ホセア6:6「いけにえより、真実の愛を」

6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
ホセア6:6
23偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。24盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
25偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。26盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。 27偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。28このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
マタイ23:23-28
【主を喜ぶ】 2/28(土)にケズィック・コンベンションの青年大会があり、最近来られている中国人のGさんと一緒に参加してきました。Gさんは、ケズィックの集会に出席して、非常に感動した様子でした。讃美チームの讃美は特に素晴らしかったです。私たちの席から見えるところで、手話の方々や、障害を持った方々がおられて、一つになって主を讃美し礼拝しておられたことにも、Gさんは感動されたそうです。

集会後の交わりの時に、たくさんの青年たちと交わりを持ちました。ある青年は、家庭礼拝もしている敬虔なクリスチャンホームで育ち、今は教会学校の奉仕や青年会のリーダーをしています。以前は、自分自身の霊的な養いは、讃美と祈りをしていれば良いと思っていたそうです。最近、スマホの聖書アプリYouVersionを使って、毎日聖句1節の黙想を始めたそうです。朝の通勤電車で気持ちが沈んでいる時にも、御言葉を読むと喜びが湧き、元気が出て来ます。そして自分で黙想して書いた文章を友だちに送っていて、自分自身の信仰のためにとても良いと、熱く語っていました。▽Gさん自身も、教会に来てまだ1か月経っていないけれど、最近聖書を読み始めたことを話して、「自分の居場所(ホーム)にいるようだ」、「考え方がこれまで以上に楽観的(前向き)になった」とおっしゃっていました。互いに神を知り、神と共に歩んでいる兄弟姉妹の存在に励まされ、喜びを感じました。
神を知る:ジョナサン・エドワーズの回心
今日の御言葉の主題である「神を知る」ことに関連して、「アメリカでもっとも偉大な神学者」とも呼ばれるジョナサン・エドワーズの証しをご紹介します。アメリカ独立戦争より少し前の時代、アメリカの大覚醒運動Great Awakeningの指導者として有名な人です。
ジョナサン・エドワーズは、著名な牧師の子どもとして、敬虔な家庭で育ちました。子どもの頃には「神の主権」という教えに恐れを感じ、抵抗を感じていたそうです。友人たちと共に祈り、喜びを経験してもそれは長続きしませんでした。神の前に繰り返し決断して、気付いている悪い生き方を断ち切り、宗教的な義務を果たしても、愛情や喜びは感じませんでした。
17歳の時に、実家の父の書斎にあった聖書を開くと、1テモテ1:17の神様を讃美する御言葉が目に留まりました。「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アーメン。」彼は書いています。「私は物事に対する新たな感覚、神と神聖なものに対する内なる甘美な喜びに導かれました。それは私がこれまで経験したことのないものでした。」その頃から「キリストと贖いの業、そしてキリストによる栄光の救いの道について、新たな理解と認識を持つようになりました。」彼は、世界が全く新しく美しく見え、神の栄光とキリストの御業の美しさに深く魅了されるようになりました。
かつて、頭で理解はしていても、心の感動はありませんでした。教理を理解していても、どこかに反発がありました。しかし彼は、「神についての新しい“感覚”を与えられ」、神の麗しさに魅了されるようになり、「神を知り」「神を愛する」者へと変えられました。
【神を知ること】 ジョナサン・エドワーズの回心のエピソードを通して、「神を知る」とはどういうことかを見ることができます。彼は、子どもの頃から基本的な教理を頭では分かっていました。しかし、この時から、(イエス・キリストを通して)心から神を愛するようになりました。神の素晴らしさを、心の内で知ったからです。「神を知る」とは、神についての教えを頭で理解するだけでなく、その素晴らしさを心から経験して、神様に信頼して、神様を愛し喜ぶことです。[i]

1.神の憐れみの心
ホセア書の文脈
今日はホセア6:6を中心に読みます。新約聖書の福音に繋がる教えです。
ホセア6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
時代背景
ホセアは北イスラエル王国の預言者です。彼が活動したヤロブアム2世の時代は、経済的繁栄の陰で、著しい悪がはびこる時代でした。[ii]
ホセア4:1-2 1 …主はこの地に住む者と争われる。この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもないからである。2ただのろいと、偽りと、人殺しと、盗みと、姦淫することのみで、人々は皆荒れ狂い、殺害に殺害が続いている。
社会に悪が満ちた時代で、北イスラエル王国がアッシリアによって滅亡したのは、おそらくホセアの存命中のことでした。
不誠実な妻を愛するホセア
イスラエルは、神が選んでエジプトの奴隷状態から救い出し、ご自分のものとされた民です。彼らが契約を破って偶像崇拝を行うことは、夫婦の関係を破壊する不倫行為のような、神への不貞行為でした。預言者ホセアは、イスラエルに対する神の愛を象徴する預言的行為として、姦通の女ゴメルをめとります。[iii] ゴメルが生んだ二人目の子は「ロ・ルハマ」(愛されない)、三人目は「ロ・アミ」(わたしの民ではない)でした(ホセア1章)。ホセアは、子どもが自分の子ではないことに気付きます。ホセアとゴメルの結婚は破綻し、激しい夫婦の争いの後に、ゴメルは愛人のもとへ行きますが(ホセア2章)、そこで身を持ち崩します。主はホセアに言われます。
ホセア3:1 …「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」
主がホセアに言われた時、ゴメルは借金を負い、奴隷として売りに出されていました。ホセアは奴隷の代価を支払って、姦淫の妻ゴメルを引き取り、優しい言葉をかけます。「あなたは長くわたしの所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。わたしもまた、あなたにそうしよう」。(3:3)
不誠実な妻のために、忍耐強く愛し続け、代価を払うホセアの姿と、イスラエルの背信を忍び、愛を示し続ける神の姿が、絶えず重なりあっています。
神の憐れみの心
今日の6:6は、そのような文脈で語られた神の言葉です。
ホセア6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
ゴメルは密通の生活から離れることなく、ホセアの目を欺きながら、ズルズルと二重生活を続けました。同じように、イスラエルの民は主への宗教儀式を行いながら、他方では異教の偶像崇拝を続けていました。神を真実に愛し、神の御心を知り、神と共に歩むことはありませんでした。神が求めるのは、宗教行為によって外側を取り繕った二重生活ではなく、夫婦の変わらない忠実な愛のような「真実な愛」ヘセドです。
ホセアは、愛する妻の裏切りが何年も続き、不誠実な態度と家庭が分裂する痛みの中で深い苦悩を味わいました。それを通して、ホセアは神の忍耐と神の痛みと、それをも越えた神の愛を、身をもって知りました。ホセアの預言には、神の深い心の叫びがあります。(以下の聖句で、「エフライム」は北イスラエル王国を代表する部族名です。)
ホセア11:8 エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。…わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。
罪から立ち帰ることのできないイスラエルを前にして、ご自分の聖と憐れみの板挟みになって、自ら苦しまれる神様の心が描き出されます。ここに、新約聖書の福音に繋がる神の憐れみがあります。そしてこの、神の民の罪を自らの痛みとして引き受ける神の聖なる愛が、キリストの十字架による新しい契約に繋がっていきます。[iv]

2.神の憐れみに生きる人の指針
ホセア6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
この言葉は、旧約聖書の教えが目指すところを端的に表す代表的な箇所の一つです。主イエスご自身が、何度かこれを引用しています。それらを通して、この言葉が私たちに何を求めているかを見ていきたいと思います。
①取税人の食卓で マタイ9:13
主イエスが取税人たちや、会堂から追放された罪人たちと一緒に食事をするのを見て、パリサイ人たちが非難した時、主イエスは言われました。
マタイ9:12-13 12…「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
ホセアが姦淫の妻を引き取って愛したように、主イエスは罪人たちと共に食事をされました。それは、彼らが主に立ち帰ることこそ神の御心です。この主イエスの姿の内に、一人の魂をみもとに連れ戻すために、心が引き裂き、その重荷を負われる神の姿を見ます。
②正義と憐れみと誠実 マタイ23:23-28
今日のマタイ23章は、「7つのわざわい」からの抜粋です。23節に「公平とあわれみと忠実」とあるのは、ミカ書6:8から来ていますが、ホセア6:6ともよく似ています。主イエスは、ホセア書の神様のように、頑ななユダヤ人にわざわいを宣言しながら彼らのために心を痛めています。
マタイ23:37 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
ここに、エルサレムを愛し、慈しみ、彼らのために嘆き苦しむ主イエスの姿があります。主イエスはまもなく、彼らの罪のためにも十字架にかかられて、その罪の罰を自ら担って行かれます。
当時のパリサイ人たちは、宗教指導者であり、政治的指導者でもありました。宗教の衣をまといながら、自分の利得を貪った人々もあり、主イエスの殺害を企てたように、暴力をもいとわない人々もいました。▼そう考える時に、主イエスの警告は、教会の外の権力闘争への警告を見ることができます。また、宗教的に熱心に忠実であろうと願う私たちが陥りやすい過ちでもあります。
マタイ23:23-28 23偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。
【適用】私たちが敬虔であろうとする時に、何らかのルールや基準を持つものですが、律法の中心は「公平とあわれみと忠実」であることを、決して忘れてはなりません。主イエスはすべての人が神に立ち帰るように、憐れみをもってすべての人をご自分に集めようとしているのに、ルールを定めることで誰かを排除しのけ者にすることになるなら、それは神の御心をひっくり返すことになります。自分がしているよい業によって、人をさばいたり見下したりするならば、もはやそれは主に喜ばれなくなってしまうことを、私自身心に留め続けています。
マタイ23:25-27 25偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。26盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
27偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
非常に厳しい言葉です。「公平とあわれみと忠実」を、宗教行為に置き換えて、自分の利益を求めて人を虐げるなら、宗教はむしろ命を奪うものになります。厳しい言葉は、厳密に当てはめるならば、キリストの十字架による赦しなしに、主イエスの前に立つことはできません。しかし、主イエスは、彼らを滅ぼすためにではなく、立ち帰らせるためにこれを言われたように、 私たちを倒すためではなく、神の道に導くために、主イエスの十字架によってご自身のもとに招いて下さる主の御心を心に留めて、聖なる主の愛に答えていきましょう。[v]
③「一番大切な戒め」マルコ12:33 神を喜ぶ
ホセア6:6は、マルコ福音書でも引用されます。律法学者が「すべての中で一番大切な戒め」を尋ねた時、主イエスの答えを聞いて、律法学者が答えます。
マルコ12:32-33 32…「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。33また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
最後の「いけにえよりも優れている」とは、ホセア6:6などを踏まえています。ホセア書の「真実な愛」と「神を知ること」が、「心を尽くして主を愛し」「隣人を自分のように愛すること」に置き換えられています。いけにえや捧げものという宗教的な行為よりも、「神を愛し」「人を愛する」ことが大切とされています。▽私のメッセージでもしばしば、「神を愛する」ことを、礼拝出席や聖書の黙想や祈りといった宗教行為によって表しています。でも、この聖句の文脈では、宗教行為そのものではなく、その心の態度が言われています。それでは、宗教行為ではなくて、「神を愛する」とはどういうことか、もう少し聖書を見ていきます。
「神を愛する」ことと「神を喜ぶ」こと
ナルニア国物語を書いた文学者のC.S.ルイスは、「神を愛するとは、神を喜ぶことを学ぶことである」と言ったそうです。それは、言い換えれば「神を最も価値ある宝と見る」ことです。
旧約聖書のネヘミヤは、罪から立ち帰った人々に、「主を喜ぶこと」を勧めました。
ネヘミヤ8:10「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
私たちがほかの何にもまして神様を喜ぶ時に、私たちはもっと神様を知ることを求め、もっと神様と共にいることを求め、神様を愛するのです。私たちの心が、他の何よりも神様を喜ぶ時に、私たちは神を愛するのです。
無神論から神を愛することへ:C.S.ルイスの回心

(c) National Portrait Gallery, London, CC BY-NC-ND 3.0
「ナルニア国物語」の作者として有名なC.S.ルイス(1898–1963)は、ですが、若い頃は熱心な無神論者でした。ルイスはキリスト教家庭で育ちましたが、母の死をきっかけに信仰を失いました。オックスフォード大学で文学と哲学を学んでいた時、彼は無神論者になっていました。しかし彼の中には、彼が「Joy(喜び・憧れ)」と呼んだ、不思議な感覚がありました。美しい音楽や神話、自然に触れる時、彼の心には「どこか別の世界への深い憧れ」が心に湧きました。しかし、「その喜びは、手に入れようとすると消えてしまう」のでした。
オックスフォードでは、「指輪物語」の作者で敬虔なカトリック教徒でったR. R.トールキンなど、多くの友人と議論する中で、ルイスは次第に考えを変えます。ある時ルイスは「もし宇宙に道徳法則があるなら、それを与えた存在がいるはずだ」と考えました。そして1929年、彼は神の存在を認めます。「神は神である」。それは、喜びに満ちた心からの信仰ではなく、理性によって神の存在を認めたのでした。「私はイングランドで最も不本意な改宗者だった。」
1931年、ルイスはトールキンたちと長時間の議論をしました。トールキンはこう言いました。「キリストの物語は神話だ。しかしそれは歴史の中で本当に起こった神話なのだ。」この議論の数日後、ルイスは動物園に向かう車の中で、イエス・キリストを信じたと言います。「私は出発したときには信じていなかった。しかし動物園に着いた時には、私はキリストを信じていた。」
ルイスの回心の過程で、神の存在を否定していた頃にも心に憧れがありました。そして、理性的な思考によって神の存在を認め、やがてイエス・キリストへの信仰へと至ります。彼は神と共に歩み、神を喜び、神を愛する者とされました。
C.S.ルイスは、神を信じることによって世界の見方が変わるという意味で、こんな言葉を残しています。「私は神を信じている。天に昇る太陽を見るようにではなく、太陽によってすべてが見えるように、信じている。」つまり、神を知るようになると、世界について、人間について、苦しみについて、喜びについて、すべての意味が見えるようになる、という意味です。
まとめ
ホセア6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
主は、私たちをどこまでも愛し、探し求めて下さる方です。主が求めておられるのは、外面的な宗教行為ではなく、真実な愛であり、神を知り、神と共に生きることです。それは、頭で理解した宗教ではなく、心から神を喜ぶ生き方であり、神を喜ぶことです。仕事や家庭生活で忙しくする中でも、主を喜ぶことを学んで参りましょう。主ご自身を喜びとする時に、私たちは主を愛し、主と共に歩み、主を深く知るようになります。それこそ、神が私たち人間に備えてくださった幸せな人生があります。
【祈り】天の父なる神様。仕事や自分の役割に追われて、心が渇く時があります。礼拝が味気なく、御言葉や祈りに力を感じず、マンネリ化する時があります。私たちを愛していて下さる神様の愛によって、私たちの心を温めて下さい。あなたの愛を知って、主への感謝と喜びをもって歩ませてください。聖霊が私たちの心を照らし、主の愛を示して下さり、主を喜ぶことを学ばせてください。この地上の生活の、どんなことよりも、主ご自身の素晴らしさを知り、喜ぶ者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
[i]https://learn.ligonier.org/podcasts/5-minutes-in-church-history-with-stephen-nichols/the-conversion-of-jonathan-edwards
https://www.frontlinemissionsa.org/history/jonathan-edwards-a-mind-on-fire-for-christ
https://biblehub.com/sermons/auth/robinson/jonathan_edwards'_conversion.htm
[ii] https://www.youtube.com/watch?v=3UZl9h52fSc
[iii] ゴメルの姦淫が結婚前からか、結婚後からかについては、学者の見解が分かれる。
[iv] 参考:ホセアが知った神の愛(ユダヤ教文献でのホセア書の解釈)https://www.bfpj.org/know/teachingletter/?id=154
[v] パリサイ人たちは、ローマ帝国の支配下にあったユダヤの再興のために、神の律法に従うことが必要だと考えて、細かい規則を作ってそれに従いました。しかし、彼らの多くは、心から律法の精神に従ったのではなく表面的な規則に留まり、自分の敬虔を誇示し、自分を誇って他人を裁き、律法の精神から逸脱しました。

