ヨハネ1:29-42「見よ、神の子羊」
2023年1月15日(日) 公現後第二主日礼拝 メッセージ
聖書 ヨハネ1:29-42,イザヤ49:1-7
説教 「見よ、神の子羊」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。…その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の子羊』と言った。」
ヨハネ1:29-30、35-36
「主は言われる、
イザヤ49:6
『あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。
わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう』と。」
【洗礼者ヨハネの使命~声となる~】
先週、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた聖書箇所からのメッセージを聞きました。「へぇ、イエス様でも洗礼を受けるんだ」と思った方もいらっしゃるかもしれません。今日は洗礼者のヨハネの姿から、模範とすべき姿を見て行きたいと思います。
当時、ヨハネは大々的に洗礼を授けており弟子もいました。その働きはエルサレムの当局者の知るところとなり、彼らはヨハネとその働きの調査のために人を遣わします。そして彼らはヨハネに「あなたはどなたですか」(19)と尋ねました。ヨハネはためらうことなく「私はキリストではない」(20)と答えています。そして、ヨハネは自分自身を「荒野で呼ばわる者の声」だと表現しました。預言者イザヤが預言した「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」は私のことだと(23)答えました。荒野で叫んだとして誰が聞くでしょうか。しかしヨハネは荒野で叫ぶ声になることが私の使命・役割だと受け取りました。
小林一茶の俳句で「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」という俳句がありますが、「そこのけ」とは、元々は大名行列が道を通る時に、道を妨げられることがないように人払いをするときに使われた「そこを退き去れ」の言葉を柔らかくしたものだそうです。ヨハネはイエス様が来られる前に、「罪よ、そこのけそのこけ、イエス様が来られる。人々よ、悔い改めよ」と声を大きくして人々に罪の悔い改めを迫りました。ヨハネの心にはいつも「私の後から聖霊の洗礼を授ける方が来られるのだ」と自覚がありました。
だからこそ「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。 1:27それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。(26-27)と宣言したのです。ただその方が親類の大工の子どもであるイエス様だとは知りませんでした。イエス様に洗礼を授けるまでは…。
【神の子羊】
イエス様の洗礼の翌日のことです。ヨハネはイエス様が自分のところに歩いて来られるのを見て声をあげて言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(29)と。ヨハネが言った「子羊」とは単に羊の子どもという意味ではありません。旧約の時代は、罪の赦しのためにいけにえとして子羊を捧げ、過越しの祭りの際に出エジプトを祝って子羊を焼いて食べました。イザヤ書53章では罪を背負い屠り場に引かれて行く子羊が描かれています。ヨハネは、イエス・キリストが全人類の罪を背負う犠牲の子羊として、十字架にほふられ人々の罪を取り除く方だとはっきり知って「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(29)と言ったのです。ヨハネは「わたしはこの人を知らなかった」(31,33)と言っているように、イエス様に洗礼を授けた時に聖霊が鳩のように降ったのを見るまでは、イエス様がまさか神の子羊であることは知らなかったのです。
「わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである。」(33-34)
知らなかったことを知るとき、視界が開けたように感じることはありませんか。パズルのピースがピタッとはまる感覚にも似ているかもしれません。ヨハネはイエス様とは親類でしたので、もしかしたら小さい頃一緒に遊んでいたかもしれません。メシアが来られることも知っていたでしょう。ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とイエス様のことを指差しながら叫んだと思います。今までは人々に向かって「メシアが来るので悔い改めよ」と叫ぶ声でしたが、目の前にメシアが歩いて来られるのを見て「見てください、正にこの人こそ私が言っていた人で、世の罪を取り除くことのできる方です」と叫ぶ声になりました。
【イエス様の選挙人として】
今の時代、洗礼者ヨハネのようにイエス様を指差して、「この人が救い主です」と言う声がもっと必要です。私の父は長く町会議員をしていましたので、応援して下さる方の声の重みを私なりに感じて来ました。選挙では宣伝カーからうぐいす嬢が「〇〇に清き一票をお願いします」と町を回ります。応援演説でも「〇〇さんはこのような素晴らしい政策で、きっとこんな良い事をしてくれます。だからお願いします」と言いますが、私たちはイエス様の選挙人になるべきです。「イエス様は救い主です。あなたの罪を赦し、取り除くことができる方です。この人を信じて一度人生をかけてみませんか」と。神の証人である教会が、またイエス・キリストと出会った一人ひとりがそのような声となることによって、聞く人がある日認識して行きます。パウロは言っています。
「…聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。…したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 。」(ローマ10:14-15、17)
【イエス様のところへ】
「その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊。」(35-36)
ヨハネのところにイエス様が歩いて来られた翌日、ヨハネは自分の二人の弟子と立っていました。そして次はイエス様が歩いて行かれるのを見ました。そしてまた言いました。「見よ、神の子羊」と。そして実際にイエス様を見たヨハネの弟子たちは、ヨハネを離れてイエス様について行ってしまいました。
「そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。」(37)
「ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする。」(40-42)
ここに一連の流れがあります。ヨハネの弟子として生きて来たアンデレが、ヨハネの声でイエス様について行き、イエス様の弟子となりました。そしてアンデレは自分の兄弟ペテロに「私たちはメシアに会った」と言って彼をイエス様のところに連れて来て弟子にします。ペテロはその後、イエス様の筆頭弟子として大きな働きをしていきます。
昔、A先生が半年アメリカに留学して帰国された時に一人の女性を連れて教会に住まわせました。彼女は職場でキリストの声となり、同僚が救われ、また更にその同僚のルームメートが救われるということがありました。その女性は今では〇〇教会で若手のリーダーをしています。私たちの声一つが、隣り人のための神様の計画を実現するのです。
【洗礼者ヨハネの謙遜さ】
一方で、ヨハネは自分の弟子をイエス様に取られた訳ですが、ヨハネはそれで残念だとか悔しがっていません。ヨハネがその時どのような気持ちだったなど何も記されていませんが、ヨハネは自分は変わらずイエス様の道を備える者として淡々と自分の役割に戻って行きました。ヨハネは生涯イエス様の陰の働きをしました。私たちが生きているこの世界は、競争社会で人を蹴落としても出世するためには仕方ないという風潮があります。上へ上へと目指す上昇志向ですが、聖書が教えることは「へりくだる」という言わば下降志向です。イエス様の言葉は以下です。
「あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」(マタイ20:26-28)
ヨハネは自分が弟子をたくさん持って偉いのだと威張ることでなく、例え弟子が自分から離れて行ったとしても、彼らが主イエスの働き人として用いられることを喜びとし、またただ自分の使命・役割が全うされることを喜びとしました。イエス様もヨハネのことを「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」(マタイ11:11)と言っています。ここに真にへりくだって生きる者の姿があるのではないでしょうか。私たちも首尾一貫して自分はどんな声を発するべきか、ヨハネに倣いたいと思います。
【選ばれ召された者の使命】
今朝はイザヤ書にも触れたいと思います。イザヤ書40章以下は、イスラエルの民が、長いバビロンの捕囚生活から解放され、エルサレムに戻って、まもなく神殿の再建にとりかかるという転換期を指す預言です。イスラエルの民は、故郷に戻り困難の中にありながら、希望を持って歩み出します。
49章はエルサレムに帰って来たイスラエルの民に神様から与えらえた使命が記されています。神に選ばれた者として「主のしもべ」が登場します。1節に「…主はわたしを生れ出た時から召し、母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。」とあります。「主のしもべ」は神様から召命を受けたことが記されています。聖書は一貫して神様の選び、使命が書かれています。預言者を選び使命を与え遣わす、これが神様のパターンです。
イエス様も「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。」(ヨハネ15:16)とはっきりと言っています。今日、このように礼拝出席されている方々お一人おひとりは神様に選ばれています。
2節見ると、「・・・わたしをみ手の陰にかくし・・・」選んだ人を神様は大切にかくまい守ってくださる方です。3節には「あなたはわがしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである」とあります。私たちは生きて行く中で何かを現して生きています。自己表現という言葉もありますが、クリスチャンは自己表現と共に、「神表現」の生き方が役割として加えられるのです。
6節にも「わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と約束が記されています。イスラエルが選ばれたのは、その特権を誇るためでなく、神の栄光を現すためなのだと。しかしイスラエルの民は神から離れ、不信仰に陥り、何度も神様を悲しませました。それでも神様は一度選んだ者を決して見放さず見捨てません。試練の只中にあっても導いてくださる方です。それは私たち人間の不信仰や罪よりも、神様の愛と恵みと憐れみがとてつもなく大きいのだということを表しています。
イスラエルの民は捕囚から脱出・解放されてそれで終わりではなかったのです。そこから始まる新しい歩み・務めがもっと大きな仕事なのだということをイスラエルの民は知ることになります。私たちも罪から脱出して救われた、これがゴールではないのです。神の救いの福音を語るそれぞれの声として召されているのです。イエス様の弟子となったペテロはたくさんの失敗をしましたがイエス様はペテロにこう言って励ましました。
「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。」(ルカ22:31-32)
私たちの人生も紆余曲折あるでしょう。その中で神の道を確かに歩んでいることを感謝しつつ、私に与えられた声で主の栄光を現して参りましょう。