ヨハネ1:6-8「光の証し人」
2023年12月17日(日)礼拝メッセージ
聖書 ヨハネ1:6-8、詩篇126篇
説教 「光の証し人」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
6ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。7この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。8彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
ヨハネ1:6-8
「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え 泣きながら出て行く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。」
詩篇126:5-6
おはようございます。アドベント第三の礼拝の朝を迎えました。そしてアドベントクランツに三本目の光が灯りました。いよいよ来週はクリスマスを迎えます。
先週は草加・川口キングスガーデンの礼拝メッセージのために行って参りました。川口キングスガーデンには友人のお母様が入居されていて、私たちがメッセージに行く時には、施設の方々の計らいで、礼拝に対面参加ができるように車椅子で連れて来てくださいます。今回もメッセージを終えてご挨拶をしました。するとお母様は、手にカラフルなポーチを握りしめておられ、そのポーチから紙を取り出して見せてくれました。「娘の手作りのアドベントカレンダーなんです。このポーチに御言葉を書いた紙が入っていて、毎日一つずつ御言葉カードを読んでいます」と嬉しそうに教えてくれました。施設で迎えるクリスマスの日を心待ちにされているお姿に心がほっこりしました。
この度、福田兄のお母様も川口キングスガーデンに無事に入居されましたが、施設長より恵子姉も私たちが礼拝の御用に行く時には、対面参加ができるようにしますとのことでした。関係がある先生がメッセージの時は、入居者の皆さんに対して可能な限り、そのようにしておられるのかもしれません。川口キングスガーデンは一回の礼拝で三人の方しか対面参加ができないのですが、施設の方々の愛の配慮に感謝しました。
クリスマスを家族と離れて、独りで迎える人のことを「クリぼっち」と言うそうですが、寂しさや孤独を覚える人のためにもイエス様は生まれて来てくださいました。特に愛する人を天に送ったり、多くの困難を抱えている人こそ、真実な温かい光を必要としているのではないでしょうか。共に泣き、共に喜んでくださるイエス様に感謝します。
【バプテスマのヨハネのこと】
今朝は「バプテスマのヨハネ」について話をします。ヨハネはイエス様が生まれる半年前に、不妊と言われ高齢になった祭司の夫婦から生まれました。祭司の家系は子どもも祭司になるのが慣例ですが、ヨハネが生まれる前に天使が父ザカリヤに現れ、生まれて来るヨハネの使命を次のように告げました。
「彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」(ルカ1:15-17)
生前から自分の立場や役割が決まっていることは、成長過程にあって想像を絶する重圧があると思います。王様の子どもとして生まれたら、将来王様になる者として相応しい教育を受け、引かれたレールを歩まなければならないでしょう。ヨハネの幼少期やどのような気持ちで成長したか、紆余曲折あったのかなど聖書は記していませんが、成人したヨハネは、責任と自覚を持って自分の使命を果たしました。
さて、ヨハネのところに実に多くの人が来て洗礼を受けていました。
「そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。」(マルコ1:5)
たくさんの人がヨハネのもとに来ていることを耳にしたユダヤ人たちが、「ヨルダン川で洗礼を授けているヨハネという人物は一体何者なのか」といぶかり、ヨハネの元に祭司とレビ人を遣わして質問をさせます(19)。「あなたはどなたですか」と聞かれたヨハネは「わたしはキリストではない」(20)とはっきり答えています。更に問答は続きます。「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。「いや、そうではない」。「では、あの預言者ですか」。「いいえ」「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答を持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。(21-22)
ヨハネは自分は、預言者イザヤが言った「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」(23)だと答えました。つまりヨハネは、自分はただ救い主が通られる道を整えるために、先に注意を喚起する声に過ぎないのだと言うのです。その答えに納得しないユダヤ人たちは更に質問を重ねます。
「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか。」(25)
彼らの疑問は当然だと思われます。彼らが本当に尋ねたかったことは「ヨハネはメシア(救い主)かどうか」と「誰の権威でバプテスマを授けているのか」でした。当時、バプテスマのヨハネの出現は、全ユダヤの興味関心を引くことだったようです。400年の空白を破って神の啓示の伝達者が遂に来られたか!と人々は思ったかもしれないのです。ヨハネは彼らの質問と挑戦に堂々と答えます(26-27)。遣わされた人たちは彼の答えを聞いて更に混乱したのでしょうが、ヨハネの心はますます燃えたのではないかと私は思いました。
【一体何者か~生きる目的と使命】
「あなたはだれですか」という質問はアイデンティティーに関する質問で、突き詰めると深い意味があると思います。私は誰なのか、何の目的を持って生まれて来たのか、なぜ存在するのかという「人間の起源と目的・使命」にまで及ぶ範囲の広い質問だと思います。
「TCK・Third Culture Kid」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。直訳するなら「第三文化の子ども」ですが、親の言語と文化と、育った文化や言語が違う環境で育つ子どもたちの総称です。よく宣教師の子どもたちにも使われ、見た目は外国人なのに日本で育ったために日本語がペラペラという人がいます。先週の北東京シティ・クリスマスの音楽ゲストの堀井ローレンさんのお母様もそうですね。私の友人にも親は日本人で、宣教師の子どもとして海外で育ち、学校と家庭と現地の人たちとの言葉を使い分けている人がいました。彼らは「あなたは何人ですか?」という質問がとても困るそうです。親の仕事の都合で海外にも関わらず、その国のパスポートを所持しておらず、日本には長く住んだことがないという微妙な立場で、「自分は一体何者なんだろう」という壁にぶち当たるのだそうです。宣教師の子どもだからと言って、自動的にクリスチャンになるわけではありません。それぞれに神様との個人的な出会いを通して、洗礼を受け、クリスチャンになります。
「あなたはだれですか」と聞かれる時、自分の使命や目的まではっきりと知って答えることができることは幸いです。ヨハネは光として来られるイエス様のために、道を備えることが自分の使命だと知っていました。ヨハネの活躍が聖書に記されていますが、「彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきた」(8)のでした。では証しとは何でしょうか。
【証しとは】
教会用語の一つが「証し」ですが、英語ではtestimonyと言います。意味は自分とキリストとの関係を公に話したり、書いたりすることです。具体的には、どのようにしてキリストを信じるようになったのか、教会に行き始めたきっかけ、自分の人生の転換期に与えられた聖書の言葉などを話します。つまり、イエス・キリストとの出会いの歴史です。
私の神学校の入学時の提出書類の一つに「証し」がありました。その時に初めて証しを書いたのですが、チェックしてくださった母教会の先生から「もっと具体的に、正直に書いてください」と何度か修正を求められました。私としては正直に書いているつもりでしたので、何をもっと具体的に書けばよいのか分からず、どうして「OK」がでないのか不思議でした。その後、神様の憐れみの内に無事に神学校に入学し、四年後に卒業しました。そして働き始めた教会で、多くの方々の証しを読んだり編集したりする機会が与えられました。その時に私がかつて先生に言われたことを思い出し、誰でも証しが書けるように具体的な質問表を作成したのが昨日のようです。
証しと言えば、救いの証しを思い浮かべると思いますが、他にも日常生活の証しもあります。私が使用しているアパ・ルームは、世界中のクリスチャンの証しが御言葉と共に掲載されていて、国や文化が違っても共感する部分が多くあったり、気付かされることが多いです。私たちはお互いの証しによって、励まされたり、共感したりすることでしょう。証しは、証しをする人の何かが素晴らしいのでなく、救い主であるイエス様が素晴らしいことを指し示します。ですから中心ポイントは、自分でなくイエス様にあります。今振り返ると、私が最初に書いた証しは、イエス様でなく自分が強く出ていたのだと思います。今では私の使命は、一生涯、ひたすらにイエス様を表す証し人になることだと思っています。
【ヨハネの使命と役割】
「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。」(6-7)
ヨハネはイエス様の親戚でしたが、イエス様が救い主として歩む道の道備えをするための使命が与えられていることを受けとめ、多くの人々に洗礼を授けました。またヨハネはイエス様との違いと、自分の役割をはっきりと認識しており、自分のことを次のように描写しています。
「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。(26-27)
ヨハネは、自分はイエス様の靴のひもを解く値打ちもない者に過ぎないが、ただイエス様のために働いているのだと言いました。ヨハネはとても人気があり、多くの人を集めて洗礼を授けていましたが、彼の関心は自分の資格や業績ではなく、自分が証言すべき方にありました。
「この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。」(7-8)
水を使って人を綺麗にする清めの儀式は、古くから行われていました。旧約聖書での水による清めで有名なのは、モーセが葦の海を渡ったこと(出エジプト14章)や、ナアマン将軍の皮膚の癒し(Ⅱ列王5章)があります。死海写本によると、エッセネ派でも洗礼が集団生活の中心的要素だったようです。ユダヤ教の洗礼を受け継いで、キリスト教の洗礼の道を開いたのがヨハネでした。イエス様の時代にはユダヤ教へ回心するための洗礼は多くあったようですが、その逆をヨハネはしたのです。つまりユダヤ人に悔い改めて洗礼を授けたことは、ユダヤ人を異教徒として宣言することで、前例がありませんでした。ヨハネが「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる所以がここにあります。
【使命に生きる者として】
自分が誰であるのかを知ることは、自分が誰でないのかを知ることも含みます。そして自分が誰であるのかを知ったら、その使命を実行に移す勇気と力が要求されます。もし自分にそのような勇気と力がなくても、神様を信頼することで進む力が与えられます。
先週、ある人からメールがありました。その方はわずか五年間で家族を含む身近な方々四人の最期を看取り天に送りました。天国で再会できると分かっていても、悲しみは尽きなかったそうです。また泣かないと決めても、涙が出てきたそうです。そしてとうとう先日の礼拝の後に岬へ行き、海に向かって繰り返し叫び祈り、涙枯れるまで泣いたそうです。そうする中で、その方が決心したことは、命の限り自分を救ってくださったイエス様のことを誰かに伝え続けるということでした。四人の中には、その方をイエス様に導いた方も含まれていました。イエス様の光と命を紹介されて、生きる意味を見い出したこと、これが自分のクリスチャンとしての喜びの使命だと再確認をしたそうです。
ヨハネは光であるイエス様の証人として、道を備えることが使命でした。道を備える人とは、道に険しい山があれば山を切り開いて低くしたり、谷があればそこを埋めて通りやすいように道路を作る人です。ヨハネはこのようにして、人々の心に道を作り、光であるイエス様が通りやすいように洗礼を授けていたのです。そして人々の信仰を神様に正しく向かうようにしました。
私たちの使命の一つは、イエス様への道を通りやすくするために整えることです。道の途中にゴミがあれば拾い、障害物があればどかしたりすることです。また私たち自身もキリスト誕生を待ち望みつつ、私たちの心と生活の真ん中にもキリストが通る道を備えたいと思います。今は忍耐の時かもしれません。イエス・キリストは神の子でありながら、天の栄光を捨てて地上に降りて来られました。そして数々の痛みを受けても十字架に向かわれるのです。このイエス・キリストを指し示す、現代の「光の証し人・ヨハネ」が必要とされています。私たちが生きている理由、感謝する理由、賛美する理由、全ての理由はこのイエス・キリストの内にあります。アドベント第三週も主の光の道を備えさせていただきましょう。