並行記事であるルカ9:11には「群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた」と書かれています。イエス様の深いあわれみの心と眼差しは、飢え渇いた魂を喜んで迎え、神の教えを伝え、癒しが必要な人には癒しを施されたのです。弟子たちもイエス様の牧者としての対応を間近で見ながら、牧者の心を学んでいったのではないでしょうか。
大学の卒業旅行で寮の友人二人とネパールへ行った時の話です。畑先生という日本人女性が設立された「よもぎの会」でボランティアをさせていただきました。「よもぎの会」は、よもぎを乾燥させてお灸を作り、灸治療などを行っていました。ちょうど病院がない村を回って、一週間無料巡回診療をするとのことで、私たち三人も即戦力となるべく、もぐさ作りの練習をしました。そして、翌日から即実践に遣わされたのです!
朝早くから村の体育館のようなところに多くの人がやって来て、野戦病院のようでした。まるでイエス様を追いかける群衆のようです。畑先生の言葉で印象に残っている言葉があります。「私はネパールの方々が自分たちで自活できるようにきっかけ作りをしているだけで、後継者を育てたら私の役割は終わります。必要とされるまでここで働くだけです」と。今思い返すと畑先生は、ネパールの方々に対する牧者の心をお持ちで、「深いあわれみ」の心に満ちていました。
イエス様の十字架の救いをいただいている私たちはどうでしょうか。イエス様が罪深い私たち一人ひとりをあわれんでくださり、眼差しを注いでくださったので私たちは救われました。羊飼いのいない羊の群れの一匹であった私たちはその愛を忘れたら、命のない形だけのクリスチャンになってしまいます。イエス様は群衆に「多くのことを教え始められた」とあります。この教えの根底には「深いあわれみ」が流れています。イエス様の愛の心を少しでも分かる者になりたいと思います。
③群衆が連れて来た病人たち
三つ目に、イエス様の眼差しは病人に向けられました。
「(人々は)その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。」(マルコ6:55-56)
イエス様を追いかけていた群衆は、次は病人たちをイエス様のところに連れて来ました。病が重い人ほど自力で動くことが困難です。運ばれてイエス様のところに来ました。イエス様は大勢の病人も拒絶せずに救いの道を示し続けられました。
一方で弟子たちはどうなったのでしょうか。イエス様が病人を癒され、休むことなく働き続けている以上、一緒にいる彼らも休めない状態が続いていました。イエス様は休めとおっしゃったのに、実際には休めないとは一見矛盾しているようにも見えます。
イゾベル・クーンになされた癒しのわざ
中国雲南省とタイ北部のリス族へ遣わされたイゾベル・クーン(1901-1957)というカナダ人宣教師がいましたが、彼女が米国のムーディー聖書学校の学生時代の話です。イゾベルは授業料や生活費を稼ぐために、食堂でアルバイトをしながら勉強を続けていました。非常に忙しい日々でも神を第一にする習慣を大切にしていました。
ある日、イゾベルは学内のパーティーでメッセージを取り次ぐように指名されました。それだけでなく、そのパーティーで劇のおばあさん役も務めなければならず、ずっと動き回っていました。その前の週は、アルバイトと勉強があまりに忙しく、メッセージ準備のために十分な時間がとれませんでした。メッセージ当日の夕食の時間30分がありました。彼女は次の三つの選択肢の内、決断しかねていました。①夕食を食べるべきか、②夕食を抜いてメッセージ準備をするか、③30分を主にささげることで神を第一とするか。彼女は、自分のベッドの横に身を投げ出すようにひざまずき「おお主よ、わたしはあなたを選びます!」と泣きながらささやいたそうです。その瞬間、主の臨在が部屋中に満ち溢れ、疲れと失神するような気持ちはすっかりなくなったのです。イゾベルは自叙伝で次のように記しています。
「主のご愛に浸りきって、ゆったりとした気分になり、気持ちが一新されたのです。半分はひざまずき、半分は身を横たえたまま、何も言わずにただ主を愛し、主の優しさを飲み干している時、主は私に語りかけてくださいました。その晩のパーティーの最後に私が取り次がなければならない霊的なメッセージのアウトラインとその大事な箇所を、主は、静かに、一つずつ語ってくださったのです。それは、忘れることのできない経験であるとともに、忘れることのできない教訓でした。主を第一とすることには、常にその報いがあるのです。」
「多くの証人に囲まれて」イゾベル・クーン著、52頁
【まとめ】
身体の休息も癒しも結局のところ、神のわざなのです。現実の社会で生きている中で、実際には休む時がないくらい忙しい時もあるかもしれません。大切なことは真の休息と癒しを与えてくださる主を選び取り、第一とすることなのです。弟子たちは休めなかったかもしれませんが、イエス様と共に行動することで神のわざを目の当たりにし、その報いを共に受けたのではないでしょうか。私たちは、神のタイミングでなされる良きわざの証人になりたいと思います。
イエス様の温かい愛の眼差しは、弟子たちや群衆に向けられていたように、私たちの全ての必要(身体的、霊的、精神的、経済的…)にも向けられています。そして救われた者たちは、イエス様の眼差しの先を一緒に見て、牧者の心を与えられ、イエス様の手足として働く者とならせていただきたいと思います。皆さまの上に主の豊かな祝福が今週もありますように。