ヨハネ6:24-35「天からのいのちのパン」
2024年8月4日(日)礼拝メッセージ
聖書 ヨハネ6:24-35
説教 「天からのいのちのパン」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである」。…イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
ヨハネ6:27、35
しかし神は上なる大空に命じて天の戸を開き、彼らの上にマナを降らせて食べさせ、天の穀物を彼らに与えられた。人は天使のパンを食べた。神は彼らに食物をおくって飽き足らせられた。
詩篇78:23-25
【オリンピックの月に】
おはようございます。8月に入りました。パリオリンピックが続いていますが、世界のトップアスリートの方々が、メダル獲得目指して一生懸命に戦う姿に感動して励まされている私です。「古代オリンピック」はB.C.776年にギリシャで始まっているということで、使徒パウロも「古代オリンピック」のことを知っていたと思います。パウロは信仰生活を、競技になぞらえてこう言っています。
「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。」(Ⅰコリント9:24)
「また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。」(Ⅱテモテ2:5)
「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」(Ⅰテモテ6:12)
私たちも人生のレースの最後に、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」(Ⅱテモテ4:7)と悔いなく言い切ることができるために、キリストから目を離さず進んで参りたいと思います。
先週、舜牧師が「5つのパンと二匹の魚」の記事から「いのちのパン」についてメッセージをしましたが、そのパンの奇跡は、十字架を通してイエス様を信じる全ての人に与えられる「霊的食物のしるし」を示唆していました。その後、イエス様が湖の上を歩かれる奇跡の記事が続きます。今日はその続きを「パン」をキーワードにイエス様が意図されたことを分かち合いたいと思います。
【群衆のパン理解①】
大きな奇跡を行ったイエス様を追いかける群衆は後を絶ちません。舟に乗ってイエス様を捜し出しました。そしてガリラヤ湖対岸のカペナウムにいるイエス様と弟子たちを見つけました(ヨハネ6:24)。群衆の追いかけ方は、まるで自分たちの推しの芸能人をどこまでも追いかけるファンのようです。イエス様を見つけると質問をしました。
「先生、いつ、ここにおいでになったのですか。」(6:25)
イエス様は質問に直接答えず、大切な話をされる時に用いられるフレーズで「よくよくあなたがたに言っておく」(6:26)と話し始めました。つまり、「これから大切なことを伝えるからよく聞きなさい」と前振りをされたのです。イエス様は群衆が奇跡を目の当たりにしても、本当に大切なことを理解していないと見抜いていたからです。
「…あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。」(6:26)
パンを食べて満腹することは悪いことではありません。イエス様は、自分たちの食べることに興味関心が大きい群衆に続けておっしゃいました。
「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」(ヨハネ6:27)
人々のパン理解は、「パンを食べてお腹いっぱいになって満足したね。ああよかった~。」でした。イエス様について行けば、もっと他の食べ物にもありつけるかもしれないとでも思っていたのでしょうか。イエス様は決して「日々の糧」をないがしろにされる方ではありません。私たちの肉体の必要も御存じです。群衆の霊的無知に対して、チャレンジを与えたのです。
台風直撃のキャンプ
沖縄にいた時、沖縄福音連盟(OEF)主催の子どもキャンプの引率で渡嘉敷島に行った時のことです。沖縄の夏は台風の通り道と言われていますが、ある年は渡嘉敷島に渡った後に台風に見舞われ、沖縄本島に戻れずに延泊をしたことがありました。台風のために島に缶詰状態になった状態で、食べ物もどんどん少なくなって行きました。子どもも大人も誰もが心配と不安でいっぱいでした。そんな中でも、皆で集まり、御言葉と賛美と交わりを続けました。それが励みになり、不思議と食べ物で満腹する以上に、主に在る一体感と聖霊に満たされて、恐れや心配が吹き飛んでいく体験をしました。その年のキャンプは、自然界も治めておられる主を信頼することを、子どもたちと共に学ぶ絶好の機会となり、忘れられない夏のキャンプの思い出となりました。
群衆のパンの理解に話を戻しますが、群衆にとってのパンとはイエス様が指摘されたように、「食べてなくなってしまう食べ物、満腹・満足させてくれるもの」で終わっていました。イエス様は群衆が更に理解できるように招いています。イエス様が与えてくださるパンに込められたメッセージは何でしょうか。
【群衆のパン理解②】
イエス様は「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」(ヨハネ6:27)
とおっしゃいましたが、群衆は「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」(ヨハネ6:28)と応答しました。
「永遠の命に至る朽ちない食物」とはイエス様ご自身のことです。食べ物は取って食べるという行為をしなければ、体内に食べ物の栄養が取り込まれません。永遠のいのちに至る食べ物のために働くとは、それを自分の中に取り込む必要があります。端的に言うと「イエス様を取って食べる=心の中にお迎えし信じる」ということです。信じるということは、体の動きではなく心の動きです。しかし群衆は「わたしたちが何をすれば、神のわざをすることになるのか」とイエス様に問いました。
「何をすれば」とは、正にユダヤ人が律法の行いを重視していることを如実に表す言葉です。イエス様の答えは「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(ヨハネ6:29)でした。「行い」を強調した群衆に対して、対照的にイエス様は「信じること・信仰」が必要ですと語られたのです。つまり、群衆はとても熱心でしたが奇跡を経験しても不信仰でした。群衆にとってのパンは、自分たちの利益だけを求めた信仰抜きの形だけのパンだったのです。
熱心に見えても信仰がない?
私が神学生の時に派遣された教会に、とても熱心に求道されている女性がいました。私はその方のケアを任されましたが、なかなか一歩踏み込めませんでした。牧師に相談すると、「あの方は親のお墓のことで教会に来ているので、今は信仰はないですよ」とおっしゃるではありませんか。それでも心が変わるかもしれないと祈りつつケアに取り組みましたが、先生の言葉の通りにお墓の問題が解決すると教会に来なくなりました。
信仰抜きの形だけのパンを求めるなら、残念ですが神のわざも体験できないのです。私を含めた兄弟姉妹の皆さんも、形だけの信仰者とならないように気を付けたいと思います。自分がどこから救われどこに向かっているのか、自分の内側に初めの救いの喜びと感謝が失われていないか、また信仰の道を導いてくださっている主イエス様から目を離さずに進んで行きましょう。
【天からのいのちのパン】
群衆は信じるためのしるし(条件)をイエス様に大胆にも求めます。「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。(ヨハネ6:30-31)
群衆は5つのパンと2匹の魚で5千人がお腹いっぱいになったしるしを見たはずなのに、なぜまた別のしるしを求めるのでしょうか。モーセがイスラエルの民に天からマナを与えて食べさせたことを例に挙げています。彼らはイエス様を神が証印を押されて遣わされた者だと信じたいとは思っておらず、理屈で意地を通そうとしているようにも見えます。しかし、イエス様はここでも「よくよく言っておく」と語り始め、彼らの解釈を正されました。モーセが天からのパンを与えたのでなく、父なる神が与えたのだと(ヨハネ6:31)。
「(神が)与えてくださる」という動詞が過去形でなく、進行形で記されています。当時、マナを天から与えた神が今もなお、与えてくださる方なのだということが暗示されています。「神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。(ヨハネ6:33)「もの」聖書の欄外にある注意書きを見ると「者」とあります。別の訳では「人、方」とありました。イエス様はマナによっていのちを与える方でなく、イエス様ご自身がいのちなのです。このいのちは、ユダヤ人だけでなく、「世」全体に与えられました。
最後の晩餐で主イエスが示されたいのち
イエス様が十字架にかかる前、弟子たちと「最後の晩餐」の席でなさったことを思い出したいと思います。
「またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』」(ルカ22:19)
イエス様はご自分の体が十字架で引き裂かれることを、食卓のパンを裂いて弟子たちに見せました。奇跡を見なくても信じて従う人もいますが、どんな奇跡を見ても信じようとしない人もいます。「信じること」はそれぞれの意志の決断ですが、信じる心・信仰こそ「神からの贈り物」なのです。
【わたしがいのちのパン】
今日の結論は35節です。「イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。』」イエス様がそのようにおっしゃったのは、群衆の「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」(ヨハネ6:34)の要求に対する答えとしてでした。サマリヤの女性が「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」(ヨハネ4:15)とイエス様に「いのちの水」を求めた場面を思い起こさせます。サマリヤの女性はイエス様のおっしゃる「いのちの水」が理解しましたが、群衆は最後までイエス様のおっしゃる「パン」の意味を理解しませんでした。
「わたしは〇〇です」はギリシャ語で「エゴーエイミー」で、イエス様がご自分の神性を告げる時に使うフレーズです。イエス様は「わたしが命のパンである」とおっしゃった意味は、イエス様ご自身こそ、天からのいのちのパンだということです。信仰がないと、信仰によって与えられる先の栄光に目を留めることが難しく、今必要な生きるために必要なことに目を向けてしまいます。「いのちのパン」をいただくことを最優先事項にしましょう。
エリック・リデルの決断
「いのちのパン」を大切にして、信仰の決断をした人の話を最後にしたいと思います。ちょうど今から100年前の1924年、パリで第八回オリンピックが開催されていました。そのオリンピックでエリック・リデルという英国の陸上選手が男子400m走で金メダルを獲得しました。エリックの父親は昔、エリックにこう言いました。「エリック。もしおまえが、じゃがいもの皮むきがうまいなら、それによって主を讃えることができるんだ。人はそれぞれ、主からあたえられた力を発揮することによって、主を讃えるんだよ。おまえは、神の御名において走りなさい。」(「炎のランナー」p.51)
エリックは元々100m走のオリンピック英国代表として選出されたのですが、100m走のレースが日曜日に行われることを知り、敬虔なクリスチャンであったエリックは金メダルが狙える立場にありながら出場を辞退したのです。その代わりに400m走のレースに出ることになりました。エリックが400mでメダルが獲得できるとは誰もが想像できなかったでしょう。しかし、蓋を開けてみるとなんと、彼は金メダルを獲得しただけでなく、47.6秒の世界新記録を出したのです。200m走でも銅メダルを獲得しており、初めてのオリンピック参加で二つのメダルを獲得したのです。
彼は翌年、大学卒業して両親と同じ中国宣教師として天津に行きました。エリック・リデルの人生が映画化された「Chariots of Fire(炎のランナー)」は、1981年のアカデミー賞で四部門を制しました。エリックが礼拝のためにオリンピックのレースを辞退することは、信仰を持たない人たちにとっては、到底理解し難いことだったでしょう。しかし、彼は金メダル獲得よりも別の価値が、信仰にあることを世界に確かに示しました。エリックは中国で日本の捕虜となりますが、戦時中でも最後まで信仰を貫きました。
オリンピックのメダルはその年のレースに与えられる賞で、記録は更新されて行きます。しかし、私たちの人生のレースの賞はそれぞれに与えられる「義の栄冠」です。この世のパンは、一時的に私たちを満腹にすることができますが、「永遠のいのちのパン」であるイエス・キリストご自身こそ私たちの全てを満たす方であることを、経験させていただきましょう。
神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。
Ⅱコリント9:8