ルカ24:36-48, 使徒3:12-19「罪の赦しを得させる悔い改め」

2024年4月14日(日)礼拝メッセージ

聖書 ルカ24:36-48, 使徒3:12-19
説教 「罪のゆるしを得させる悔改め」
メッセージ 堀部 舜 牧師

Duccio di Buoninsegna: Appearance While the Apostles are at Table, Wikimedia Commons

【今週の聖書箇所】

 36こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕37彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。38そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔40こう言って、手と足とをお見せになった。〕41彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。42彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 43イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

 44それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。45そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 46言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。 47そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48あなたがたは、これらの事の証人である。

ルカ24:36-48

 12ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。13アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。14あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、15いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。16そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。

 17さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。18神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。19だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。

使徒の働き3:12-19

【報告】 先週の日曜日の午後には、子どもイースターがもたれました。子ども9人・大人8人が参加されて、ゲームの時は会堂が狭く感じるくらいでした。▼いつものように、様々な形で皆様のご協力を頂いたこと、感謝しています。皆様のご奉仕があって成り立っていて、多くの親御さん・子どもたちから感謝の声を頂いていることを、ご報告します。

イースターの後の聖書日課では、伝統的に「使徒の働き」が読まれるそうです。聖書日課で選ばれる聖書箇所は、互いに関連する箇所が選ばれています。今日の箇所では、同じ著者(ルカ)が書いたルカ福音書と使徒の働きから、「(復活の)証人」「悔い改め」というキーワードが共通する2箇所が選ばれています。福音書の前半は、イースター礼拝で並行記事を取り上げましたので、今日は福音書の後半と、使徒の働きを読んでいきます。

■【1.歴史を動かす神の主権】

【歴史】両方の聖句で、聖書の言葉が成就する神の主権が述べられています。

ルカ24:44…「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」

使徒3:18 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。

聖書は単に「あれをしなさい、これをしなさい」と良い行いを命じる書物ではありません。そうではなく、「神と人の関係」を教える本です。▼単に「〇〇をすることが神に喜ばれ、〇〇をしてはいけない」ということを言っているのではありません。そうではなく、上記の聖句が教えるのは、聖書は「わたし」(主イエス)について教えているということです。主イエスが来られること。主イエスがどのような方であるかを教えています。▼私たちが何をするかではなく、神が何をされたか、神がどのような方であるかを知ることが、重要なのです。

【受難】 神が何をなされたか。その焦点は「キリストの受難」にあります。

ルカ24:46-47 「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

使徒3:18 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。

キリストの受難こそ、神が昔から定め、預言していた出来事でした。キリストの受難を通して、私たちは「平安」を頂くのです。

【神の主権】 この世界で起こることを、私たちは予測できません。偶然に起こるように思われます。しかし、聖書はその背後に神の計画と主権があることを教えます。聖書を丁寧に研究すると、キリストの預言が主イエスに正確に成就したことがわかります。私たちは、信仰によって、神の主権が歴史を導いていることを受け止めます。

【恵みの確かさ】 しかし、その神の計画はそれは、敬虔な人々の奉仕によって、順調に進んだわけではありません。むしろ、人々の背きが、神の計画を実現しました。▽ここに、神の救いの真実さと確かさがあります。▼主イエスを十字架につけた、人々の妬みや不正や悪意が、神の計画を妨げることはありませんでした。キリストを十字架につけた悪そのものが、神の計画の実現のために用いられました。▽人間の努力からではなく、神の圧倒的な(主権的な)愛と恵みから、人間の善意によらずに救いをもたらされたことに、救いの確かさがあります。救いは、人間の悪に左右されない、神の愛と真実に根差しています。

■【2.神の計画と、私の関係】

「神の歴史上の働き」と「私たちの日常生活」の間には、どのような関係があるでしょうか?

【交わりの神】

使徒3:13「アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神…」

このフレーズは、聖書に繰り返し出てくる重要な言葉です。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とは、何かの概念に過ぎない存在ではありません。博物館に飾られた命のない標本でもありません。むしろ、あなたや私のような具体的な一人の人にかかわりを持ち、あなたや私の人生に働きかけ、語り掛け、ご自分を表される「人格的な交わりの神」です。▽世界の創造者として、人間をはるかに越えて偉大であると同時に、人間に合わせてご自分を表される交わりの神であることを表しています。聖書の歴史は、神と人の人格的な交わりの歴史以外の何物でもありません。聖書から神と人の人格的な交わり、神の語り掛けと人間の応答を取り除いたら、何が残るでしょうか?

イスラエル人は、アブラハム・イサク・ヤコブと血のつながった子孫ですが、私たちは信仰によるアブラハムの子孫です[1]。神様はアブラハムに目を留められたように、私たちをも顧みて、アブラハムに約束された祝福を、私たちにもくださいます。

【悔い改めの福音】

神様がなされた主イエスの十字架の御業は、私たちとどのように関わるのでしょうか?

ルカ24:46-47 …キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

この聖句は、前半ではキリストの御業について、後半ではそれがもたらす「悔い改め」について述べています。キリストの十字架は、私たちを「悔い改め」に招きます。ここでは、悔い改めが福音の中心に置かれています。

使徒の働き3章のペテロの説教も、主イエスを十字架にかけるのに賛成した人々に対して、悔い改めを求めます。

使徒3:19 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。

【悔い改め・回心・罪の赦し・信仰】 この箇所には「悔い改め」「立ち返る(回心)」「罪の赦し」があります。 ▼「立ち返る(回心)」エピストレフォーという言葉は、「方向を変える、向き直る」という意味の言葉です。神に対して背を向けていたのを、神のほうに向き直ることです。▽これに対して、「悔い改め」メタノエオーは、語源は「考えを変える」という意味です。その核心にあるのは、「罪を認識し・認める」ことと言われます。

ルターは、真の悔い改めは、神の愛を知った時に生まれることを教えます。「真実の悔い改め…は、単に審きを恐れるからではなく、神の愛を知って、『こんなに恵み深い愛の神に背いたのか』という燃えるような恥」なのだ、と述べています。[2]

【心の目を開く】 私たちの目を開き、神の愛を悟らせ、神の愛を知らずに背いていたことに気付かせるのは、聖霊ご自身です。

ルカ24:45-46そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、

【神の愛】 神は、主イエスに栄光を与えたのに、人々は主イエスを拒みました。異邦人ピラトは釈放しようとしたのに、エルサレムの人々は十字架刑を求めました。殺人犯のバラバを釈放させて、命を与える主イエスを死刑にしました。▼主イエスの復活によって、神の恵みが現れた時に、人々の背きが明らかになりました。

しかし、その人々に対して、神の恵みは惜しみなく与えられます。

使徒3:19 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。

キリストを十字架につけた人々に対してさえ、「罪を認めて(悔い改めて)」「神に向き直る(立ち返る)」なら、その罪が赦されることを約束しています。▼「拭い去る」という言葉は、古代にインクで書いた文字を消すときに使った言葉で、古代のインクは紙にしみこまなかったので、跡を残さず、簡単に洗い落とせたそうです。そのように、それと知らずに救い主を十字架にかけた人々の罪も、跡形もなく消し去られるように、完全に赦されることを教えています。[3]

【神のわざと人のわざ】 ここに、神のわざと人のわざがあります。私たちの信仰の目を開き、神の愛を認識させ、罪を悟らせるのは、聖霊の働きです。しかし、主イエスは「悔い改めて神に立ち返りなさい」と命じておられます。▼新約の時代に、私たちはすべて、主イエスへの信仰による恵みへと招かれています。私たちが悔い改めて立ち返るようにと、主イエス・キリストの恵みをもって招かれています。▼神の御業を認め、罪を認めて、神を信頼する応答が求められています。

■【3.罪赦された人の特徴】

【謙遜】

そのようにして罪を赦された人の特徴は何でしょうか。それは、第一に謙遜です。

使徒3章で、生まれつき足がなえた人が、主イエスの名によって立ち上がるという大きな奇跡が起こりました。人々が驚いて言葉を失って集まってくる中で、ペテロは言います。

使徒3:12 …「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。

ペテロは自分の力や敬虔さには頼りません。それがどんなに無力であるか、知っているからです。ただイエス・キリストに信頼し、目を注ぎます。私たちは、何かをなすときに、自分の働きに注目し、自分の働きを誇るでしょうか?そうであるなら、まだキリストにより頼んではいません。そうであれば、キリストは私たちを通して力強く働かれないでしょう。神の恵みが自由に流れ出ることはできません。▼神により頼む、打ち砕かれた人は、自分自身を表すのではなく、主イエスを表します。

【平安】

また、罪の赦しは「平安」が伴います。

ルカ24:36「やすかれ」

罪が赦されたという平安、神との妨げのない交わりからくる平安があります。▽自分の利益を求め、自分の計画を成し遂げようとし、自分の計画に従って生きようとするなら、私たちは目標を外して、いつまでも満足できず、絶えず満ち足りない、何かが足りない焦りにさいなまれます。しかし、神の御心に従う時に、「これでよい」という満足感と充実感を味わうことができます。

ピリピ4:6-7 「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 4:7そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

主は「何も思い煩わないで良いのだ、わたしが守るから」と言われます。神は願い事を聞いて下さり、神が問題に対処してくださるのです。あらゆる場合に、祈りは聞かれるのです。

【妨げるもの】

もしそうでないとしたら、それはなぜでしょうか?

ビリー・グラハム牧師は、20世紀のもっとも偉大なキリスト教の指導者の一人と言われますが、祈りの大切さを強調した人でした。彼はアメリカのノースカロライナに住んでいましたが、ある時、引っ越した時に、家のそばに泉があり、近隣の住民たちに「この泉は絶対に枯れない」と教えられたそうです。その言葉のとおり、どんな日照りの時も、水が枯れることはありませんでした。ところが、ある年の冬に、寒さが非常に厳しかった時、泉から弾いていた飲み水が止まってしまいました。それは、飲み水を引くパイプが凍って、水が流れなくなってしまったのだと言います。そこで、ビリー・グラハム牧師は、土を掘って、機械を使ってパイプを温めて、凍った水道管を温めました。すると、再び水が流れるようになりました。

 ビリー・グラハム牧師は述べています。「私はよく聖霊をこの泉にたとえます。聖霊はどんな状況であっても助けの手を差し伸べることを止めることはありません。我が家の裏にある渇くことのない泉のようにです。しかし、罪は水道管をふさぐ氷に似ています。霊的に冷たくなってしまうと、私たちの魂は凍りつき、聖霊がくださるいのちの水を遮断してしまうのです。 詰まったものを取り除いて流れを回復させる唯一の方法は、まさに悔い改めることです。あなたの霊的生活が渇いて荒廃しているなら、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と祈ってみましょう。」[4]

■【まとめ】

私たちと神の間には、恵みの流れを妨げる障害物があるでしょうか?祈りが聞かれているでしょうか? そうでないとしたら、何が妨げとなっているでしょうか?主は、ご自分の民の祈りを聞いて下さるのです。

主の恵みの光に照らされる時に、私たちの罪が明らかになります。「19 …悔い改めて本心に立ちかえりなさい」と言われる主に従って、罪を認め、主に信頼する時、主は私たちの信仰の目を開き、私たちの心を新しくしてくださいます。

自分の力によって生きる人は、自分を誇ります。しかし、神により頼んでいる人は、神を誇ります。神は、ご自分がふさわしくほめたたえられるように、私たちを恵みで囲ってくださいます。私たちは、あらゆる場合に神に頼り、思い煩うことなく、神にゆだね、神に対処していただくことができます。

ルカ24:46-47 キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

おのれに頼らず、神により頼み、神をほめたたえる者として、主を証して歩ませていただきましょう。

【参考文献】

Bock, Darrell L. Luke. 2 Vols. BECNT. Baker Academic, 1994.

Green, Joel B. The Gospel of Luke. NICNT. Eerdmans, 1997.

Witherington, Ben., The Acts of the Apostles: A Socio-Rhetorical Commentary.


[1] ガラテヤ3:7

[2] 北森嘉蔵「宗教改革の神学」第一部 ルターの神学「悔改め・律法」p35-39

Kittel, G., Theological Dictionary of the New Testament.「μετανοέω」参照

ジョン・ウェスレー説教53 (上) 説教13, 14

[3] Bock, Darrel, Acts, Baker Exegetical Commentary on the New Testament. 3:19

[4] リビングライフ2009年6月9日