ヘブル5:5-10「苦しみを通し従順を学ぶ」

2024年3月17日(日)礼拝メッセージ

聖書 ヘブル5:5-10、詩篇51:1-12
説教 「苦しみを通し従順を学ぶ」
メッセージ 堀部 里子 牧師

キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。ヘブル5:7

【今週の聖書箇所】

7 キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。8 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、9 そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、…

ヘブル5:7-9

3  わたしは自分のとがを知っています。
  わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
4   わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。
  それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
  あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

10  神よ、わたしのために清い心をつくり、
   わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

詩篇51:3-4、10

おはようございます。メッセージの前に、新聖歌379番「主よわが罪と汚れをきよめ」を賛美しましたが、歌詞の中に「♪わが意志を 砕きてきよめ、わが趣味を ことごときよめ、わが声と言葉をきよめ、わが時と宝をきよめ♪」とありました。

罪や汚れがきよめられることは普通に理解できますが、なぜ自分の意志や趣味や声などがきよめられる必要があるのでしょうか。私はすべてのものは神様から与えられて、神様にお返しするからだと理解しています(ローマ11:36)。神様から与えられたものを自分勝手に使うのでなく、神と人のために運用して、何倍にもしてお捧げしたいのです(マタイ25:15-16)。ですから私たちの神様への捧げものが「きよめられ」、神様の心に適う捧げものとしてお返しできたらと思います。

【三つの苦しみ】

今日のメッセージタイトルは「苦しみを通して従順を学ぶ」ですが、私たちが人生で出遭う「苦しみや苦難」を通して、私たちは鍛錬され、「きよめの道」を学ぶことがあります。昔から「苦労は買ってでもせよ」と言われるのはそのためではないでしょうか。

では「苦しみ・苦難」とは何でしょうか。大きく三つに分けられると思います。①肉体的な苦しみ、②精神的な苦しみ、③霊的な苦しみ、それらが様々な形を取って私たちを取り囲み、襲ってきます。

原因は何でしょうか。病、失業、離婚、不合格、別離、不慮の事故、喪失、人間関係の難しさ…。不可抗力の中で起こることもあれば、自分の罪の結果、招いてしまった苦しみもあるとあると思います。しかし、聖書的な解釈で言うなら、全ては神の許しの中で起こっています。今朝は三つの苦しみ(①人間の苦しみ、②主イエスの苦しみ、③神の苦しみ)を通して学んで行きたいと思います。先ず詩編51篇の「ダビデの苦しみ」から「人間の苦しみ」を見て行きたいと思います。

①ダビデ(人間)の苦しみ

・ダビデの罪と悔い改め

ダビデは王になる前、サウル王の妬みと嫉妬から命を狙われ、荒野で逃亡生活を送っていました。家族の中にも頭を抱える多くの問題が潜んでいました。ダビデが多くの苦しみを経て、王になり、生活も落ち着いていたある日のことです。部下たちは敵との戦いに出ていましたが、ダビデは宮殿に留まっていました。その時、美しい女性バテ・シェバが水浴びをしている姿に心が捕らえられ、自分のものにしたいと思ったのです。その女性はダビデの部下・ウリヤの奥さんでした。彼女がダビデ王の子どもを身ごもった時、ダビデはどうにか自分が犯した罪を隠そうとしました。そのために、バテ・シェバのご主人ウリヤを戦いの最前線に送り、敵に殺させたのです。こうして誰にも知られずに、バテ・シェバを奥さんとして迎えたと思いました。しかし、神様は全てを御存じでした。預言者ナタンがダビデ王のところに送られ、ダビデの罪を暴いたのです。ダビデは自分のした罪に気付きました。ダビデはナタンに「わたしは主に罪をおかしました」(サムエル下12:13)と素直に罪を認め告白しました。その時のダビデの詩が詩篇51篇です。

・ダビデの祈り

ダビデは自分が犯した罪の大きさに愕然としました。部下の奥さんを略奪し、身ごもらせ、隠蔽工作をして部下を殺し、何事もなかったかのようにバテ・シェバを奥さんに迎えたダビデでしたが、我に返った時、どんなに自分のしたことに打ちのめされ、後悔したでしょうか。王様の立場を利用して、預言者ナタンを叱りつけ、「証拠はどこにある。私は罪を犯していない。下がれ!」と言うこともできたでしょう。しかし、ダビデは自分の罪を認め、神に祈りの内に嘆願します。

「神よ、あなたのいつくしみによって、
わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。」(詩篇51:1-2)

自分自身の罪に絶望したダビデの真実な言葉です。誰のせいにするのでもなく、また「私を取り巻く環境を変えてください」と言うのでもなく、「こんな私をあわれんで欲しい」と神様の恵みに訴え願いました。「あわれむ」とは、日本語的に言うなら私は「情けをかける」だと思います。到底、情けなど注がれるに値しない者が敢えて、自分の失敗や間違いに目をつぶってもらい、相手の良心に訴えるといったところでしょうか。自分の立場を考えるなら、大胆な行動だと思います。しかし、神様の前に出て、自分の罪を認め、赦してもらうにはそのような大胆さが必要です。取り返しのつかない自分の罪の前に絶望し、神のあわれみを請うことは赦しときよめへの近道です。

ダビデは悔いただけでなく、自分の罪がきよめられること、そして新しくしてくださいと神様に願い出ました。

「ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう。」(詩篇51:7)

「神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。」(詩篇51:10-12)

私たちは過ぎた過去を変えることはできませんが、未来は変えられます。ダビデの真の悔い改めは、神様の御心に適い、ダビデは王としての任務を続けることが許されました。ダビデと同じように罪を指摘されながらも、真の悔い改めに至らなかったサウル王やヘロデ王は、後に失脚し悲惨な最期を遂げています。

・罪の破壊力

ダビデは様々な苦しみを通った人でしたが、彼にとっての究極の苦しみは、神様から見放されること、神様から断絶された世界を生きることでした。罪を悔い改めないで突き進むとどうなるのか、罪がどれだけ大きな破壊力をもって人の人生を蝕む怖さを知っていたと思います。だからこそダビデは、自分の内側が新しく造り変えられること、救いの喜びを回復してくださるようにと望みました。ダビデは後にこう告白しています。

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。」(詩篇119:71)

ダビデは人間を欺くことができたとしても、神様を欺くことができないことを知っていました。罪は救いの喜びを取り去ってしまうものです。ダビデは詩編51篇の最後で、国のため、エルサレムのためにも祈りをささげています。王である自分の罪が国を揺り動かす深刻な問題だと捉えたからでした。自分の努力で罪を洗いきよめることは不可能です。苦しみを通して私たちは自分の無防備でありのままの姿に気づかされ、罪に気付き、何かに助けを求めるのではないでしょうか。助けを求める相手が真の神様であることが重要です。

②主イエスの苦しみ

イエス様の苦しみは、十字架の苦しみでした。ただ十字架に架かって死ぬという苦しみで終わらず、イエス様の肩に全ての人の罪がのしかかっているとてつもない重圧が苦しみなのです。罪の処理のために罪と一緒にイエス様が一度死ぬ必要がありました。

「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。」(ヘブル5:7)

イエス様の十字架上の苦しみとは、精神的、肉体的、霊的苦しみでした。理解してもらえない人々からは嘲られ、罵られ、弟子たちからも裏切られ、父なる神に叫び求めても沈黙の状態の中で、一人孤独で苦しみに耐え抜かれたのです。聖書は、イエス様は苦しみを通して学ばれたことがあると記しています。

「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、」(ヘブル5:8-9)

イエス様は、従順を学ばれたとあります。しかし一方で、イエス様は神の子なので、従順なのは当たり前ではないかという疑問が湧きます。イエス様は究極の苦しみの只中で、敢えて従順を新たに学ぶことで、苦しみの全てを理解され、私たちを励ますために模範を示されたのではないでしょうか。

イエス様は「…あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33b)と励ましの言葉を残しています。イエス様の苦しみは、人間の苦しみとは次元の異なる苦しみであることが分かります。しかし、人間の姿でその苦しみを一身に受けられたところに神の子としての従順さが現されています。

③父なる神の苦しみ

イエス様の苦しみを天から見守っておられた父なる神の苦しみはどれほどでしょうか。十字架上で苦しまれる我が子をすぐにでも助けたいのが父の心ではないでしょうか。しかし、父なる神様の愛の忍耐が、私たち人間の救いのために全うされたのです。

「はじめてのおつかい」というテレビ番組がありますが、幼い子どもが、親からお願いされた初めての「おつかい」に挑戦する様子をドキュメンタリータッチで描いた番組です。子どもが一人で初めてお使い行く時、道を間違えたり、買うものを忘れたり、泣いたりしても親はただ見守り、手助けをしません。子どもが助けを求めて「ママー、パパー」と泣いても親は駆けつけません。そして初めてのお使いを全うして初めて、子どもを抱きしめ「よくやったね」と共に喜ぶのです。子どもにとっての試練かもしれませんが、それを乗り越えて初めて到達する喜び、成長があります。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。…肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル12:2、10-11)

父なる神の苦しみは、人間と独り子イエス様の苦しみの先にあるものを見据えた愛の忍耐なのです。

【苦しみの只中で求める】

[①]1985年、AP通信のベイルート支局長の米国人ジャーナリストのテリー・アンダーソンがテニスをしていた時に、武装集団に誘拐されてしまいました。彼はその後、6年間監禁されて過酷な状況で過ごさなければなりませんでした。ベッドに鎖でつながれ、目隠しされて独房に監禁されていました。彼は誘拐されて以来、深い孤独に打ち勝つ方法を身に付けました。過去を悔やんだり未来を夢見たりせず、ただ一時間一時間を生きる思考方法を「服役」と呼び、集中力と自信を保ったそうです。三年間は一度も太陽を見なかったそうです。武装集団は彼をサンドバッグのように扱ったり、殴ったり、体の上で飛び跳ねたりあばらや耳をライフルで突いたりしました。また心理的にいたぶり続けたそうです。

ある時、彼の中で何かがはじけました。心の奥深くから抑えがたい感情が湧き起って、近くにいた見張りの人に言いました。「こんな仕打ちはあんまりだ。私は動物じゃないんだ。」驚いた誘拐犯たちは、アンダーソンに「お前の望みは何だ」と尋ねました。すると彼はすぐに「聖書」と答えたそうです。彼はすぐに「新アメリカ標準訳聖書」の新品で最新版を与えられました。そしてそれ以来、状況が改善されていきました。そして1991年12月4日、誘拐された日から2454日目、解放され自由の身になりました。彼は解放されて初めて6歳の娘と会いました。

現在も人質として連れ去られた人たちが世界にいますが、どのように自分自身に希望を与え、保ち続けているのでしょうか。苦しみに対処する方法は世の中に幾つもあるでしょう。しかし、罪という苦しみに対処する方法はただ一つ、キリストの十字架のみです。

また人間の苦しみとイエス様の苦しみ、父なる神様の苦しみ、この三つの苦しみが出会うところが十字架でもあります。十字架の死の先には、「キリストの復活」があります。イエス様の十字架の苦しみを通して「父なる神に対する従順」を学ばれたように、私たちもキリストに倣う者でありたいと願います。

パウロは、「弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、『わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない』と語った。」(使徒14:22)とあります。

・そこにおられる神

高校の英語のクラスで、クラスメートが英文の文章を読んだ時、一つの単語を読み間違えて、笑いが起きました。彼は「nowhereノーウェアー」を「now hereナウ ヒアー」と読み間違えてしまいました。今思い出すと、含蓄のある面白い間違いであったと思います。読み方一つで意味が全く反対になるのです。私たちも今の苦難や苦しみを、視点を変えるだけで「神はどこにもいない(nowhere)」でなく、「神は今ここにいる(now here)」となり得ることを私たちは経験したいと思います。

苦難、困難の中で信仰を持ち続けることこそ、勝利の秘訣だからです。イエス様は十字架という苦しみを受け、父なる神への従順を学びましたが、決して盲従・盲目的な従順ではありませんでした。イエス様の従順には、後の栄光と祝福を確信した喜びがありました。

皆さんや皆さんの周りの方々が、どのような苦難の中にあるか私は全てを知りませんが、神様はご存じです。私たちは、ダビデのように苦難を通して悔い改めるべきことがあれば、悔い改めて義の実を結びたいと思います。そして、イエス様の十字架の苦しみを覚え、キリストに倣うものをさせていただきましょう。苦難につまずくのでなく、苦難を乗り越えてくださったイエス様の御足跡を辿り、私たちも「主の従順」を新たに学び、受難節を進みたいと思います。皆さまの上に主の祝福が豊かにありますように。


[①] 「本当にあった奇跡のサバイバル60」日経ナショナルジオグラフィックp228